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『自分を信じるということ_ありのままで生きる』和田秀樹著

>自分を信じていないと、

「自分を信じていないと、どうなりますか」

もしあなたが、自分を信じない人、あるいは信じられない人だとしたら、どんな生き方を選ぶかということです。どんな考え方や判断、どんな行動を選ぶのかということです。自分を信じていないのですから、相手や周囲や組織の言いなりになって生きるしかありません。自分を信じていないのですから、新しい何かを始めることも、新しいやり方を試すこともしなくなります。

あるいは、自分を信じていないのですから、おカネや地位だけにしがみついたり、そのときそのときの流行を追いかけるかもしれません。もちろんそういう生き方のほうが楽だと思う人だっているかもしれません。何も考えなくて済むからです。でも、息苦しさや物足りなさ、もっといえば自分自身への不満を感じている人も大勢いると思います。「わたしって、自分がないな」という物足りなさです。「もっと自由に気軽に好きなことができたら、いまよりずっと楽しいだろうな」という毎日への不満です。

 

自分を信じない動機というのは、ここで言われている通り、その方が楽だから、というものだと思います。なぜ楽なのか。責任がないからです。金銭的な保障の必要が生じる、というような具体的なもの以前の、精神的な責任、これだけで我々の行動を変えるに十分な圧力があると私は思います。自分を信じて、自分の我を通すとすると、そこで得られた物は間違いなく自分のものです。我を通すことで快適な思いをすることができるのは我を通した人です。自分の思い通りにしたくて、自分の意見を表明して状況が自分の思い通りになったのだから当たり前のことです。しかしそこには負の側面があります。そのことによって生じた不都合なことは、当然、自分がそのようにしたから、生じたのだ、ということが言えます。これが先ほど言った精神的な責任ということです。友人と旅行する場合を考えてみましょう。自分が行きたいところがあって、それを我を通す形で実現させたら、それが実現したらその快適さは私のものです。しかしその旅行で楽しめない友人がいた場合、その友人の楽しくなさの責任の一端は私の我を通したことにあるような気がしてきます。さらに極端な場合、私が主体になって旅行の企画提案をして、その旅行で友人が楽しめなかったら、友人の時間とお金を浪費させた責任があるように思われてきます。ここまで来るとまともに取り合う必要がないように思われるかもしれません。人に企画してもらった旅行に文句をつけるような人がいたら、その人に内在する問題が大きいように思われるというのは普通の感覚です。

 

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『オナニスト宣言 - 性的欲望なんていらない!』金塚貞文著

>異性を見て興奮することとオバケを見て恐怖すること

 

例えば、何か恐いものを見たとしよう。心臓がドキドキして、恐怖を感じ、逃げ出したりなどするはずである。そこで、恐いものと切り離して、恐怖だけを考えることができるだろうか。恐怖とは何かが恐いことであり、恐いもののない恐怖とは理解しがたい文章である。確かに、漠然とした恐怖というものはあるだろう。しかし、それは恐いものが漠然としているのであり、漠然とした何かを恐がっているのである。性的なものを見て、性的興奮を覚え、セックスしたいと思い、性器が勃起し、性的行為に駆られるという性的な場面から、性的なものを切り離して、興奮し、抱きたいと思い、勃起し、行為に駆られるのは性的欲望の現われだと言うのは、この例で言えば、恐怖を感じ、心臓がドキドキして、逃げ出すのは、恐怖欲望の現われだと言うのと何一つ変わらない。もちろん、恐怖による身体の生理的変化はアドレナリンがどうのこうのと説明され得る。だが、アドレナリンが分泌されると恐怖欲望なり、恐怖本能が昂ぶるなどと真面目に主張する人はいない。恐怖を経験する場面では、恐いものを見て恐怖を感じる、その際、アドレナリンの分泌によって血圧が上昇して心臓がドキドキするし、逃げ出したりする。それ以上の説明は必要としないのに、こと、性的な場面となると、性的なものを見て、興雀して性的行為に駆られるというだけでは納得せず、そこに性的欲望なるものを挿入して、性的な対象と主体とを無理やり切り離し、性的欲望なるものがあたかも性ホルモンといった生理的実体の作用であるかのように見做されるのはどうしてなのだろうか。

 

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『成功は「気にしない人」だけが手に入れる』信長著

>なぜ失敗してはいけないのか

私は、新人ホスト時代に、「キャッチ」といって路上でお店への呼び込み行為をさせられていた(現在は条例により禁止)。当時は、どのホストクラブも、新人にはまずキャッチをさせていたのである。

最初に私は、路上でキャッチをしている何人ものホストを観察することから始めた。そこで目の当たりにした光景は、イケメンであまり声をかけないホストより、ブサイクでも、遠慮なくアタックしているホストの方が、成功率が高いということだった。

…(略)…

とにかく、自分の気持ちを相手に伝えることから始めてほしい。そして、もしそこでうまくいかなかったとしても、まったくめげることはない。なぜなら、うまくいかなかったことを思い悩む代わりに、別の女性に声をかければいいだけなのだから。

 

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『売る身体/買う身体 ― セックスワーク論の射程』田崎英明編著

>セックスワークセックスワークでない労働の比較から見る職業選択の自由

本書は、性風俗は労働である、との視点に軸足を置いて論じられている、ということが後書きで言われています。これは、女性解放論の文脈でこう言われる時には、性風俗を一律で禁止するのではなく、セックスワーカーのワーカーとしての権利を認めて、労働環境の改善、労働者の地位向上を図っていく、その枠組みの中で戦うべきであるという話になって、第一章「プロスティチュート・ムーブメントが問うもの」の中では、旧来のジェンダー論で主張されてきたプロスティチュートを全て被害者と見做して、セックスワークという枠組み自体をなくすという趣旨の主張に幾つかの反論が紹介されています。セックスワークを職業として選択する自由の話を聞いていると、我々はこういう遠い世界の話を自分の身近な問題、すなわち自分の職業選択の自由の話に惹きつけて考えることができます。こういうことは守られ権利が保障されていると信じている我々にも普通に起こってくることです。我々にプロのミュージシャンになる自由や、働かない自由がなかったことも、本当は職業選択の自由が、状況によって強制されていたと見ることもできるし、逆に我々の自由はそういう状況でも保障されていて、セックスワーカーにも同じように保証されているとも言えます。

 

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『すればするほど幸せになれる感謝のサンプル52』金井健一著

>感謝とは

感謝とはなんでしょうか。本書によれば、

 

自分の周りに存在している有難いことの事実を認めること

だそうです。意外に中立的な定義です。感謝とは利己的行為か、利他的行為かと問われて、利己的行為であると答える人は少ないと思います。感謝というとなんとなく利己よりは利他に近い、身勝手からは遠いような感じがします。けれども、感謝が他人に対して何か利益になる、ということは直接的にはありません。この意味で感謝は別に利他的ではないわけです。感謝の対象を考えるとどうでしょう。なぜ感謝するのか、というとそれは、自分にとって有難いからです。自分以外の人が受益したことについて感謝するというのは美しい行いですが、このときの自分以外の人、というのも話者が感謝を代表することが不自然でなくあろうとすると、厳密には他者ではなく、身内や利害関係者のような、相対的自己になるということは重要なポイントです。相対的というのは感謝される人に対して相対的に、という意味です。ややこしくなったので例を挙げると、自分と自分の子供がコンビニに来店したシーンで、コンビニの店員が子供に飴をくれたら、コンビニの店員に感謝を述べるのは不自然ではないですが、子供がコンビニの店員に飴をあげたときに感謝するのは不自然になるということです。ここまで考えてわかることは、感謝というのには厳密なルールがあって、究極的には自己の利益に対してしか表明することができない、というのがこれにあたります。

 

感謝は別に利他的ではない

感謝は自己の利益に対してしか表明することができない

 

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『時計仕掛けのオレンジ』スタンリー・キューブリック監督

>野生

物語冒頭から逮捕までのアレックスは野生そのものと言えると思います。無関係な人間への暴力、仲間への気まぐれな虐待、これら無軌道な行いが、アレックスの純粋な自由、自主性から生まれ出ていることは間違いありません。スクリーン上の毒々しい色遣いと露骨な性のモチーフが、アレックスの無辺の衝動の心象をアートに昇華したキューブリック監督の技巧の結晶だと言える出来です。このころのアレックスの無軌道さは、私利私欲をその源泉としているのでしょうか。私はそうではないと感じました。敵の一派をぶちのめすのも、気まぐれで仲間をシバくのも、究極的には面白いからなんだと思います。面白いというのと、私利私欲というのは、どちらも身勝手ですが根本的に違うものです。前者は一匹オオカミなのに対し、後者は組織犯罪的です。前者は意味や大義が生まれる以前の地平にいる認識の志向、振る舞いと刺激が厳然としてあってその帰結には興味を示さない眼差しなわけです。この無意味性が彼の野生の意味、さらに先取りして言うと人間の中の意思というものが帯びる性質の一つだと私は思います。意思は刺激に反応しますが、意味には反応しないのです。彼の監察官に長いお説教をもらっても、その内容を意志が理解することはありません。意志が観ているのは監察官が間違えて入れ歯の水を飲んだことで、なぜそうなのかというとそれが意味を超えて面白いからです。しかしそういう志向は必ず仲間の不理解を生む、現にアレックスは仲間からシノギのあがりが少ないことでもめて、そのことが逮捕の一因になった描写があります。ストーリーはそこをなぞって次の章に進みます。無軌道な振る舞いから始まり、逮捕という挫折、敗北に至るのが本作の第一章だと思います。

 

意味や大義が生まれる以前の地平にいる認識の志向

 

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『人間失格』太宰治著

>罪

人の行いの中で、罪になるもの、というのはどういうものでしょうか。人に大小の迷惑をかける行為である、というのが一般的な回答だと思います。この意味に取ると、本作の主人公葉一はまさに、無罪の人ということができます。彼の懸案は一貫して人に迷惑をかけないことにあって、普通の人が抱える幸せになりたいという利己的な願望が全くなかったわけです。無罪の人であった葉一は、みんなに嫌われることなく愛されて幸せにその生涯を送りました、というのが普通の帰結ですが、本作ではそうはなりませんでした。

 

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