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『自分を信じるということ_ありのままで生きる』和田秀樹著

>自分を信じていないと、

「自分を信じていないと、どうなりますか」

もしあなたが、自分を信じない人、あるいは信じられない人だとしたら、どんな生き方を選ぶかということです。どんな考え方や判断、どんな行動を選ぶのかということです。自分を信じていないのですから、相手や周囲や組織の言いなりになって生きるしかありません。自分を信じていないのですから、新しい何かを始めることも、新しいやり方を試すこともしなくなります。

あるいは、自分を信じていないのですから、おカネや地位だけにしがみついたり、そのときそのときの流行を追いかけるかもしれません。もちろんそういう生き方のほうが楽だと思う人だっているかもしれません。何も考えなくて済むからです。でも、息苦しさや物足りなさ、もっといえば自分自身への不満を感じている人も大勢いると思います。「わたしって、自分がないな」という物足りなさです。「もっと自由に気軽に好きなことができたら、いまよりずっと楽しいだろうな」という毎日への不満です。

 

自分を信じない動機というのは、ここで言われている通り、その方が楽だから、というものだと思います。なぜ楽なのか。責任がないからです。金銭的な保障の必要が生じる、というような具体的なもの以前の、精神的な責任、これだけで我々の行動を変えるに十分な圧力があると私は思います。自分を信じて、自分の我を通すとすると、そこで得られた物は間違いなく自分のものです。我を通すことで快適な思いをすることができるのは我を通した人です。自分の思い通りにしたくて、自分の意見を表明して状況が自分の思い通りになったのだから当たり前のことです。しかしそこには負の側面があります。そのことによって生じた不都合なことは、当然、自分がそのようにしたから、生じたのだ、ということが言えます。これが先ほど言った精神的な責任ということです。友人と旅行する場合を考えてみましょう。自分が行きたいところがあって、それを我を通す形で実現させたら、それが実現したらその快適さは私のものです。しかしその旅行で楽しめない友人がいた場合、その友人の楽しくなさの責任の一端は私の我を通したことにあるような気がしてきます。さらに極端な場合、私が主体になって旅行の企画提案をして、その旅行で友人が楽しめなかったら、友人の時間とお金を浪費させた責任があるように思われてきます。ここまで来るとまともに取り合う必要がないように思われるかもしれません。人に企画してもらった旅行に文句をつけるような人がいたら、その人に内在する問題が大きいように思われるというのは普通の感覚です。

 

 

そうひらき直れるには、ある程度人を信用している必要がある、ということが出てきます。友人が「人に企画してもらった旅行に文句をつけ」ない程度には人間ができている、という信用です。書いていて自分はかなり重症な気がしてきました。旅行に行けないというより、なぜそのレベルの疑わしい人間が友達にいるのか、お前の人を見る目はどうなっているのか、そういう人としてより根源的な問題が山積していて、たかが旅行だったことが、人としての尊厳や値打ちに関わる問題になってしまいました。本書が続けることには、

 

あなたが「こうしたい」「こう言いたい」「こうなりたい」と思ったときには、「それは悪いことだろうか」と自問してみましょう。いままでは「でも嫌われたら」とか、「迷惑をかけたら」「変に思われたら」とブレーキをかけていたことでも、「そんなに悪いことだろうか」と自問すればきっと勇気が出てくるはずです。

こう自問するとはっきりします。旅行を企画されて誘われたらうれしいに決まっています。もしその旅行で何か気に入らないことがあっても、楽しもうと努力するはずですし、楽しめなかったとしても、企画者にその責任があると考えることだけは間違っていると思います。自分はそのようには考えないということは確信を持って言えます。しかし、人がわたしと同様に思考するかどうか、ということについては疑問符がつきます。誰かがそう言いだしたとして、その人と縁を切るなり疎遠にするなりすればいいと思いますが、それがすでにめんどくさいことのはじまりの様な気がします。今までの友人を切って新しい友人を探しに行く、新しい環境に入って行くことほどめんどくさいことはそうありません。それなら多少瑕疵があっても、馴染みのメンバーでつるんでいるのが楽だということははっきりしています。私としては、今のメンバーが価値のある人たちかどうか、ということを試すつもりもなく、ただ楽しく時間をつぶす用に足るのである限りは、有用な友人、と考えると思います。

 

最高ではないが慣れ親しんだメンバーが有用な友人と思っている

 

>友人というレッテル

自分以外の他人がどう判断するかということについては、

 

突き放した言い方のようですが、わかってもらいたいのは「みんな同じだよ」ということです。「自分だけがダメな受験生」と思ってしまえば、不安も自分一人で受け止めるしかなくなります。誰にもわかってもらえないという苦しさも生まれます。でも「みんな同じなんだ」と気がつけば、「自分はダメ」という気持ちはなくなります。たったそれだけのことでもずいぶん楽になるのです。漠然とした不安も同じで、「みんな同じだ」と考えられるようになればそれだけでスッと楽になります。将来への不安も老後への不安も、みんなそれなりに抱えているんだと気づけば、「いまはとにかくできることをやっていこう」というシンプルな結論が出てきます。「それ以上のことは考えても始まらない」という割り切りもできるようになります。「みんな不安を抱えながら生きているんだから、私もやってみよう」と思えるはずです。欲望も同じです。自分だけが変な欲望、卑しい欲望を持っていると考えるから、「自分だけがダメ」となります。でも「みんな同じなんだ」と気がつけば、自分を貶めたり欲深いと悩むこともなくなります。

他人を信じるということについては、

 

自分を信じない人は他人を信じているでしょうか?周囲の思惑を気にして、みんなに合わせているのですから、自分よりは他人を信じているように見えます。でも、他人を信じるというのは、ありのままの自分をその人の前に投げ出しても受け入れられると思えることです。みんなに合わせるというのは、自分を隠してその場の空気や成り行きに合わせることです。つまり他人を信じていないのです。「こんなこと言ったらどう思われるかわからない」「こんなことしたら嫌われるかもしれない」ついそう考えてしまうのも、他人の反応に不安を感じるからで、他人のことを信じる気持ちにはなっていません。もし他人を信じているなら、「きっとわかってくれるはずだ」と思えるからです。自分を信じる人はどうでしょうか。こちらは「こうしたい」という素直な願望に従ってきました。自分の本音を相手にぶつけたこともあります。そのことで誤解されたり、議論になったこともありますが、ほとんどの場合はわかってもらえたり、相手の気持ちも理解できたことが多かったのです。「人は信じていいんだな」というゆったりした感覚が備わっています。

書いていてわかってきたのは、友人かどうかということに対する、異常なこだわりが私にはあるらしいということです。他人や、他人の集団であるグループを固定のものとして扱って、この人、このグループは安全、信用できる、それ以外の人はわからない、危険がある、という風なものの考え方をしています。これは、他人を信じるときに条件を付けていることに外なりません。何か保証が、友人という肩書や、これまで受け入れてくれていたという実績、そういうものに担保された他人のみを信じるという態度です。信じるに足るかどうか問うために不確実な状態で信じてみて、損を引いたら付き合い方を考える、ということはエネルギーを使うことで、信用できるとわかっている人と付き合って、一度信用できると判断したらその判断を問い直すことも面倒なほどに、そこに絶対的なもの、近似的に絶対とみなせるものがないことが不安で落ち着かないのです。ちょうど、

 

自分を信じない人は、自分の感覚を信じることができません。だから、何か絶対的なもの信じようとします。みんなが評価しているもの、みんなが「いいね」と支持しているもののほうが安心できるのです。でもこれでは、自分の身の回りの世界や、そこで感じることなんか取るに足らないものになってしまいます。誰も評価してくれないからです。

本書の態度はここにはっきり示されています。絶対的な保障に頼るのではなく、自分の感覚に頼れと。

 

「嫌だな」と感じるものは「嫌だ」でいいのです。それを言い出せないのなら、せめて無言でいること。ただそれだけでも、自分の感覚に従ったこと、ウソをつかなかったことでささやかな誇りが生まれると思います。自分の感覚を信じるというのは、本来、とても誇らしいことなのです。

たぶんあなたも気がついていると思いますが、ラインのようなSNSの世界にはいつの間にかグループから消えている人がいます。少しも珍しくありません。そういう人は仲間外れにされたのではありません。みんなの感覚より自分の感覚を信じようという気持ちになった人です。

私の思考法は、自分も他人も信じていない人間のそれとしてかなり典型的なものだと思います。実績に頼る方法が科学的かどうか、おそらく非科学的な方法に入るのでしょうが、それはともかく、どうにかして絶対的なもの、自分のその場の感覚よりも少しでも確かなものを渇望しているわけです。そしてその帰結は、

 

自分を信じる人は、自分の感覚を信じることができます。美味しいものは美味しいと素直に認めることができるし、きれいだと感じたこと、「わたしに合う」と感じたことも素直に喜ぶことができます。

これは何でもないことのようですが、精神科医のわたしから見てとても大切な習慣になってきます。自分の感覚というのは信じていいし、それを信じる人が幸せに生きることができるからです。むしろ、幸せが主観的なものである限り、自分の感覚こそ大切にし、それを信じる気持ちが必要になってきます。理由を簡単に説明してみましょう。わたしたちは誰でも、「幸せだな」と感じるときがあります。それがほんとうに些細な出来事、ありふれた体験でしかなくても、とにかく「気持ちいいな」「幸せだな」と感じることができます。仕事が終わってから飲み干すグラスのビール、休日の午後のスイーツや公園の散歩、熱いお風呂に身体を沈めたとき、思わず「幸せだなあ」という言葉が漏れたりします。

もし、毎日の暮らしの中にそういう感覚がいくつも生まれるとしたら、それはそれで幸せな日々ということになるはずです。自分の感覚を信じることができるというのは、幸福感と出会えるチャンスが多いということになります。

自分の感覚を信じられない人でも、一瞬の幸せを味わうことはできるでしょう。みんなが美味しいと言いながら食べているものを自分もほんとうに美味しいと思えたときには安心感と一体感に満たされます。でも、その幸せは長く続きません。自分の味覚がみんなの評価と少しでも違っていればやっぱり不安になるからです。いつも絶対的な感覚や、一つの答えだけを求めてしまい、そこから自分が外れてしまうことを恐れる気持ちがあります。幸せであり続けるためには、何か安心できる枠の中に自分が収まっていなければいけないのです。自分の感覚を信じる人はそこが大きく違っています。世の中に絶対的なものとか、たった一つの正しい答えを求めようとはしません。

自分を信じないことで起こる様々な弊害については、おおむね本書の記載に賛成できます。他方で、自分を信じて他人も信じて、自分を表現した時に起きること、にはまだ懐疑的な気分が残っていますが、これは掘り下げない方がいいということを本書は言っていると思います。というのも懐疑として感じるこの感覚は全く正当なもので、今信じようとしていることは原理的に予見できない種類のもの、信じるという言葉、これは、正しく予想して判断するときには使われません。一足す一は二であることを信じることはできません。これは検証も再現も可能な事柄で、こういうことは信じるという言葉となじまないものです。信じられなくなったら実験するなり偉い人に聞くなりして確かめれば十分確かな保障が得られるものです。そうではなく、原理的に検証不可能、再現不可能なもの、他人の反応というものについては、情報が不十分な状態でこれを信じるしか方法はない、という主張だと思います。

 

実績を信じて損を引くことを避ける傾向

 

>会社組織を相対的に見る

若い読者の方にはぜひ気がついてもらいたいのですが、会社というのは収入を得るために働いている場所でしかありません。だからそのときそのときの仕事をきちんとやっていくだけでいいはずです。先のことを考えて、「いまはこう振る舞ったほうが得だ」とか「こう動いたほうが安全だ」といった計算なんかする必要はないし、疑問に感じること、理不尽と思うことがあったら、これも将来を考えて我慢するのでなく、その場その場で自分の意見を言うべきでしょう。少なくとも、本心を偽ってまで生き残りを図るような場所ではないということです。そんなことをしなくても、ただ目の前の仕事をきちんとやり遂げていくだけで収入を得ることができるし、そのほうが心の健康にもいいからです。何よりも、楽な気持ちで働き続けることができます。そもそも、打算や計算をいくら働かせても、会社というのは期待した将来を与えてくれる場所ではないのです。

この本は、会社を限定的な組織として捉えています。このことは、自己否定に染まっている私でも楽しく働けているという事実と合わせて考えて矛盾はありません。私がなぜ楽しく働けるかを考えることは、自己否定の意味を考える上で有益だと思います。なぜ楽しく働けるのか。端的に答えると、仕事では言語化可能なことしか起こらないからです。仕事の領域にある言語化されていない混沌を開墾していくこと、将来の不確実性のような原理的に言語化不可能なものもどこまでが言語化不可能で、どこまでが言語的なのかを規定していく、その過程で必要になってくる検討や調査、調整、これが仕事だと思っています。自己を否定している人も、自己の何を否定しているのかというと、これは自己の言語化不可能な部分を否定しているのです。自分が生きる値打ちのある人間だとか、ここにいていい人間だとかというと、言語化不可能な事柄になりますから異論があっても、自分はx年x月x日生まれのx歳であるとか、自分は株式会社xxxの社員であるとか、そういう情報に対して否定をする人、というのはいないと思います。否定することはできます、例えばそうじゃなくて私はoo年生まれだから本当はoo歳だとか、株式会社じゃなくて合同会社だとか、その否定は字義通り情報の訂正としての否定であって、ここまで考えて逆説的に、私たちが自己否定をするときの否定ということの意味が浮き彫りになってきました。前者の否定は限定的であるのに対して、後者の否定は無限定の否定です。そもそも、話題になっている自分の価値というもの自体が、非言語的であるという性質上、全く価値がないわけじゃないけど少しある、75点ぐらい、というふうに定量化ができないもので、それゆえに否定も、疑わしい点があるから信用しない方がいい、というぐらいのものなわけです。原理的に排除不能な不確実性を含んだまま受け入れるということ、リスクをとって自分を信じること、これが自己否定の人にはできにくいことなんだと思います。瑕疵のあるものを丸ごと受け入れる。仕事ではこういうことはしなくてもよく、そもそも何かを自分の意思決定によって受け入れる必要はありません。職務で決められていることを粛々とやっていくだけ、経営層以外が意思決定をする機会というのは少ないし、できる限り少ない方がいい組織だと言えると思います。組織に関するこの持論、これは徹底して言語化不可能な混沌を避けるやり方で、私のパーソナリティが色濃く出ているところだと思います。組織論についてはまた別のところで掘り下げるとして、今は組織論で言われる会社の対象像としての自己、それにフォーカスすると、やはり結論は、持論を持つようになったそのパーソナリティの源泉は、言語化不可能な混沌に対する忌避、それを仕事の上で言語化可能なところと切り分けて解釈することに成功したからこその仕事が楽しいという感覚、ということだと思います。

 

わたしが不思議に思うのは、「ブレない」ことが長所や美徳だと考える人がいまだに多いということです。まるでそれが「自分を信じる人」だと思われていることです。

…(略)…

そういう人たちが、では何を信じているかといえば、結局は世の中の絶対的な価値観だったりします。みんなが「こうだ」と決めつけているようなことを、ろくに考えもしないで「そうだ」と信じていることが多いのです。たとえば「仕事は結果がすべてだ」とか、「生産性は何より優先される」といったスローガン的な言葉です。でも、そういう言葉に疑問を感じるときは誰にでもあるはずです。「そうとは限らないんじゃないか」と気がつくときがあります。

そう気がついたときには、ふと疑問を抱いた自分の感覚こそ信じてください。そこからほんとうに考えること、学ぶことが始まります。いろいろな人の意見を、先入観なしに聞いてみる気持ちも生まれてくるはずです。

これだって、「ぶれない人」というのは同僚のパーソナリティとしてかなり信用ができるように思われます。友人としてではなく同僚として。同僚に、昨日までは会社の方針に従ってxxを目標にやってきたけど、今日は気分じゃないから全部取り消してooを目標にしていきます、といわれるとたまりません。会社との方針の違い、というのも、前の部署では自分のやりたいことと会社に求められていることが一致していたので働けていましたが、移動先の部署ではまたミッションがちがっていて、やる気でません、という態度も一人の社会人としては不適格と言わざるを得ないと思います。こういう個々の欲求や嗜好を押し殺して、会社の方針に従って進めていくのが仕事なのです。会社という仕組みは、その基本的な方針の内に自分を殺すということを内包している機構だということがいえそうです。

 

私の場合、上記の通り考えていますが、自分を押し殺したという感覚すらなく、会社に出社して働いているのは別の自分、といういい方の方が私の感覚に近い気がします。会社では会社のルール、会社の信念、会社の美意識に従って行動しますが、それが自分の感覚とぶつかるという感覚はない、一致していても一致していなくても気にしていない、会社にいる自分と会社以外にいるときの自分は別のものだと感じています。会社はそういう場所で、働くというのはそういうロールプレイの場所だと私は理解しています。だから、課の方針転換で、今までやってきたプロジェクトAが不要になって、プロジェクトBが必要になったとき、方針転換以前はAを最優先でやっていて、思い入れもあったとしても、方針転換以降にAを捨てることに葛藤はありません。逆に言うと、Aを最優先でやっている間も別にAによって受益する方々のためにやっているのではなく、会社のためにやっているのです。Aによって受益した人々が、会社に対する好感を持ったり、金銭的な報酬の形でバックしてくれたりして、それが会社の利益になると会社が判断するかぎりにおいてAは最優先だったのです。方針転換という事態はこの価値の転倒で、仕事の優先順位に関する認識も再構築する必要があると考えます。

 

さらに言うと、何度も価値が転倒する会社はいい会社とは言えません。意思決定がぶれているということです。そういう会社に私が所属していたとすると、会社の方針、課の方針に従って、私の動きもぶれた動きになります。会社の枠を超えてみたときに価値のある仕事ができなくなるわけです。しかしこのことは私の行動の一貫性に何ら影響はありません。私は何も日本で一番優れた会社に入って語らくことを目的として持ってはいないからです。毎月20万円そこらの生活費を安定的に受け取ることが目的で、それを満足してくれる会社に所属しているだけです。よくない会社の業績が悪くなって、待遇に変化が出るとか倒産するとかという状況になって初めて私にも行動の必要が出て来ますが、まだそういう状況ではありません。現場の課から見える方針の度重なる転換から、会社そのものの価値が知れたり、現在の首脳陣の限界が知れたりしても、それは会社の問題、首脳陣の問題であって、現場の問題ではありません。逆に、会社の問題、首脳陣の問題をうまく現場に落とせる会社、首脳陣が優秀な首脳陣といえると思いますし、そういう会社が存続していくことになると思います。

 

会社のことはこれ以上言っても脱線なので、この辺で置いておくとして、ただ言えることは、会社でやっていることは、自分の裁量で何か決めるということではない、自分を信じるとか、他人を信じるということは会社というセッティングではおきえないということは言えると思います。会社の外の活動にこそ目を向けるべきだと思います。

 

会社は楽しい、裁量が限定的だから

無限定の裁量がある人生そのものは苦手

 

>人はみな同じ

でも、仕事の遅い人や口下手な人はほかにもいるはずです。そういう人たちのことを「わたしと同じだな」という気持ちで見つめることができれば、「でもみんな、ちゃんとやっているじゃないか」と安心できるはずですが、今度は別の心理が働きます。「でもあの人たちは」と考えてしまうのです。「Cさんは仕事は遅いけど、ミスもほとんどなくて丁寧だ」「Dさんは口下手かもしれないけど、愛想がいいからみんなが話を聞いてくれる」こういった心理、ひと言でいえばどうなると思いますか?自分の欠点を気にする人ほど、他人の長所に気がつきやすいのです。それはそれですごくいいことですが、それなら自分の長所にも少しは気がついてほしいのに、なぜか欠点ばかり気にし続けます。「それに比べてわたしは」と、どこまでも欠点にこだわり続けてしまいます。これでは他人を羨ましがるしかありません。どの人も、自分よりは恵まれている人、短所はあってもそれを上回る長所に恵まれている人になってしまいます。問題は、そこでなぜ、「わたしにだっていいところはある」と気がつかないのかということです。「自分だけが」という気持ちが強過ぎるからですね。「人はみな同じ」という大きな考え方ができないからですね。

…(略)…

相手の長所と自分の短所を比べてしまうのですから、そもそも比較にならないのです。

「人はみな同じ」と考えることができれば、どういうやり方でも試してみる気になります。ハウツー本に書いてあるようなことでも、「うちの職場には当てはまらない」とか、「わたしの場合は効果ない」といった否定的な受け止め方を最初からしてしまうことはなくなります。むしろ、「ちょっと仕事の内容が違うけど、基本は同じなんだから試してみるかな」と積極的な気持ちになることだってあるでしょう。それだけでも、ファーストステップを踏み出すことができます。

ひとはみな同じ、という概念も本書を読むうえで見逃すことのできないワードだと思います。引用2の、「自分や自分を取り巻く状況には当てはまらない、という否定的な考え方を防止できる」、「試してみる気になる」というのは、この観念の効用として新鮮に感じられるものでした。勝ち負けに関する記述、

 

でもなぜ、そこまで「負け」にこだわるのでしょうか?「負け」は自分そのものが否定されることだと考えるからだと思います。いまの自分を守ろうという気持ちが強すぎるために、その自分が何か一つのことで負けてしまったらすべて否定されたように感じるのでしょう。自分がなくなってしまうように感じるのでしょう。

…(略)…

でも頼ることや甘えることを「負け」と受け止めてしまう人は、やはり自分を信じていない人だと思います。そもそも「負け」という発想しか浮かばないのは、他人を信じていないからですね。「きっと軽蔑されているんだろうな」とか、「一人じゃ何もできないやつって思われているんだろうな」と不安になるからです。

というのもやはり根は同じで、勝ち負け、という感覚は根源的には自己と他者を分離する方向を持った概念だと思います。勝ち負けがはっきりつく活動というと勝負事があります。例えば将棋、対局している二人は、将棋に興味を持って好きになって、棋士を志したところまでは一緒なわけです。棋士の人をテレビで見た時に、ある種の同質性に気付くということは私はよくあります。サッカーをやっている人達、バイクを好きな人達とは決定的に違う何かが見出される、その程度には、同質の集団を形成していると思いますし、別にそれは棋士のみんなが示し合わせてルールに従ってそうしているのではなく、先に述べた将棋というコンテンツに対する指向性がその人の振る舞いや雰囲気を内在的に方向付けているというところだと思います。しかし対局が終わって勝負がついた時に決定的に違いが生まれます。勝った棋士と負けた棋士という違いが。この違いは究極的に違う、言い訳のしようのない違いです。将棋がシビアなのは、二人が全く同一の条件で、しかも運の要素なく戦っているという点です。言い訳の余地が全くありません。それに比べると麻雀はぬるい勝負事です、どれだけ負けても「今回は運が悪かった」という言い訳が成立するからです。

 

もう一つ指摘したい勝ち負けの機構があります。学校教育です。私は高校の頃から偏差値至上主義の教育機構の中に身を置いてきました。学校のテストというのも勝ち負けがはっきり数字で出る世界です。当時は疑いなく勝ちに向かって一点でも多く点数を取りに行っていましたが、本書の文脈に即して考えるとこれはどういう意味を持つのでしょうか。勝ち負けを決める、というのは、「人はみな同じ」を全否定することです。人と人との違いにのみ注目すること、勝負事でもそうですが、棋士に勝敗がついた瞬間、二人のプロ棋士、振る舞いや雰囲気がよく似ている二人、から勝った棋士、負けた棋士、という厳然たる区別が生まれます。受験の世界でも、点数がいつか自分の価値になる、点数があがったとき、教室のみんなを抜いた時の全能感というのは何ものにも代えがたいものがある反面、失敗した時や実力が足りなかったときなどはものすごい疎外感です。自分以外のみんなはちゃんと全て知っていて、自分だけがいつまでもぐずぐずやるべきこともわからずに途方に暮れている図になります。

 

何が起きるかというと、本書で指摘されたメリットと逆のことが起きます。勝った時も負けた時もです。すなわち、勝った時には自分のやり方が世界から肯定されて結果が出ていて、その方法が正しいと思い込みます。状況が変わってもそのやり方に固執しようとします。負けたときは負けた時で、まず周囲の人間が自分に何か有益な情報を教えてくれるかもしれない、という発想が出てきません。

 

受験より単純な勝負事、私は将棋には明るくないので麻雀で考えますが、麻雀に関して言うと、自分の打ち方、スタイルというものがあります。引きがいいときも悪いときも、結果を最大化すると思われる方法を検討して、自分に理解できる方法のうち最高のものを採用しています。脳死でこの方法を続けていけば、この方法なりの戦績がマークできるでしょうし、これは検証可能です。戦術を明文化して何千回かテストすれば有意な結果が得られると思います。勝敗に一喜一憂せずにこれを続けていけば、このそれなりの戦績に近づくというのは統計的な事実なわけです。身の回りのいろいろな問題はこういう風にアプローチするべきだとここまで考えて思います。ちなみに逆に、麻雀でもっともやっていはいけないと自戒していることが私にはあります。それはアツくなること、具体的にはここ一番の局でなんとか不利を挽回しようとして勝負を急ぐことです。このミスの類型も日常生活でかなり頻繁にみられるものだと思います。

 

>学生から社会人になってからの心境の変化

学生時代、がちがちの競争社会にいた私は当然、同じ枠組みで会社を測ろうとします。課で一番になろうとする動きが生まれてきます。会社によってはそういう風な向上心が生産性や売り上げにいい影響を与えるものとして、こういう競争をあおる向きがあると思います。しかしうまくいかない、そこからいろいろあって、なんとか会社でやって行けるようになった時に、しかし会社は勝ち負けの論理で動いていないということに気付くようになりました。会社にあるのは、継続可能性の論理ただ一つだと思います。表面上は勝負の論理のように見えても、何のために勝利するか、ということを考えるとやはり会社が末永く継続するためなわけで、将来の状況をよりよくするための戦略として今は勝つことが必要である/望ましい、継続可能性に寄与する限りにおいて勝利を価値あるものとみなす、ということだと思います。個人の側から見た勝負の論理は事情がいちがいます。我々個人が何のために勝つのか、長期的に見ると第一志望に合格するため、とか、戦略的な勝利の意味というものが構想としてあることが知れますが、戦っているその場で当人が考えていることは、「勝ったら気持ちいい、負けたら悔しい」という超近視眼的で本能的な快不快に近いような感覚に支配されてのことだと思います。会社は検討の結果、戦略的撤退、わざと負ける、戦わずに逃げる、ということを選択することもできますが、そういう近視眼的、本能的な感覚の虜になった個人は、戦略に基づいて戦術を変更するということができなくなってしまうと思います。

 

こういう視野狭窄に一役買っているのが、負けた自分は軽蔑されるだろう、価値のない人間と思われるだろうという他者の動向に対する不安であるということが本書では言われています。この問題に関する世界観を再構築する必要がありそうです。旧来の世界観では周囲の人間と自分とを区別し、自分がパフォーマー、舞台の上の役者であるのに対し、周囲の人は観客、審査員なわけです。素晴らしい演技をしたら高得点をもらえる代わりに、へまをすれば減点され、席を立たれてしまいます。これが我々の原体験に基づく世界観だとすると、冷静になって世界を眺め直して気づく新しい世界観は、まず、人はみな同じなわけですから、舞台の上と客席、という区別はありません。しかもみんな舞台の上に立っているわけでもないのに、勝手に自分の精いっぱいの演技をして、採点されるのを待っている。しかし誰も採点しない、というのもみんな自分の演技を取り繕うのに忙しく、他人の演技にまで構っている暇はないわけです。そこで彼は不安になってくる、何の反応もないということは、まずかったか、よくなかったかだろうと自分と他人を信じない安全な方向に考えを進めるわけです。私が模試の点が悪く、疎外感を感じていた教室で起きていたこともまさに新しい世界観で矛盾なく説明できます。あの教室で、わたしの模試の点が悪かったことを知っている人は私を覗いてただ一人もいなかった、なぜならみんな自分の模試の点数を確認するのに忙しく、取るに足らない私のことなど気にしている余裕も、その必要もなかったから。このことは、私が私の友人たちの点数や、その悩みや葛藤を何一つ覚えていないことを考えるとかなり妥当性のある世界観だと思います。

 

勝ち負け、比較優位の世界観

 

>甘え

つまり土居先生もコフートも、「自分がある人」は周囲に許されたり愛されてきた人だと考えたことになります。そこに「甘え」という独自の日本語を持ち込んだのが土居先生ですが、コフートもまた、自分を包み込んでくれる人たちの存在が自分を確立させるためには欠かせないと考えましたから、基本的に、両者の主張は同じということになります。ここで当然、あなたは疑問を持つと思います。「では、子どものころに許されたり愛されたりした経験のない人は、自分がないままなのか」自分があるとか、自分がないというのが、もし子ども時代の経験で決まってくるとしたら、大人になっても自分がない人はそのままだし、自分がある人は何もしなくても自分を確立できることになります。これはとても意味の深い疑問になってくるはずです。じつは土居先生もコフートもこの疑問については考えています。たとえばコフートは、愛されて育ってきた自分のある人でも、みんなに無視されたり頼れる相手がいなくなってしまうと自分がなくなる、と考えました。土居先生も「自分がある」というのはあくまで甘えることができる人だと考えましたから、もし甘えの許されない状況の中にいれば自分もなくなってしまいます。

本書では赦し、甘えという要素が「自分がある」ことの準備段階として意味があると指摘されています。自分の感覚を言葉にすればするほど、自分の感覚そのものからは遠くなる、とすると、言語化という軛から解き放たれて、説明以前に許された人は、自分の感覚のただ中に生きているということが言えると思います。説明しないでいい、ということは社会に出てからはほとんどありません。まず入社の面接のとき、できないなりに自部分の人間性や過去の経験を説明させられます。いや、面接のことはよくわかりません。私は面接は得意な方ではないし、入社試験の面接でも戦績は芳しくありませんでした。周りの人間をつぶさに観察していたわけではありませんが、どうも自分を説明するときに言語的な方法に頼らない人の方がよく受かっていたように思われます。

 

会社に入ってから、は自信を持って言えますが、これは説明の連続です。たとえば、電話を取るときに株式会社xx、oo課の田中です、といいます。決して田中です、とは名乗らないと思います。その人の所属組織がその人をよく説明する、特に仕事で電話をする相手にはよく説明するからです。会社の上司や同僚は、私が率直に感じたことを積み重ねて知り合っていくのではなく、会社組織のルールに従って仕事をしていく内に、相手の仕事の仕方がわかって、それが信用に育っていくんだと思います。だから職場で我々はお互いの趣味やルーツを知らないし、知らなくてもよいのです。友達関係と会社の同僚との人間関係が決定的に違うのはここのところで、会社の同僚と休日遊ぶというのはよほど仲の良い関係のように思われますし、友人と会社を興しても意外とうまくいかないということが起こったりするんだと思います。何において知り合ったか。

 

今働いているから仕事のことばかり言っていますが、大学や高校の友人関係でも、言語を超えた交流というのはかなり崇高だと思います。こちらもやはり説明が先行する、好きな音楽は、好きな映画は、そういう言語的に分解可能な情報のやり取りを通じて、言語的な理解と不可分に友人という人間との非言語的なわかり合いは進んでいく、だから、話した内容はすべて忘れても、友人が懐かしい、ということは起こりえると思います。同じように会社の同僚も、いつまでも一緒に仕事をしていただけといっても、彼に何の感慨も感じない人というのもまたいないと思います。

 

>結局

会社の外で、自分で決めて自分で感じて自分で責任を取ることが必要なんだと感じました。お金になる活動ではなく、将来役に立つ活動でもなく、お金はかかってもいいけど単純な消費でもなく、終わった後に楽しかったという感想しか残らないような活動。友達がいるかいないか、というのはあくまで周縁の要素だと思いました。時間をつぶすのに有用な友人、ということを書きました。やや露悪的な表現だと私も思いますが、友達のそういう側面を見る世界観は、自分が自分を持て余した結果のように感じます。自分の感覚が信じられないから、人が楽しんでいる図が必要なのです。友達が楽しんでいることが自分の不確かな感覚にある種の保証を与えるのです。その意味で、気に入らない友人が確かに「有用」なのです。自分の感覚しか信じない時間というものが少しずつでも必要なんだと思います。これの難しさは、この活動のエッセンスを抽出しようとして定量化すると、そのとたんにその本質が抜け落ちるようなところにあると思います。今私が言っていることに比較的近い活動に、ひとり旅というものがあります。これだって私レベルの人間にとっては非常に有意義な活動なのですが、ひとり旅がひとり旅としての体裁をとるために何が必要かと考え始めると、旅というぐらいだから一泊二日は必要だとか、史跡や観光地のセルヒーが何枚かは必要だとか、ばかばかしい制限がいくつでも際限なく出てきて、きっとそうしている瞬間にも、そのひとり旅は楽しくなくなってきて、このとき抜け落ちた言語化不可能なものに気付くのです。

 

第一我々が我々の活動に名前を付けるとき、ひとり旅をひとり旅と呼ぶときに、言語化による丸めがすでに起きているんだと思います。名前がついた活動はすべてそうなのかもしれません。名前のない活動。私の経験の中でもいくつかは思いつきます。学校からの帰り道、澄み切った水田の隅に、小さい水生生物がたくさんいるのを見つけた時の新鮮な感動。あるいはあの子に振られたその日の夜に、あいつと原付であてもなく国道を飛ばして、空も白みだした頃、見たこともない駐車場で飲んだ缶コーヒーの味。言葉による記述以前の地平で、そう経験したということが、その経験のまま、風景が、匂いが、印象が、水田の緑、砂利の青、空の白、名付け切れない色彩が、記憶に残っている。言語にしないでいい、というのは赦しだと思います。