『人間失格』太宰治著
>罪
人の行いの中で、罪になるもの、というのはどういうものでしょうか。人に大小の迷惑をかける行為である、というのが一般的な回答だと思います。この意味に取ると、本作の主人公葉一はまさに、無罪の人ということができます。彼の懸案は一貫して人に迷惑をかけないことにあって、普通の人が抱える幸せになりたいという利己的な願望が全くなかったわけです。無罪の人であった葉一は、みんなに嫌われることなく愛されて幸せにその生涯を送りました、というのが普通の帰結ですが、本作ではそうはなりませんでした。
世渡りの才能。......自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。自分に、世渡りの才能!しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧狡猾の処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。
堀木は、何せ、(それはシヅ子に押してたのまれてしぶしぶ引受けたに違いないのですが)自分の家出の後仕末に立ち合ったひとなので、まるでもう、自分の更生の大恩人か、月下氷人のように振舞い、もっともらしい顔をして自分にお説教めいた事を格言ったり、また、深夜、酔っぱらって訪問して泊ったり、また、五円(きまって五円でした)借りて行ったりするのでした。
この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あのガラスの破片が頭に充満しているような、陰鬱な気分になって来たのでした。「生意気言うな。おれはまだお前のように、縄目の恥辱など受けた事が無えんだ」ぎょっとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、阿呆のばけものの、謂わば「生ける屍」としか解してくれず、そうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それっきりの「交友」だったのだ、と思ったら、さすがにいい気持はしませんでしたが、しかしまた、堀木が自分をそのように見ているのも、もっともな話で、自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だったのだ、やっぱり堀木にさえ軽蔑せられて至当なのかも知れない、と考え直し、「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。
放校、逮捕、友人からの軽蔑と散々な目にあいます。なぜこうなったのか、この不条理が、本作のテーマだと思います。このあとでこれに関しては考えを進めるとして、ここまでのことで、この帰結は彼の罪に起因するものではない、ということはできると思います。彼は常に人に迷惑をかけぬように心がけてきたし、そもそも迷惑の温床になる利己心が欠けていたのです。迷惑の中でも特に人を怒らせ、復讐心を芽生えさせるのは、利己的な動機による迷惑です。この種の迷惑には彼は無縁でした。
さまざまな不幸、酒や薬物に駆り立てられるほどの悲しみは他者からの攻撃によるものではない
>意思
彼は無罪の人であると同時に、意思せざる人だったと思います。彼が持っていた最も強い意思は、人に迷惑をかけない、という意思でしたが、これがすでに自分の意思でなく、自分の中にいる他人の意思だったと思います。自分の中にいる他人、というのは自分が生み出したもので、確かに自分の一部ですが、それ故に最も自分から遠いものだと思います。というのも、自分の中の自分の意思と、自分の中の他人の意思が合致する形で、自分の中に他人を想定することはできないからです。自分に同意する他人というのは、自分の中にあっては自分に溶け合ってしまう性質のものです。自分の中の他人は、自分の意思に対するアンチテーゼとして想定される宿命を抱えたもので、葉一の場合もまた然りなわけです。心の中の他人に全く従った彼の振る舞いは、実際の他人からの評価を得ることは確かにありました。女性の関係者からの惜しみない、無償といってもいい愛と献身、共産主義活動の仲間たちからの信頼がそれです。
或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたのでアネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、「何か面白い本が無い?貸してよ」と言いました。自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。「ごちそうさま」アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。
あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。......いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。......時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。
愛や献身や信頼はしばしば人が渇望する対象です。特に女性からの愛や献身を渇望した経験というのは、男性なら心当たりのある人も多いと思います。しかしこれらはどれも、葉一の渇きを癒しはしませんでした。というより、彼の中には癒されるべき渇きがなかったというべきだと思います。渇きは意思を生み、その意思に突き動かされて前進している限りにおいて、人は幸せなのです。アランの幸福論では、幸せというのは、「次の収穫を約束する収穫」だそうです。
この前進感、渇きが意思を呼び、意思がさらなる渇きを呼ぶ、これが生きるということであり、そういう時の気持ちを生きる実感と呼ぶわけです。こういうとき人は幸せである、仮に不幸の中にいても幸福なのです。そういう当然あるべき渇きがなかった、というのは彼の境遇の原因の一つと言えそうだと思います。
>罪と意思
罪と意思、この二つは人という存在の表裏それぞれの面の関係であるということができます。罪とそれに伴う罰、不幸は、その人の意思を説明できる唯一のものです。人がルールに従っているとき、その人がそのルールの精神に心の底から同意してそのように行動しているのか、ルール違反による処罰を恐れてそのように行動しているのか、を見分けるすべはありません。しかし、人がルールを破ったときはこの逆で、この人の意思は明確です。ルールの精神に同意しない意思を持っていた、それも罰のリスクを超越する程度の強い意思があった、ということが確かに言えます。
他人の意思に関して言えることは究極的にはこの二つだと思います。すなわち、ある人がルールに従うという行動は、意志の存在を証拠立てはしないが、その人が次もそうするという予測は、そのルールが規定する罰の一般的な恐怖程度には信頼を置いて良いものであるということ、ある人がルールを破るという行動は、意志の存在を証拠立て、かつその意思の大きさは罰を恐れる気持ちよりも大きかったということ、この二つがそれです。
言葉で言えばそうですが、こういうことは自分は感覚でとっくにわかっていて、自分が犯した罪のことを考えると、意思があって犯した罪、だけでなく、意思を主張したくて犯した罪、があることに気づきます。さっき言った通り、罪を犯すということは、人に意思を伝える唯一の手段ですから、あえて罪を犯すというのは説得的な意思表示であり、効果的なキャラメイキングである、と言えます。
キャラとしての自覚的なルール違反
>正義
一方で、無罪の人であるはずの彼が、実際には逮捕されている、という事実もあります。逮捕された直接の原因は無理心中でした。無理心中は、敢行する当人にとってはお互いの利益をなんら損なうものではありませんが、当人以外の家族や知人友人や当局には多大な迷惑をかけるものです。認めてしまうと社会が立ち行かなくなる行いなわけです。無罪でありながら法を犯す、という奇妙な状態が彼の境遇には生まれていました。しかし無理心中が社会の迷惑になる、という気づきはかなり視野の大きい話です。それは目の前の死にたいほど悩んでいる人を時間的にも空間的にも置き去りにして、人間が営む社会というシステムの持続可能性を考慮することです。目の前の人の悲しみと人類の存続を天秤にかけた時に、後者を迷わず取れる人は、かなり冷たい感じがしないでしょうか。
それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。
けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」という覚悟は、出来ていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました。
…(略)…
無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、こんい、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が未だかつて味わった事の無s奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。所詮その頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったのでしょう。その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、実感として決意したのです。
我々が苦しんでいる人を見ても無理心中しようという気にならないのは、その程度に鈍感だからだと思います。人の苦しみに触れた時我々は涙を流し、同情もしますが、所詮そこまでで、帰ったら食欲も湧きますし、なんといってもやはり自分のこの意思、この渇きが第一の問題として懸案していて、よそはよそ、うちはうちなわけです。この鈍感さが葉一に欠けていたものだと思います。鋭敏すぎる感覚が意思に含まれる極めて微量な罪も鋭く見付け出し味わってしまう性質、たとえその必要がなくとも、というよりも必要という感覚が彼にはなかったのかもしれません。必要性というのはなにかというと、私の意思、私の渇きのために必要なものなわけですから。我々は無自覚に目の前の人を置き去りにして、社会というシステムのために非人間的な判断を下し続けている、しかも覚悟を持ってやっているならまだしも、鈍感にそのことを忘却しながらそうしている、ということが言えると思います。
彼は正義の人である、ということは可能でしょうか。無罪の人はすなわち正義の人である、というのはもっともらしく聞こえますが、彼が正義の人でないのは明らかです。民主主義の枠組みで正義を定義すると、人が3人集まった時から客観的な意味での正義が生まれてきます。一人の時には、その人の意思は主観的な正義です。二人の時にも、彼らの意思は二つの主観的な正義です。三人になって、意見が2vs1で割れた時、2の方が奉じる正義が客観的な正義と言えます。正義は自分自身を大義名分で脚色しますから、どの正義ももっともらしい理由を持っています。正義というのは理論武装した多数派の意思である、ということができます。
正義というのは理論武装した多数派の意思である
意思は罪を含む、ということを言いました。それを合わせて考えると、正義は罪を含む、ということになると思います。正義が理論武装したがるのも、それが罪を含むことの証拠と見ることもできます。多数派であるという相対的な価値しかない状態で自分を正義だと嘯くのはどこか座りが悪いわけです。自分の正義を信じている人、というのは、自分で理由づけした欺瞞の理論に騙されることができる人であり、自分が仕掛けた嘘に自分で引っかかれる人であり、そういう状態がまさに鈍感なわけです。自分の正義や信念を疑う度合いが高い人は感覚が鋭敏で、葉一はその極致だった、すなわち彼は自分の正義と罪の矛盾に究極的に自覚的だったので、何も意思することができず、それでも絶えず生まれる罪の意識に絶え間無く責めさいなまれることになった。
葉一を見た我々には何が起きるのでしょうか。彼の半生を描いた本作は、意思に含まれる罪に責められ続けた記録です。我々がそれぞれの鈍感さに応じて容易くあるいはかろうじて無視して黙らせた我々の罪の声を、彼の生き様が蘇らせます。彼の苦しみに満ちた懺悔を聞いて気が滅入っている時、黙殺されてきた自分の中の罪の声の部分が救われているんだと思います。この本を読んで感じるつらさは、裁かれることのない多数派の罪に対する内側からの罰なんだと思います。