『幸福論』ヒルティ著、草間平作訳(1/3)
■仕事
最近仕事のことでツキが回ってきて、機嫌よく仕事をしているのですが、そんな中幸福論と題された本作の第一章が仕事の話題で、共感するところが少なくなかったです。
ひとの求める休息は、まず第一に、肉体と精神を全く働かせず、あるいはなるべく怠けることによって得られるものではなく、むしろ反対に、心身の適度な、秩序ある活動によってのみ得られるものである。
働く人だけが真に楽しみと休養の味わいを知りうる…。先に働いていない休息は、貪欲のない食事と同じくらい楽しみのないものだ。
学生の頃、単位が簡単に取れる学部に入って、何の制約もなく日々を過ごしたことがありますが、閉塞感がすごかったことを思い出しました。日曜は楽しいけど、日曜が連続365日あったら楽しみも365倍かというとそんなことはなく、日曜を365日過ごす苦労というのが別問題として出てきて、結局日曜が心の潤いとなるには、その前提として日々の乾ききった日常とか、回復すべき疲れといったものが必要ということだと思います。
我を忘れて自分の仕事に完全に没頭できる働きびと(アルバイター)は、最も幸福である。例えば…自分の専門分野以外はほとんど何物も目に入らない学者や、いな、ときには最もせまい活動範囲に自己の小天地を築きあげている、いろんな種類の「変わり者」でさえ、この上なく幸福なのである。
まず自分の仕事に詳しいことが必要だと思います。この引用文は、自分の仕事の成果を見ること、という文脈で書かれた文なので、引用文の中の学者や変わり者のように、仕事の対象により多くの知識を持つことは、自分の仕事の成果をより克明に理解することになると思います。
さらに、活動範囲を限定するということも重要だと思います。自分に適した分野、仕事量、拘束時間の中で仕事をするということが、やはり自分の仕事の成果に対するより大きい納得感をもたらすと思います。
何よりもまず肝心なのは、思い切ってやり始めることである。…一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである。
自分の仕事がゴキゲンになり始めたきっかけとして、「先入観をすべて捨ててできることをすべてやる」と考え始めたことが挙げられると思います。例えで説明しますと、自分の担当の仕事を見直してみたとき、他部署、他社の人に聞かないとわからない、許可をもらわないとできない、という状態でストップしているものがかなりたくさんありました。しかし最初に言ったように、先入観を捨ててみると、他部署、他社の人に(正しい手続きを踏んだ上で)話しかけていけない理由は何一つなかったのです。それに気づいて仕事を進めるようになってから仕事がどんどんゴキゲンになっていきました。私のこの経験の、知らない人に話しかける、という部分には確かに、ある種の思い切りが必要でした。しかしまさに最初の一言「初めまして、○○課の××です」といってしまえば、あとは容易、というか普通のコミュニケーションですので、容易とか難しいとかそういう次元のものではありません。仕事というのはこういうことの集合なんだと思います。
ちなみに
自分が学生のとき、大衆居酒屋で自分の仕事のポリシーを熱く語っているオッサンを見て以来、こうはなるまいと心に誓って生きてきましたが、働いてるといろいろ言いたくなるもんなんですね(笑)