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『オナニスト宣言 - 性的欲望なんていらない!』金塚貞文著

>異性を見て興奮することとオバケを見て恐怖すること

 

例えば、何か恐いものを見たとしよう。心臓がドキドキして、恐怖を感じ、逃げ出したりなどするはずである。そこで、恐いものと切り離して、恐怖だけを考えることができるだろうか。恐怖とは何かが恐いことであり、恐いもののない恐怖とは理解しがたい文章である。確かに、漠然とした恐怖というものはあるだろう。しかし、それは恐いものが漠然としているのであり、漠然とした何かを恐がっているのである。性的なものを見て、性的興奮を覚え、セックスしたいと思い、性器が勃起し、性的行為に駆られるという性的な場面から、性的なものを切り離して、興奮し、抱きたいと思い、勃起し、行為に駆られるのは性的欲望の現われだと言うのは、この例で言えば、恐怖を感じ、心臓がドキドキして、逃げ出すのは、恐怖欲望の現われだと言うのと何一つ変わらない。もちろん、恐怖による身体の生理的変化はアドレナリンがどうのこうのと説明され得る。だが、アドレナリンが分泌されると恐怖欲望なり、恐怖本能が昂ぶるなどと真面目に主張する人はいない。恐怖を経験する場面では、恐いものを見て恐怖を感じる、その際、アドレナリンの分泌によって血圧が上昇して心臓がドキドキするし、逃げ出したりする。それ以上の説明は必要としないのに、こと、性的な場面となると、性的なものを見て、興雀して性的行為に駆られるというだけでは納得せず、そこに性的欲望なるものを挿入して、性的な対象と主体とを無理やり切り離し、性的欲望なるものがあたかも性ホルモンといった生理的実体の作用であるかのように見做されるのはどうしてなのだろうか。

 

 

性器とか、身体のどこかがうずうずするとか、そういう兆候をいきなり性的欲望と呼ぶことは適当ではないように思われる。というのも、性的欲望と呼ぶためには、そうした身体のうずきが性的なものとして了解されていなければならないからである。痒い性器をかいたとしても、それは性的行為ではない。うずきでも、火照りでもいいが、そういうものが性的なものとして実感されるには、何であれ、性的な対象をもった、あるいは、目指した、うずきであり、火照りでなければならない。抱きたい、抱かれたい、誰でもいいから......性的と名指される限り、その欲望には、対象が必ずあるはずであり、はっきりとした対象を欠くようではあっても、曖昧でとりとめのない対象をもっているのである。漠然とした性的欲望とは、漠然としたものへの性的欲望に他ならない。性的欲望とは、汎対象的ではあり得ても、非対象的では決してあり得ないのだ。

表題の二つには、質的な差がない、ということが言われています。

 

なぜ前者ではそれを説明するロジックとして性的欲望が持ち出されるのに対して、後者では恐怖欲求による説明付をされないのでしょう。前者は後者に比べて、個体が生きていくという観点からは必須ではない、ということはあると思います。どんな女性にも心惹かれない男性、というのは物理的な危機から守られていれば寿命まで生きられるでしょうが、高所に恐怖を全く感じない男性というのはどうでしょう。天寿を全うできる確率は低くなるでしょう。必須ではないということは意思が介在するということです。高いところを怖がるという性質と、巨乳が好き、という性質を比べると、前者は個体としてより必然的な性質なわけです。個体としての生存に関わる機能だからです。

 

しかし恐怖の中にも個体としての生存率の向上に資さない恐怖もあります。不条理な恐怖、虫が怖い、異性が怖い、といったものや、先の高所恐怖症についてもある特定のシチュエーションでは生存率向上に全く影響しないといっていい場合もあると思います。これは恐怖の結果を見ているから生じる差異であって、目的でみると恐怖は必ず唯一の目的を持つことが知れます、すなわち死にたくない、怪我をしたくないという安全に対する欲求です。我々の欲求が必ず奏功する必要はないわけです。これは考えてみれば当たり前です。というのも我々の恐怖やその他の情動、さらにそれよりもリベラルで進歩的なものであるはずの理性でさえ、必ず正しいどころか、間違って当たり前のものに決まっています。

 

だから欲求を考えるときは、目的を見るべきだということは言えると思います。その観点で見ると、欲の名を冠する食欲や睡眠欲も、その目的は個体の保存と言えると思います。その意味でこれらの欲は意思の介在の度合いとその性質が性欲よりも恐怖に近いということが言えると思います。思いつく他の一般的な欲にしてもそうで、その意味で性欲vs性欲以外なわけです。性欲だけが個体の保存を超えて、個体の情報を世代を超えて継承していく目的で、その目的を個体は目的と認識せず、個体の目的意識はあくまで単に快楽なのです。一般的な欲という枠組みを取り払って、そういう目的意識に基づく欲を考えると、いくつか思いつきます。例えば破壊衝動、窃盗や虚言、殺人への欲求などと、かなりきな臭いラインナップになると思います。性欲はこちら側のグループに属するのではないかというのが、一つの仮説として言えると思います。

 

この二つの心の動きを説明するときに、意思という言葉を使いました。意思の多寡ということでこの二つの差異を説明すると、必然的な行為よりも、偶発的な行為により多く意思が含まれている、ということが前提としてあるとわかります。この説明の仕方はわかりやすい、いや、わかりやすすぎる説明です。この説明はわかることがメインテーマになった説明なのです。これは司法のロジックです。人が自分を叙述するときの言い方でなく、ルールが人を規定するときの言い方です。自分のことを考えたら、必然性の高いことを強い意思を持って行うというようなシチュエーションはいくらでも思いつきます。しかしそういう主観的な意思は説得力がない、あるいは説得的なものにしようとすると、その意思の主観的たる部分はというと、抜け落ちる性質のものなわけです。本書に通底するロジックはこの種類のロジックで、司法の側からの説明で、本書はその意味で論考なわけです。逆に説明不可能なものを説明不可能なまま伝える、方法を取っていれば本書は随筆に傾くことでしょう。

 

>イデオロギー化された性、言語化された性なる目

 

そういった次第で本書は性的欲望に対する内的な問いよりも、社会構造からの要請を重視します。考察はその方向へ進み、先に述べた性的欲望なるものが(恐怖欲望は生まれなかったのに)生まれたことは、社会の要請であると言われています。

 

社会的な文脈の性的欲望と不可分な支配欲求も、原初純粋な力によるものであった支配のありようを、支配される側にも言語として内在させるという方法に高度化した結果であるということが言われています。これはハッとさせられる話で、本書で言われている化粧の例もそうですが、女性の装いの類型を見ると、それが冠婚葬祭のような、スーパーフォーマルな場におけるそれであっても、人間の身体の特徴のうち、より女性的な部分を強調するようなデザイン、ルールになっていることが知れます。これを盾に、女性自身に見られることに対する欲求がある、というと一気にフェミニズムという枠組みの中のヒール、旧態依然の男性側の論理に傾きます。そうではなく冷静に考えると、そもそも意思というのはあるともないとも知れないもので、誰かの意思は、他者にとっては主観的な形では観測不可能で、かつ自己にとっても主観的経験を超えて認識することはできない、これは自己が自己を見つめる目は、やはり他者性を帯びるということで、主観的経験のみに基づく主張は、自己のうちに自己の他者性による反駁を自ずから含んでいるということがあると思います。女性的な装いをするときの女性の気持ちというのは、他者である男性のみならず、自己である女性にすらも説明不可能なもので、短いスカートを履いている時、見られたい欲求があった、という男性側の理論が予断であるにしても、やはりなぜそのスカートを履いたのかということは、説明できない性質のものなのだと思います。

内在化された性とはまさにこの、自己のうちの他者、自己の主張に反駁する自己、であると言えると思います。

 

ところで、この議論は議論のはじまりからして恣意的ではないでしょうか。というのも女性は自らの権利解放のために、賢い哲学者たちが寄ってたかって2000年かけてやっていて、まだできていない主観的意思の客観的記述という重責を負わされているわけです。そしてこの議論は、そんな重責を女性に負わせる権利が男性にある、という根拠の薄弱な前提が巧妙に隠された議論だと思います。スカートを履いた理由、というとスカートを履いた主体は女性に決まっていて、その主体がその意思を説明するのは自然に聞こえますが、他の人生のシーンで主観的な意思を客観的に説明する必要に迫られる場面というのはないし、本来的にそういうことはあってはならないものなのです。

主観的な意思を客観的に説明できないのは男性も同じです。例えば食欲を例にとってみても、私が今日の昼に魚を食べるとすると、その食事で一尾の魚の命が奪われることは、事実です。こういう昼食の機会を10日持てば同様に魚が10匹減るわけですから、これをもって私が地球上から魚類を滅ぼす意思があったと主張することは可能なわけです。私にそういう意図はないので、濡れ衣を着せられた私は反駁しなければなりません。このときに、私が私の主観的な食欲を客観的に記述しようとする反駁は、手っ取り早いように見えますがこれがこの議論の罠です。この記述は必ず失敗します。だから私に出来る精一杯の否定は、魚類を滅ぼす意図はなかったが、ただなんとなく魚を食べた、ということになりますが、これが言い逃れにしか聞こえないわけです。主観的意思の客観的な説明は魔女裁判です。糾弾される対象と罪状が初めから決まっていて、その裁判自体には意味はなく、むしろ問うべきはその裁判を主催した理由を、主催者が主観的に自問すべきなのです。

 

>客観的な状況を抑えて反論を求める問い方がいかに説得的かということ

 

結局この議論の問題がそのまま性的欲望の問題になります。すなわち、意思があるんだったら性的欲望もあるし、意思がないんだったら性的欲望もない、ということ、また、意思がないんなら性的欲望以外の他の欲望もまたないでしょうし、意思があるなら性的欲望以外の諸々の欲望もあるといえるでしょう。

 

本書の指摘の通り、性的欲望は社会の要請によって生まれたイデオロギー的概念であるというのはそうかも知れません。しかし、ここまででみたとおり、欲望には二つの側面があり、つまり客観的に説明される側面と、主観的に体験される側面があるわけです。客観的側面から意思の問題を云々することは、あくまで前者の欲望の説明であって、後者の主観的体験自体は神秘的なものであり続け、そして、ここが重要ですが、我々が問題にしているのは明らかに後者なわけです。原理的に客観的に記述し得ない、あるいは記述が極めて困難な問題を客観的な形で認識したい、性的欲望にまつわる我々の疼きはここのところにあるのではないかとさえ思います。というのも、我々が実際に目の当たりにする事件や実際に起こす問題行動のその全てが、そのように指し示すからです。例えば、なぜ我々は釣った魚に興味を失うのでしょうか。あるいは、どんなに綺麗な妻を娶った男もセックスレスになるのはなぜでしょう。これら性的欲望にかかる謎というものがどれも、より外側へと向かう力学を持つように見えます。安全圏から外側へ、既知のものから未知のものへと向かう力。