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『幸福論』ヒルティ著、草間平作訳(3/3)

■信仰について

 

本書を読んで一番強く感じたのがこの信仰に関することを考えないといけない、ということでした。まず、本書における神、信仰は哲学の対立概念です。哲学が古代から近代にいたるまで、人々が求める疑問への回答を提出出来ていないこと、に触れ、そのことをもって疑問への回答は不可能である、と結論付け、その回答不可能、説明不可能なものを「神」と名付け、神の目で疑問を理解することで、幸福に至る、というのが本書の主張(哲学の失敗から信仰の必要性に至る主張)です。

 

容易に答えられない問(人生の目的とは何か、人間はどこから来たのか…)

哲学が回答を試みるも失敗

当初の問を解答不可能なもの、とみなす

問への回答を「神」と名付ける

神の目を以て人間と世界を説明する

幸福

 

■哲学の失敗

 

ひとが哲学に対して求めてよいことは、…生存の最高の問題に関する真理と解明とを求める人間の魂の飢えを、ただ空虚な、したがって曖昧な言葉でごまかそうとしないことである。…これが、「神のごとき」プラトンから、ヘーゲルショーペンハウエルやニイチェに至るまで、しばしば彼らの主要な仕事であった。

哲学には自分勝手に発明されたおびただしい述語があって、これが通り抜けることのできない垣根のように、普通の人間の理解力や言語能力の領域から哲学を遮断している。しかし、日常の用語法では、言葉は何らかの確定した内容の記号であって、決して無の記号ではない。今、哲学の用語をこうした普通の言葉に翻訳するならば、この覆われた女神は、その力と威厳との全体を包んでいる面紗(ヴェール)をはぎ取られるであろう。

 

これは、私の様なわからないなりに哲学書を読んでいる人間にとっては非常によくわかる話です。哲学をやる動機の中でもっとも純粋なものはこの「生存の最高の問題に関する真理」の探究であって、そういう気持ちで哲学をやっているとここにあるような、煙に巻かれたような、肩透かしを食らったような感覚に陥ることがあります。

 

抽象的哲学は実際に、「存在」をも「生成」をも満足に説明することができなかった。ましてこの二つの根本概念を結び付けて、一つの統一的な原理からこれを説明することは、なおさらできなかった。そうする代わりに、いつもただ、何ら真実の説明を含まない単なる言葉でもって書き換えたに過ぎない。

哲学はこれらの根本概念についてはもはやこれ以上解明する力がなく、すでにその能力の限界に達していることを、したがって、一切の存在と生成には、総じて人間の知識のとうてい近づきえない根源を仮定するよりほかないことを、告白すべきであった。

 

デカルトのわれ思うゆえにわれありにしても、カントのモノ自体の世界にしても、確かに聞けばなるほどと思うのですが、当初の「生存の最高の問題」には手が届かない感があります。生存の最高の問題を考えようと思ったら、生存の最高の問題に至る道のだいぶ手前で、それまで前提としていた基本的なこと(地面があって、家があって、自分がいて、その自分が幸福になる、というような)が思ったほど確かじゃなかった、という感じです。これまで長い間、天才といわれた人たちがやってきてこの成果ですから、少なくとも私が生きている間に、わたしの目の届く場所で、何か哲学の分野で驚くべき発見があって、急に人間が空を飛べるようになった、みたいなことは、本書の言うように起きないだろうとは思います。

 

■神

 

先の「人間の知識のとうてい近づきえない根源」というのが神というわけです。

 

説明できないということが、神の本質である。

神を見ることではなく、むしろ地上のもの、人間のことを正しい仕方で、いわば神の目をもって見て理解することが、明らかに我々の人生目標である。

 

答えを先に決めてしまえばあとは簡単で、何とでもなります。人間の生まれて来た理由は人助けをするためだ、ということも、金儲けをするためだ、ということも、敵をぶち殺すためだ、ということもできるし、哲学的アプローチから見ればそれらに質的な差はないと思います。

 

■信仰するかどうか

 

「生存の最高の問題」に対する回答として神を持ってくる方法には、嘘が含まれがちなところですが、本書では最低限論理的に意味が通る方法で(存在を規定することを放棄するという方法で)神という存在を規定しているのが画期的なところだと思います。

 

哲学が回答しようとしてできなかった問題への回答は不可能で、しかし解答不可能な何らかの真理があって、それを神とする。この神の教えのなかにはその宗教が長い歴史で培った幸福に生きるための方法論があって、これを信じて実践することが幸福につながる、ということになると思います。論理的な方法で答えが出ないから統計的な方法を用いて導かれる答えを正しいものとする、という方法は一般的に受け入れられた方法で、ここで述べられている方法もそれに近いと思います。

 

論理的アプローチとしての哲学、統計的アプローチとしての宗教

 

神を信仰の対象とすることで疑念を黙らせる、というのも効果の一つとしてあると思います。原始仏教の瞑想を紹介した本を読んだ時に、思考を止めることがかなり幸福に関係しているということが述べられていて、そういったことも宗教という巨大な装置の統計的結論のうちに含まれるかもしれません。そもそも生存の究極の問題に対して哲学的なアプローチを採用するのも、そういう疑問に対しては論理的、言語的な回答が与えられるはずだ、という思い込みがあるからだ、とも思います。この、幸福という感覚が論理に属するはずだ、というのもある意味思考の自動反応の産物で、考えてみればそんな保証はどこにもないのです。

 

哲学全体の発展と、私個人の哲学的な業績がきわめて絶望的である以上、そういう形の信仰ならありかな、と思います。ただそれはいまではなく、納得のいくまで哲学を学んで徹底的に途方に暮れてからの話だと思います。本書のなかにも「成功の秘密は不成功にある」という記載がありました。この問題に関しても、成功するかどうかは重要ではない、むしろ不成功こそ価値があるということに、現時点ではなると思います。