『少年時代』トルストイ著、原卓也訳
■他者を意識すること
訳者の解説によると、
トルストイはこの作品の中で少年時代という時期の特色を、「それまで見慣れていたあらゆるものが突然まだ知らなかった別の面を示したかのように、ものの見方がまったく変わってくる」ことにあると説明している。そして『少年時代』という作品を前作『幼年時代』からはっきり際立たせているのは、まさに作品の中にはじめて「外部の世界」が示され、「他者」にたいする意識が目覚めた点にあると言ってよい。
この旅でニコーレニカははじめて、自分たちにおじぎをしようとしないばかりか、視線さえ送ってよこさぬ商人や百姓たち、すなわち他人の存在を意識する。
であって、外部の世界、他者の存在が本作のテーマです。
東の空を一面におおう白い雲の上に太陽が昇ったばかりで、辺り一面がおだやかなうれしげな光に照らしだされた。周囲の何もかもが実に素晴らしく、心は軽やかで落ち着いているーーー道は、刈り入れ後の乾ききった畑と露に光る緑の畑の間を、幅広い自然のリボンとなって前方にうねり進んでいく。道端のそこかしこに気むずかしげな柳や、粘っこい小さな葉をつけた白樺の若木が目につき、赤土の乾ききった轍や、道端の青々とした小草の上に、ながい動かぬ影を落としているーーー車輪と小鈴の単調なひびきも、すぐ道ばたを舞うヒバリの歌をかき消しはしない。わたしたちの半蓋馬車の特徴になっている、虫にくわれたラシャだの、埃だの、何か酸っぱいものの匂いが、朝の香りにおおい隠されてゆき、わたしは心の中に喜ばしい胸騒ぎや、何かをやってのけたいという欲求を感ずるーーー真の快楽の前兆である。
馬車で通過する村や町、そのどこの家にもすくなくとも私たちと同じような家族が生活している村や町、束の間の好奇心で馬車をながめ、永遠に視界から消え去っていく女や子供、ペトロフスコエでいつも見なれてきたように、わたしたちにおじぎをしようとしないばかりか、視線さえ送ってよこさぬ店の商人や百姓たちーーーこれらをながめているうちに、わたしたちのことに全く心を使わぬとしたら、一体何がこの人たちの心を占めているのだろう、という疑問が初めて頭に浮かんだ。そしてその疑問からさらに、この人たちはどんな生活を送り、何を生きがいにしているのだろう、どんな風に子供をしつけているのだろう、勉強させているのだろうか、遊びに出してやるのだろうか、どんな風に罰するのだろう、と言った他の疑問がつぎつぎに生じてきた。
最初の旅立ちのシーンでは、主人公一行を歓迎するかのような美しくにこやかな情景描写と、主人公一行に好奇心、冷淡さで接する他人という存在の対比が鮮烈です。
■幼馴染との差
「亡くなったあなたのお母さまはママの親友だったから、厄介になっていられたのよ。でも、おばあさまは怒りっぽい人だって言うし、それに仲よくなれるかどうか、わからないじゃないの。それだけじゃなく、やっぱりわたしたち、いつかは離ればなれになるのよ。あなたたちはお金持で、ペトロフスコエの領地なんかあるけれど、あたしたちは貧乏で、ママは何も持っていないんですもの」
あなたたちはお金持だけど、あたしたちは貧乏なんですもの、ーーーこの言葉と、それに結びつく概念とが、わたしには並はずれて奇異なものに思われた。その頃の私の概念では、貧乏人といえるのは乞食と百姓に限られていたので、貧しさに対するこの概念を、しとやかなかわいらしいカーチェニカと頭の中で結びつけることが、どうしてもできなかったのである。
「ほんとうにうちから出ていくつもりなの?」わたしは言った。「僕たちが別々に暮らすようになるなんて、どうしてなのさ?」
「仕方がないわ。わたし自身だって、つらいんですもの。ただ、もしそういうことになったら、あたし、自分がどうするかわかっているのよ…」
「女優になるんだろう…ばかばかしい!」女優になることがかねてから彼女のあこがれている夢だったのを知っていたので、わたしはすかさず言った。
「ううん、そんなのは、小さかったころ言ったことだわ…」
「だったら何をするのさ?」
「修道院へ入って、そこで暮らすわ。黒い服を着て、ビロードの帽子をかぶって」
カーチェニカは泣きだした。
読者よ、あなた方も人生のある時期に、さながらそれまで見なれていたあらゆるものが突然まだ知らなかった別の面を示したかのように、ものの見方が全く変わってくることにふと気づいたことがあるだろう。その種の精神的変化が、この度の間に初めてわたしの内部に生じたので、わたしはこのときを少年時代のはじまりとみなしているのだ。
馬車の中の幼馴染との会話のシーンですが、この同輩だと思っていたものが実は自分より一歩先んじているという感覚ほど、他者を意識させるものはないと思います。その描写が巧みで、主人公はカーチェニカの夢を腐す事で喧嘩を吹っかけるわけです。しかしカーチェニカは自分の夢を昔のことだといってのけ、あまつさえ夢も希望もない未来まで語って泣き出してしまうのです。いわゆる喧嘩は同レベルのものの間でしか成立しないというやつです。
■大人と子供の差
「いっしょに来るんだ、さあ!よくも書斎のカバンに手を触れるような真似ができたな」私を引っぱって小さなソファ・ルームへ連れてゆきながら、パパは言った。「え?どうして黙っているんだ?え?」私の耳をつかんで、パパは付け加えた。
「すみません」わたしは言った。「どうしてあんな気になったのか自分でもわからないんです」
「ほう、どうしてあんな気になったのか自分でもわからないだと?わからない、わからないだと?わからないのか、わからないってのか?」一言ごとに耳を引っぱりながら、パパはくりかえした。「これからも、よけいなところにでしゃばるか、そうなのか?どうなんだ?」耳に強烈な痛みを感じていたにもかかわらず、わたしは泣かずに、精神的な快感を味わっていた。パパが耳を放すやいなや、わたしはその手をつかんで、涙ながらにキスでおおい始めた。
「もっとぶってよ」泣きながら、わたしは言った。「もっとひどく、もっと痛くぶってよ。僕は役立たずなんだ。嫌われ者なんだ。不幸な人間なんだもの!」
「どうしたんだ?」軽くわたしを押しのけながら、パパが言った。
「いやだ、絶対に行かないから」パパのフロックにしがみついて、わたしは言った。「みんなが僕を憎んでいるんだ。ちゃんと知ってるんだから。でも、おねがい、パパだけは僕の話をちゃんと聞いて、かばうなり、家から追い出すなりしてよ。僕、あんなやつと一緒に暮らしていけない。あいつはなんとかして僕をおとしめようとして、自分の前にひざまずけと命令したり、僕を鞭でぶとうとしたりするんだもの。耐えられないや。僕は小さい子供じゃないんだから、そんなこと耐えられない。僕は死んでやる。自殺するんだ。あいつはおばあさまに、僕が役立たずだなんていったんだ。おばあさまは今、僕のせいで病気になって、きっと死んでしまう。僕……あいつとは……おねがい、お仕置きして……どうして……僕をいじめるんだ……」
パパの折檻の描写がまた活き活きとして、動的なことについては特筆すべきですが、また他者全てに疎外されているという感覚と、それに対する感情の爆発に、怒っていたはずの大人が気圧されるというおかしみがあって、ある種典型的であり、またある種喜劇的である、素晴らしいシーンです。子供は自分の思い通りにならない他者という存在を目の当たりにして、大きな感情の揺れ動きを経験するものだ思います。
■青年時代へ
私たちの議論はいつのまにか自尊心から愛へ移り、このテーマだと話が尽きぬように思われた。私たちの議論は、第三者にはまったく下らぬものに聞こえたかもしれない。それほど議論はあいまいで、一面的なものだったが、わたしたちにとっては高邁な意味を持っていた。私たちのこころは実にみごとに一つの調子にあっていたので、一方の何かの弦にほんのちょっと触れさえすれば、それが他方に共鳴を見出すのだった。私たちは会話の中で触れる様々な弦の共鳴に、喜びを見出していた。外にあふれようとするさまざまの考えをお互いに全て言い表すには、言葉も時間も足りぬような気がした。
こういう語らいが青春そのものであるというのは、よく指摘されることですし、実感として非常によくわかります。他人から見れば一面的なものが、当人にとって高邁な意味を持つ、というのはまさにこの語らいの本質をついていると思います。こういう一面的な見解が、人を少年から一人の自分の意思で判断する人間、つまり青年、大人にしていくために必要不可欠なもので、その意味で一面性は主体性の源泉だと思います。少年時代の経験とその印象の集大成として、少年時代の最後に求める友人が、こういう一面性を共有できる人間で、ただ一緒のクラスの人、一緒の部活の人、という知人の延長としての友人から、そういう友人を区別するのもこの頃だと思います。
少年時代の一面的な語らいは、主体性の芽生えである