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『すればするほど幸せになれる感謝のサンプル52』金井健一著

>感謝とは

感謝とはなんでしょうか。本書によれば、

 

自分の周りに存在している有難いことの事実を認めること

だそうです。意外に中立的な定義です。感謝とは利己的行為か、利他的行為かと問われて、利己的行為であると答える人は少ないと思います。感謝というとなんとなく利己よりは利他に近い、身勝手からは遠いような感じがします。けれども、感謝が他人に対して何か利益になる、ということは直接的にはありません。この意味で感謝は別に利他的ではないわけです。感謝の対象を考えるとどうでしょう。なぜ感謝するのか、というとそれは、自分にとって有難いからです。自分以外の人が受益したことについて感謝するというのは美しい行いですが、このときの自分以外の人、というのも話者が感謝を代表することが不自然でなくあろうとすると、厳密には他者ではなく、身内や利害関係者のような、相対的自己になるということは重要なポイントです。相対的というのは感謝される人に対して相対的に、という意味です。ややこしくなったので例を挙げると、自分と自分の子供がコンビニに来店したシーンで、コンビニの店員が子供に飴をくれたら、コンビニの店員に感謝を述べるのは不自然ではないですが、子供がコンビニの店員に飴をあげたときに感謝するのは不自然になるということです。ここまで考えてわかることは、感謝というのには厳密なルールがあって、究極的には自己の利益に対してしか表明することができない、というのがこれにあたります。

 

感謝は別に利他的ではない

感謝は自己の利益に対してしか表明することができない

 

 

>受益したことの負債を返済すること

この事実は何を示唆するのでしょうか。思うに、感謝というのは自己が受益したことによる負債のようなものを返済する役割を持つのではないでしょうか。受益するということに負債を感じる、というのは感覚的にはよくわかる話だと思います。一方的に得をするとなんとなく罪悪感がある、申し訳なく感じる、こういう感覚が共通理解としてあると言えると思います。利他を善、利己を悪とする二元論が、政治的な思惑で生まれたのか、人間の根源的な欲求に従ってそうなったのか、はわかりませんが、そういう感覚や倫理観はたしかにあって、先に述べた単純な二元論が幼稚に感じるとしても、この二元論の発展形が法体系、倫理体系であるということはある程度言えると思います。この二元論は人間感覚の根源的な部分、社会のルールの根源的な部分に結びつきがあるわけです。一方で、人間は利己的存在であるというのも不動の事実です。人は他の生き物を殺しながら、他の人間に迷惑をかけながらでないと生きられない生き物です。我々は利己的な存在でありながら利他を善、利己を悪とする価値観を個人的、社会的に信奉して生きている、分裂した生き物であるいえます。

 

利己が悪、利他が善の二元論の中で分裂して生きる人間という利己的な存在

 

>自己を裁く自己の中の他者

こういう生き物が、同じ性を抱えた他者に出会うとどうなるか。他者も同じ性を抱えていると考え、この二元論で他者を裁こうとするわけです。利己的であることがバッシングされるときは普通、程度を超えて利己的であることが必要なはずです。しかし芸能人叩きを見ているとこの程度を超えて、人間にあって当然の利己が叩かれているということは割とよくあることです。別に芸能人を叩いているうちはいいとして、これと同じことが自分の中でも起こっている、というのが分裂した人間の性の厄介なところだと思います。なぜ利己は悪なのか、利己を悪と判断する機構はどこにあるのか、というとこれは、自己の中の他者というべき機構が我々の認識の中に生まれているんだと思います。前に読んだ『ずっとやりたかったことを、やりなさい(原題:The Artist's Way)』(ジュリア・キャメロン著)では、この自己の中の他者は「検閲官」と呼ばれていました。我々の利己を検閲する存在な訳です。その本でも検閲官を黙らせる、というのは一つの目標に位置付けられていましたが、この感謝というのは検閲官を黙らせる一つの方法である、ということは言えると思います。利益を得たときに何か別の財でその利己を贖うというのは一般的に行われていて、双方が納得しているとこれは利己-利他の枠組みから出て、取引になってきます。それぞれが利己を達成することが相手の迷惑にならない、そういう形を調整したらその利己は許されるわけです。このときに話し合いが持たれて、お互いの妥協点を探るのですが、自己の中の他者とは、本質的に妥協点を探ることができない存在であるということが言えます。それが他者の他者たる所以、他者性というものです。話し合いを持つというのは、お互いの他者性を傍に置いて、共通理解たる言語を使って他者性でない部分で調整を図る行為です。限定付きの理解です。お互いの利害の対立が解消されさえすれば、相手の要求の真の意図には無頓着でいいわけです。逆にいうと相手の真の意図を把握しようとすると必ず失敗するので、ここにはノータッチでやっていく枠組みな訳で、ここを利用すると、究極に相互理解不可能な他者というのが想定可能なわけです。すなわち、絶対に説明不能な行動原理に基づいて、私の意図に絶えず反対の立場を取る他者、というのがこれです。

 

先に述べた我々が受益する際に感じる罪悪感、これは他者に対しての罪悪感に他なりません。私にとって私の受益は純粋に善いものなはずですが、理解不能な理由からこれを悪いものと考え異を唱える他者、理解可能な理由から他者がそうする可能性は事前の準備でなんとかなっても、こればかりはどうすることもできず、我々は受益する際に他者からの批判に完全に自由になることは常にできないのです。この批判に病的なまでの恐怖と検討を加えたのが『人間失格』(太宰治著)だと思います。当ブログでも感想を書いています。

 

『人間失格』太宰治著 - H * O * N

 

そこでも自己の中の他者の話をしましたが、その時は

 

自分の中にいる他人、というのは自分が生み出したもので、確かに自分の一部ですが、それ故に最も自分から遠いものだと思います。というのも、自分の中の自分の意思と、自分の中の他人の意思が合致する形で、自分の中に他人を想定することはできないからです。自分に同意する他人というのは、自分の中にあっては自分に溶け合ってしまう性質のものです。自分の中の他人は、自分の意思に対するアンチテーゼとして想定される宿命を抱えたもので…(略)

と言っています。この枠組みの中で感謝という行為の働きを捉え直すと、この行為がどれだけ大層で高尚な理論武装よりもすぐれて他者への説明責任を果たすかということが判ります。緻密に理論を構築することは、他者の反応のパターンの網羅性を高めはしますが、全く網羅し切ることはできない、他方、感謝は、ただ一言感謝している旨を表明するだけで全ての他者の反応のパターンに対して間違いなく有効なわけです。

 

>まとめ

結局、感謝という行為の究極の意味は、「自分の行為全般を他者に説明する際の、オールマイティな言い訳」ということになると思います。感謝それ自体に意味はありません。感謝がそれを受け取った人にとって何ら利益にならないということは最初に言ったとおりです。だけども感謝を受けた人は何となく納得する、この気持ちこそ我々の社会性の中のルールの一つ、あからさまに明文化すると次の通りです。すなわち、

 

いい目を見た人は関係各位に感謝すること。

感謝された側は納得すること。

 

ということになると思います。