『成功は「気にしない人」だけが手に入れる』信長著
>なぜ失敗してはいけないのか
私は、新人ホスト時代に、「キャッチ」といって路上でお店への呼び込み行為をさせられていた(現在は条例により禁止)。当時は、どのホストクラブも、新人にはまずキャッチをさせていたのである。
最初に私は、路上でキャッチをしている何人ものホストを観察することから始めた。そこで目の当たりにした光景は、イケメンであまり声をかけないホストより、ブサイクでも、遠慮なくアタックしているホストの方が、成功率が高いということだった。
…(略)…
とにかく、自分の気持ちを相手に伝えることから始めてほしい。そして、もしそこでうまくいかなかったとしても、まったくめげることはない。なぜなら、うまくいかなかったことを思い悩む代わりに、別の女性に声をかければいいだけなのだから。
我々の行動を縛る規則、それは失敗することに対する無限定の禁止ではないでしょうか。なぜ失敗してはいけないのでしょう。我々の中にあるこの規則は、過去の体験から学習されたものであるということが言えると思います。そこでこの学習の元になった経験を考えてみると、失敗して怒られたこと、失敗して恥ずかしい思いをしたこと、がいくつか思い浮かびます。どちらも他者の目が介在しています。前者は私の失敗によって実際上の迷惑を被ったか、精神的な苛立ちのような観念上の迷惑を被ったか、と予想できます。後者は、私の失敗を不特定多数の人が見ている時に、私が私の失敗をその不特定多数の一人としてみたと仮定して、その状況における行為者の立場を考えた時に感じる羞恥、あるいは前者と同じように、特定少数の人が私の行為により何らかの迷惑を受けていて、そのことを怒りとして表明してはいないものの、状況全体の客観的な帰結として、やはり行為者の立場を考慮した時に感じる羞恥、という形で指示できるでしょう。失敗における私の責任、公式的なものに関わらず非公式的なもの、責任を感じる私が妥当と感じるもの、というのはどこにあるのでしょう。これを考えると前者に関しては私は責任を、あるいは少なくともその一部を果たしたと言えると思います。私は罪を犯し、怒鳴られたり、有形無形の攻撃を受けたり、したことで罰を受けたのです。もしその罰が十分でなかったとして、罰を執行する機会があったのに、その罰を執行し損ねたとしたら、それは執行者の過失が生まれてくると思います。電気椅子に座らされるのは私の罪によるところですが、電気が流れないときの技術的な不具合や事務の遅滞に、私の罪はありません。後者においては言うまでもなく、執行者不在で執行されていない罰があり、前者のこの、執行者が無能であるばかりに執行し損ねた罰があり、これが失敗の責任の根源的な座を占めているように思われます。執行されなかった罰はどうなるのでしょう。執行者に成り代わって、私が私を罰するのです。失敗を禁止する時、われわれは改悛の情を示しつつ自発的に処刑台の階段を登る、健気な罪人であると言えると思います。
しかし、どだい我々はそのような敬虔な純真無垢な存在ではありません。この行為は表面だけ見れば美しい行為ですが、これが美しい動機でなされたかということは議論の余地があります。しばしば美しい行為は美しくない動機の擬態に使われる、ということは周知の事実で、今回もそういう構造がありそうに思われます。そう考えると、ここにある美しくない動機というのは一つ思いつきます。すなわち、人から罰を受けるよりも自分で罰を与えた方が、手心を加えられるから、と言うのがこれです。
実際そう言う局面をいくつか考えてみて、上記のように推測することは矛盾がありません。例えば偉い人に怒られている時、しおらしい態度を取る、この時心の底から自分の失敗を恥じて、申し訳なく思っているかと言うとそんなことはなく、心にある唯一の想いは、早くこの場が終わって欲しいという強い気持ち、このほかに望むことなどないわけです。我々は自分で自分を手酷く罰したように見せて、実際我々自身はその罰がどれほどつらく苦しいものか、説得的に見せようとします。最初の問い、なぜ失敗してはいけないのか、についても、この辺りに答えがあると思います。法律を熟知して、法律の求めるところを厳密に守る、こういう態度の人間は遵法精神に富んだ人間とは言えません。そういう人間は、ただ法律に明るい人間です。遵法精神の名は、法律と聞いて、中身も見ずに自分の権利全てを投げ出す人間にこそ与えられるべきです。しかも前者のような人間は、いざ法を犯していた時に言い訳ができません。これまでうまく法律をすり抜けてきたことが全て返ってくるわけです。その点後者は、無知さゆえに情状酌量の余地が十分にあるように見えます。失敗への無限定の制限をかけることは、ちょうど後者のような戦略です。法律を学ぶのではなく、ただ遵守することが、消極的な自衛を達成しているわけです。
>失敗してもいい
こう考えた上で本書の記載に戻ると、失敗してもいいと考えることは、失敗した際の罰を他人の手に委ねるということです。これはかなり勇敢な態度であると同時に、実際的な態度、勤勉な態度でもあります。自分で自分を罰するのをやめて、法を学び始め、言い訳の効かない自己責任のステージに足を踏み入れる行為な訳です。本書のメッセージはこう読めます。すなわち、法を守るのではなく、法を学べ、ということだと思います。失敗に関する罪と罰についての我々の行動様式はコストリターンの観点からして最適なんだと思います。怒られている時にしおらしい態度を取ることは、振る舞いとしては合理的です。先の箴言が意味を持つのは、この行動様式が思考様式に影響を及ぼし始めた時です。
>前向きで建設的な意見、適切な行動
今後ますます求められるようになっていくのは、単に気遣いができる人ではなく、どんな場面でも「適切な行動が取れる人」ではないだろうか。
…(略)…
明らかに「このままではダメだ」と思われる状況下において、ダメな理由を列挙するだけの人もいれば、誰もが見落としがちな些細な点を拾い上げ、「ここをこうすると、いい結果につながる」と、前向きかつ建設的な意見を述べ、問題点を改善していける人もいる。
法を守るだけでなく、法を学んだ人、は否応なく、前向きで建設的な意見、適切な行動に向かうでしょう。法を学ぶというのはそういうことです。税法を学べば無駄に払う税金が減る、それと同じように、表題にある、気にしないこと、という法、あるいはその近傍の法を学ぶと、必ず無駄に守っていた領域があることが知れる、無知な我々が守る領域と守るべき領域には隔たりがあって、たいてい狭い守るべき領域を覆い隠すように無駄を含みながら我々が守る領域が設定されているのでしょう。我々の法を守るという意識が、過去の自分の経験に基づいていることがあると先ほど言いましたが、これが学校教育であっても同じことで、それらの教えはその時経験した時の正しさであり、また生徒として教師から聞く正しさであり、自分を取り巻く状況が変わっていく、今怒られたり恥ずかしい思いをしたりしても、正しく対処できるようになっているかもしれません。教師だって一人の人間で、自分の今の立ち位置に照らして、教師の言うことに従うことが適切なことかどうか、問う必要があるわけです。
>自分は本当にどうしたいか
「自分は本当はどうしたいのだろう?」ということを、キミは大切にしているだろうか。それは、その時々の気分や感情に任せた方がいい、という意味ではない。そんなものに振り回されるのは、未熟な人間のやることだ。
大人ならば、自分の立ち位置をしっかりと見定め、これからどちらの方向に進んでいくのか、つねに冷静に見つめる余裕を持っているべきだ。
仕事が立て込んでいるときや、つき合いに忙しいときなどは、つい惰性に流され、自分を見失ってしまいそうになることもあるが、そんな自分にはっと気づいたら、一瞬でもその場で立ちどまり、「自分は本当はどうしたいのだろう?」と考えるのが大切だと思う。
その意味で自分は本当にどうしたいかということを問うということは、つまり、「今の」自分は本当はどうしたいのか、と問うこと、であるといえます。一つ思い出すことが、私は大学の学部を選ぶ時、この選択が、将来にわたって適切かどうか、と自問していたと思います。ここの記載に従って言えば、その時点で、未来の私にとって適切かどうか、ということは問わなくても良いということになります。今の自分にとって真実であればいいわけです。どこまでを今の自分と捉えるか。本来の意味の今に絞ってしまうと、今の欲望、服が欲しいとか車が欲しいとか、美味しいものが食べたいとか、に終始することになってしまいます。だからここでいう今の自分というのは、自分に予想の立つ将来を含むと考えるべきだと思います。他方、予想の立つ将来を今に含めて考えるということは、今の自分のウェイトが下がるということであり、例えば先ほどの例でも、将来のことを考えて車を買うのはやめよう、とか、自分一人の中で見ても展望が対立するということはあるわけで、この辺りの対立構造をうまく解決することが問題として出てくるわけです。
この本の態度で啓発されたのは、「自分はこう思ってこうした」という論理の明快さです。長期的には展望、短期的には欲望、というものと、行動がセットになっているという意味での明快さ。本書の気にしないという行動原理もこの明快な論理に水を差す出来事というものを排除する方向を持っていて、それゆえにその明快さが行動に向かうわけです。こういう言い方をする時、見通しのまずさというのは問題になりません。その時そう思ったことは、そう思った内容に関わらず事実に間違いないからです。ここまでを踏まえて、我々が取る行動のうち、正しいものと誤っているものを整理すると、以下の通りとなります。すなわち、まず一つには自分で考えて自分で行動する限りにおいて、結果は成功失敗どちらにせよ、その一連の出来事は正しい(=失敗してもいい)。さらに一つは、自分で考えて行動しようと思ったが、さらに先のことを考えて行動をやめるのは正しい(=予想の立つ将来を考慮した)。誤っているものとしては、一、人の考えに従って行動するのは正しくない。二、自分で考えたことに人が反対したからといって、行動をやめるのは正しくない。
判断が難しいが誤りであるものとして、自分で考えたが、人が反対することを「想像して」、行動することをやめるのは正しくない、という命題があると思います。我々が乗り越えるべき壁がここにあると思います。著者は自身で生まれつき気にしない才能があったということ言っています。我々はその才能がないために、著者よりスタートラインが一つ後ろなわけです。