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『売る身体/買う身体 ― セックスワーク論の射程』田崎英明編著

>セックスワークセックスワークでない労働の比較から見る職業選択の自由

本書は、性風俗は労働である、との視点に軸足を置いて論じられている、ということが後書きで言われています。これは、女性解放論の文脈でこう言われる時には、性風俗を一律で禁止するのではなく、セックスワーカーのワーカーとしての権利を認めて、労働環境の改善、労働者の地位向上を図っていく、その枠組みの中で戦うべきであるという話になって、第一章「プロスティチュート・ムーブメントが問うもの」の中では、旧来のジェンダー論で主張されてきたプロスティチュートを全て被害者と見做して、セックスワークという枠組み自体をなくすという趣旨の主張に幾つかの反論が紹介されています。セックスワークを職業として選択する自由の話を聞いていると、我々はこういう遠い世界の話を自分の身近な問題、すなわち自分の職業選択の自由の話に惹きつけて考えることができます。こういうことは守られ権利が保障されていると信じている我々にも普通に起こってくることです。我々にプロのミュージシャンになる自由や、働かない自由がなかったことも、本当は職業選択の自由が、状況によって強制されていたと見ることもできるし、逆に我々の自由はそういう状況でも保障されていて、セックスワーカーにも同じように保証されているとも言えます。

 

 

更に考えると、我々は自分が自由が阻害された状態で行った選択の結果、就くことになった職業の中で、やりがいや夢中になれることを見つけていく、こういうと嘘っぽいしそれがそうなのかということも十分議論の余地があるテーマですが、とにかくそういう時に、我々の社会人としての人生の期間は朗らかな期間、幸多い期間だと言えると思います。こういう働くべき理由、給与をビヨンドした目的、というものが、働いてみるまでに予想していた通りであることはほとんどない、とくに新卒や若い人たちにとってそうであるという事実もあります。働いてみて初めて自分がいかに世間知らずだったかわかり、物事に習熟することや礼儀や権利の主張の仕方を再構築していく、学校でのやり方を思い出したり批判的に問い直したりしてそうしていく、こういう営みであると乱暴にまとめることができると思います。

 

ここまで考えると、求職している個人にとっては選択の段階で完全な自由が保障されていることはその仕事の価値の根源的な所にはないということが言えると思います。

 

>価値体系としての家父長制

プロスティチュートというのは、一つの価値体系の表象と言えると思います。第三章「売買春と資本主義的一夫多妻制」では、性的な行為をセックスワークだけに限定せず、オフィスで要求される「女らしさ」やOLとしての役割にも広げて検討していますが、確かにその指摘の通り、これらは同じ価値体系の系譜を引く美徳、家父長制的、男尊女卑的美徳にそのルーツを持つ規格と言えると思います。ルールを変えることは容易いですが、その根源にある価値体系が入れ替わるのは容易なことではない、家父長制的な価値体系よりも古い価値体系のありようを見てもそれは明らかです。黒人よりも白人が優れているとか、庶民の血統よりも華族の血統の方が優れているとかいう価値体系がかつてありましたが、今そういうことで人を判断するということがナンセンスだということは、みんなわかっています。だけども自分の娘がニグロイドの男性を紹介してきたときにその価値体系を参照することなしに、彼のことをみれるでしょうか。先程ルールを変えるといったのは、何も社会力学の中での大衆の振る舞いということだけではなく、個人の中でも、普段は埋れている古い価値体系が、問題によっては表面化してくるという形で、古い価値体系は死に絶えてはいないわけです。セックスワークをめぐる価値体系の問題もこれと同じで、かつて家父長制的な価値が社会の本流の中で座を占めた時期がありましたが、今はその座を追われています。しかし、公式には禁止されても、オフィスの中で女らしさを要求されるシーンがあり、旧遊郭では法律の網の目を潜る形で売春が続いている、という状況があります。価値体系は変遷していくものであり、家父長制は死に行く価値体系であるということはそうだと思います。この変遷も我々の身近に惹きつけることができます。すでに、労使関係に係る価値体系、我々が会社に属するということ、上司に従うということ、こういうものの破壊の試みが始まっています。今まで弱かった労働者側の権利解放が進んできて、会社という組織への帰属意識の希薄化が進む、というのが女性の権利解放の次の潮流ではないかと予想できます。

 

労使関係の価値体系に惹きつけて考えるとすぐにわかることですが、この価値体系自体には労働者、使用者を虐げ傷つける意図があるわけではありません。両者は命令系統の中のそれぞれの役割が与えられているだけで、上司がえらくて使用者が劣っている、ということはありません。しかし、そのように勘違いする人が、使用者、労働者共に多いということは厳然としてあると思います。この枠組みの中で傷つく人がいるとしたら、多くの場合労働者ですが、それは使用者個人の資質によるものであるといえます。価値体系のいう役割を極端に解釈して、相手の権利を侵害する手合いが出てくるわけです。こういう人に出会った時に労働者側に用意されている対抗手段、人事、監査部局に言いつけるとか、ごねて仕事を休むとかを取らない時にこういう状況が持続的なものとして現れてくるということになります。家父長制的価値体系の盛衰に沿って考えを進めると、今の労使関係に係る価値体型は双方の側に責任と旨みのあるバランスの取れた価値体系だとわかります。

 

家父長制的な価値体系は、労使関係の価値体系に比べるとバランスが悪いと感じるのは、当該価値体系において下位の集団である女性に、拒絶の手立てが用意されていないことが原因だと思います。労使関係の価値体系でも、最も解放の圧力にさらされているのは、使用者側が犯行の手立てを持たない状況、例えば追い出し部屋の問題とか、個別的に上司や職場との関係性の中で、対抗手段をとることが非現実的になっている状況とかです。価値体系はその変遷の中で、双方の陣営に鉾と盾があり、全体で見た時にその他地帯系に従う人、上位集団にとっても下位集団にとっても納得のいく価値体系に磨き上げられていく、その過程で価値体系そのものが死に絶えるということもある、そういう動きになっていると思います。

 

>買う側に関する考察

ここまで言ってきたことは、売買春をめぐる売の側の整理です。売買春の枠組みの中で、実際に人生の一部を使って、血を流して状況に関わっているのは売の側であって、その意味で売買春の主役は売る側な訳です。買う側に関する記述としては、売買春の論を超えて興味深いトピックがあります。

 

>>性欲は本能かどうかの問題

性についての偏見をわれわれは長い間もちつづけてきた。それは、性、性行為は、肉体的な事柄に属し、精神的な現象ではないこと、さらに、肉体的な事柄は、価値が低く、精神的な現象は、価値が高いということである。さらに、いくつかの宗教は、肉体的な事柄は罪であるとさえ主張して、人間を脅かしてきた。そして、この主張は、人間社会にある種の秩序をうち樹てるのに有効であった。下等な動物にもかなり共通することであるが、哺乳動物の性活動、性衝動、性反応は、脳のうちで最も進化した大脳皮質に支配されていることを、大井正は指摘して、次のように続ける。

したがって、性を、精神の活動と分離することができない。性活動は精神作用でもある。じつは、こんなことは、誰でも気づいている事柄である。異性を好きになって、問々の情に悩まされる。異性を好きになるとは性衝動である。悶々の情に悩まされるとは、精神の領域に属する。問々の情に悩まされるのは、たとい下劣な精神だとはいっても、それは精神作用であることには変りはない。また、たとい、それを罪の意識だというならば、罪とは、肉の事柄であるというよりも、精神の事柄であるといわねばなるまい。それは倫理の問題である。つまり、社会生活における価値判断の問題である。わたしにとっては、性を人体の下部の問題としてではなく、脳の問題として引上げ、また、性を社会的な価値の領域にまで公然化することがまず、必要だったのである。性欲が本能ではなく精神の事柄であるということは、すでに大脳生理学者林髞が『性=この不思議な原理』で「人間では、性欲大脳化が完全にできているので、生物学的には性生活は本能ではなく、人間の文化的生活のうちにはいります」と述べている。

大井正は「広義の性器」という概念を提出する。「男性では肩幅とか胸毛とか、女性では乳房とかヒップとか、これらは広義の性器に属する」ということである。「人格」には生理的な意味も加味されていることからいえば、「性器それ自体『人格』の一要素である」から、「性器の行使である性行為が、いわば連続的な経路をとって、すなわち『人格』の内的な形成過程として、肉体的な他の部分、また、精神的な部分にまで作用を及ぼして、『人格』全体を新しく形成させる」のである。ここに、ストーの論理はさらに明確に書き改められた。大井正は「『広義の性器』にも美しさを認めることができる」とするのだが、狭義の性器にも当然美しさを認めることができるはずである。上半身に革ジャンを着せることによって狭義の性器の美しさを強調しようとするのが、シェリー・ローズなのではないだろうか。性器が美しいものであり、性交が人格形成に大きな役割を果たすものであるならば、性交もまた美しいものであるはずである。だとすればポルノグラフィについても否定するのではなく、その内容を問うという考え方が可能になる。

性欲という行動原理は、本能か否か。あるいは性欲という精神的な活動の復権ということが言われています。いずれも我々の常識に対する揺さぶりがあります。後者のことで言うと、性にまつわることがらを論じるときには無条件に何か罪深い背徳的なイメージ、基底和音が流れてはいないでしょうか。しかもその声の源泉を辿ると、幼いころの原体験、テレビでエッチなシーンが流れた時のお茶の間のあの居心地の悪い空気感、我が国においては宗教的な規範意識よりもこちらの方がメジャーだと思います、ではないでしょうか。性にまつわる問題は、他のテーマに比べて十分強いバイアスを持っている、ということは性のことを考えるときに知っておかないといけないことだと思います。

 

別のところで言われていますが、この背徳感、あるいは秘密であるということ、こういうことが性の価値の源泉になっているということも指摘しなければなりません。まとめると、性にとって抑圧は、それを正しく理解することの妨げになると同時にその価値の一部を成すものであるという二重の構造があるということが言えると思います。

 

>>ものの購入と購買イメージの差の問題

パラマーケットの性的な情報は、実際に性交渉の行われる現場で女性たちが提供する性労働によって与えられる性的な刺戟の喚起や充足と同じものではない。一方はイメージであり、他方は現実の身体接触だからだ。この誰でもが知っている違いを誰もが錯誤するように市場経済のパラマーケットによるイメージのシステムは仕掛けている。しかし、パラマーケットによって喚起される欲望が偽物だというわけではない。むしろ実際に生じているのは、商品の本体が実現できる欲望の充足のほうが偽物の位置をとらされてしまうということなのである。

つまり、市場経済における需要とは、商品のモノそれ自体に対してではなく、モノのイメージに対してまず発動される。イメージに欲望した買い手が、モノを購入するのである。マルクスは、フェティシズム論で、商品の価値がそのモノの使用価値属性それ自身に由来するような錯覚について指摘していた。たとえば、金を貨幣とするのは、市場経済の社会的なシステムの側の作用であって、社会的な共同作業であるにもかかわらず、金の黄金色の輝きそのものが「金貨」と呼ばれるような「価値」を本来的にもっと見なされてしまう転倒した観念を的確に批判した。この批判は、さらに、商品の使用価値とそれに向けられる欲望に対しても拡張できるものだ。つまり、商品への欲望とは、実は商品についてパラマーケットを介して構成されたイメージへの欲望の代替にすぎないにもかかわらず、あたかもその商品それ自体が欲望充足を実現する当のものだと見なされてしまうのだ。商品のフェティシズムとは、こうした欲望充足の転倒した観念に対しても与えられなければならない。

私たちの市場経済的な欲望は、モノのイメージによって形成されたものである以上、商品の使用価値それ自体を手に入れたとしても、そのことによって欲望が満たされるという保証は何一つない。外国のエキゾチックな街並みを走るヨーロッパ車のイメージは、日本の無秩序な街路では満たされない。買い手はこうしたイメージとモノそれ自体の差異を十分理解している。しかし、欲望は理解の範疇で解決できる性質のものではない。そうではなくて、身体感覚として生成され、解決されなければならないものであって、理解できるということと、欲望の充足とは直接の結びつきはない。

市場経済は、こうして、モノの購買と消費を消費者による欲望の充足過程としてよりもむしろイメージと欲望のズレの身体的な確認の過程となる。買い手にとって、欲望の喚起とその解消が最大の臨界点に達するのは、購買行動をとった時点であり、それ以降は、欲望充足のズレを不断に生み出す過程になるのだ。

ここでは、経験と予想の関係についての考え方、普通に考えると経験が主、予想が従だと思いますが、実際は予想が主、経験が従であるということ、が示されています。

 

>>家族が性を契機として構成された労働のための組織であるという問題

バタイユがこうして論ずる性的な欲望の社会的見取り図は、非常にシニカルなものになる。つまり、夫婦関係として合法化された性的な関係からはエロティシズムの契機は実は奪われている。完全に奪われてはいないとしても、違犯や悪や不規則な行為として現れるエロティシズムは、継続的で深い関係によって犠牲にされる。同時に、家族は性的な欲望の充足のための集団ではなく―それは近親相姦をタブーとしていることからもわかるわけだが―、むしろ近代以前の社会であれば労働の組織であり、近代化以降の社会であれば消費=〈労働力〉再生産のための組織である。教会がつねに家族の側に立とうとするように、家族とはある種の聖性のシンボルであり続けており、それは世俗化された家族イデオロギーにおいても変わるところはない。というのも、近代の家族には消費の裏側に隠された労働が張りつき、この労働は同時に性的な行為の領域に隠された形で張りついているからなのだ。

他方で、この聖性としての家族の関係から逸脱し、そこにおさまりきらない関係は、「悪」の側に追いやられる。恋愛と性の自由が近代社会ではそれ以前の社会に比べて大幅に認められたかのようにみえながら、エロティシズムとしての性的な欲望は家族という制度によって充足されることはなく、その外側に向かう違犯の領域を必要としているようにみえる。

こうして、資本主義社会であっても、トロブリアンド諸島の住民同様、自由な恋愛と社会的な規範との双方が複合的に組み合わされて恋愛結婚が制度化される。前述したように、大量の人口が集中し、しかも流動性が非常に大きな都市中心の資本主義の社会システムでは、親族組織に依存したカップリングがきわめて困難であるから、人口の再生産のシステムを維持するためには、恋愛結婚のシステムは不可欠の方法だといえた。そして、個人主義と自由・平等の近代主義の理念は、恋愛にきわめて高い価値を与えることになった。同時に、この価値観は、この資本主義が本質的にもつ階級的な構造と差別を巧妙に隠蔽するイデオロギー装置ともなったのだ。他方で、この恋愛結婚のシステムは、さまざまな副次的な作用を性愛のあり方、あるいは性的な欲望の充足のあり方にもたらした。

…(略)…

第一に、性的な欲望と恋愛という感情との結びつきに特権的な位置が与えられた。性的な欲望が恋愛と結びつかないさまざまなケースは、抑圧されるか、周辺に排除された。このため、性的な欲望は恋愛という感情とは相対的に区別されて発動されるため、さまざまな矛盾を抱えることになった。この矛盾は、性的な欲望の抑圧と多様な充足の間を大きく揺れ動くことになる。

…(略)…

第二に、恋愛は、婚姻と人口の再生産へいたる可能性を期待されるがゆえに、異性愛であること、未婚の男女間の感情であることが望ましいという一定の規範と結びつけられた。恋愛は、異性間に限る必要はない。しかし恋愛が結婚を導くための不可欠な前提条件となる資本主義では、恋愛あるいは性的な愛情の関係が何よりも異性愛であることに特権的な位置が与えられてきた。同性愛の排除を西欧のキリスト教文化はその宗教的な理由によって正当化しようとしてきたが、これは資本主義が制度的に必要とした同性愛の排除をイデオロギー的に裏づけるために利用したものであるとみたほうがいい。というのも、非キリスト教社会であっても、婚姻の基本的な条件が異性間のそれであることを法的に規制することになっているからであり、それは、同時にそれぞれの国民国家が国家の人口政策の基礎になりうるような家族という制度を組み込んでいることと無関係とはいえないからである。性的な欲望とその充足や愛情の関係だけであれば、それが同性によって満たされることと異性間で満たされることの間に特段の区別があるとはいいがたい。両者の間にある差異は、人口の再生産という観点だけである。

 

この論が捉え直そうとしている既存の観念の枠組みは、異性愛が主で同性愛が従、あるいは子産みにつながる性的行為は善、それ以外の性的行為は悪とする枠組みなわけです。そのための材料がここで引いた家族に与えられた役割、労働消費活動を問題にする近代資本主義の側からの要請であり、他にも人口政策として国が規範を作る必要があった可能性だったり、制度以前の性の姿を多型性を持つものとして論じる引用だったりがあり、これらは適切に機能しているように思われます。こういう話や研究もさることながら、やはり直感的な気付きとして、家族の中にある鬱屈した感覚、男性を買春に駆立てる原動力が、社会と個人のわかりやすい利害対立の場で生まれたフラストレーションであるという感覚、これは論証を待たずに言えることだと私には思われます。

 

子供の頃、恋愛にまつわることは秘密と羞恥の領分に属する事柄だったと思います。自分が人を好きになったことや、誰かと付き合っているということ、またその関係性の中で執り行われる表現全般。しかし奇妙なことに、結婚するという宣言はきわめてオープンなものであり、時にフォーマルですらあります。恥ずかしくて結婚式を挙げなかった夫婦、という想定は馬鹿げていますが、子供の頃からの感覚で考えるとむしろ自然な振る舞いです。というのは結婚やさらにそのあとの出産は、最も人が羞恥するところの性的行為を強く示唆し、証拠立てすらするものといえるからです。ここのところに性にまつわる社会化、社会的な枠組みの中での成長があります。自由恋愛の領分では個人的な恥ずべき行為であった性的行為が、社会的に宣言しうるもの、労働と再生産の文脈の中へ持ち込まれるということ、この方法によってのみ個人の性的行為は自由たりえ、聖性すら帯びる、ということが言われています。