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『時計仕掛けのオレンジ』スタンリー・キューブリック監督

>野生

物語冒頭から逮捕までのアレックスは野生そのものと言えると思います。無関係な人間への暴力、仲間への気まぐれな虐待、これら無軌道な行いが、アレックスの純粋な自由、自主性から生まれ出ていることは間違いありません。スクリーン上の毒々しい色遣いと露骨な性のモチーフが、アレックスの無辺の衝動の心象をアートに昇華したキューブリック監督の技巧の結晶だと言える出来です。このころのアレックスの無軌道さは、私利私欲をその源泉としているのでしょうか。私はそうではないと感じました。敵の一派をぶちのめすのも、気まぐれで仲間をシバくのも、究極的には面白いからなんだと思います。面白いというのと、私利私欲というのは、どちらも身勝手ですが根本的に違うものです。前者は一匹オオカミなのに対し、後者は組織犯罪的です。前者は意味や大義が生まれる以前の地平にいる認識の志向、振る舞いと刺激が厳然としてあってその帰結には興味を示さない眼差しなわけです。この無意味性が彼の野生の意味、さらに先取りして言うと人間の中の意思というものが帯びる性質の一つだと私は思います。意思は刺激に反応しますが、意味には反応しないのです。彼の監察官に長いお説教をもらっても、その内容を意志が理解することはありません。意志が観ているのは監察官が間違えて入れ歯の水を飲んだことで、なぜそうなのかというとそれが意味を超えて面白いからです。しかしそういう志向は必ず仲間の不理解を生む、現にアレックスは仲間からシノギのあがりが少ないことでもめて、そのことが逮捕の一因になった描写があります。ストーリーはそこをなぞって次の章に進みます。無軌道な振る舞いから始まり、逮捕という挫折、敗北に至るのが本作の第一章だと思います。

 

意味や大義が生まれる以前の地平にいる認識の志向

 

 

>矯正

犯罪の矯正は刑務所であるというのは現実社会の実情の説明ですが、本作ではその矯正の印象をまたしても毒々しく鮮烈に表現する、その方法として洗脳というモチーフを使っています。刑務所の規則を体現したような四角四面の看守長、無為無と有意味の絶妙なバランスで進行する刑務所での日々、このあたりの人間疎外のありさまもまたキューブリック監督の本領といえると思います。ところで野生の章(開始から逮捕までの一連のパートを便宜上そう呼びますが)における無意味と矯正の章(逮捕から洗脳、保釈までのパート)における無意味には明確な違いが認められると思います。前者の無意味は意味以前の認識の喜びがある、意味を超越している無意味、超意味とでも呼ぶべきものであるのに対し、後者の無意味は逆に認識を喪失している、他人から教えられ強制された無意味なわけです。誰かの得や便宜のために、自分の意味を放棄するということです。矯正の章は野生の挫折・敗北の章です。アレックスは自分にだけわかる認識の歓喜、超意味の世界から出て、他人と分かり合うための論理の世界に足を踏み入れるわけです。普段われわれは忘れています。自己の超意志が敗北したという事実を。こういう経験は誰にでもあったはずです。子供の頃、喧嘩をして納得がいかないまま謝罪させられたこと。なぜ文字はマス目の内側に収まるように書かなければならないのか、という問い。逮捕と収監という体験は、先に述べたキューブリック監督の毒々しく鮮烈な再解釈でそういう普遍性を帯びています。

 

与えられた意味、他人と分かり合うための論理

 

>迷走

矯正後の人間、時として非人道的でもあり、説明不在でもあるそれを経て社会に出た人間には何が待っているのでしょうか。苦しんで苦しみ抜いたが、まだ苦しめるつもりなんだ、とはアレックスの言ですが、矯正のためにその人が払った犠牲が称賛され償われるということはありません。社会から構成員に受益されるものは、少なくともその苦しみの保障という名目ではありません。まず過去の過ちの清算ということがあります。裁かれた罪であってさえ、被害者の個人的な復讐や、コミュニティからの拒絶という反応はありますし、我々が人にかける迷惑はそのほとんどが裁かれるほど重大なものではありません。そういうものは基本的に未清算のまま残っていくわけです。被害者や関係各位が納得、あるいは忘却していても、加害者自身が気に病んでいるということもあります。矯正を受けるとその機構は内在化するのです。こうやって絶えず自己を社会に矯正され続けること、あるいは内在化した矯正機構で矯正し続けていくこと、これが社会に参加するということだと思います。その過程で自己破壊衝動や、トラウマを抱え、アレックスは窓から飛び降りるわけです。物語のラスト、ベッドで満身創痍で回復を待ちながら、重要人物と握手する、傍らには超豪華なステレオセットがあって、自由だったあのころから好きだった曲が流れている、というのは社会参加とそれに伴う人間喪失、認識喪失の心象風景の表現なんだと思います。暮らし向きは豊かになり、子供の頃の自分は傷を負っている、というのが、社会という全容の見えない力学の中で生きる人間の実相に迫っていると思います。

 

豊かになる暮らし向き、絶えず強制され続け傷を負う自己