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『饗宴』プラトン著

アガトンの家でみんなで飲んでいると、愛についての演説を順番にしていこうという流れになって、いろいろあって最後にソクラテスがすごいいい演説をする話です。みんなの演説が本作の中心なのですが、読んでみて演説を順番にしていってみんなで聞く、というこの文化は割とラップバトルっぽいな、と思いました。当時はソフィストという弁の立つ人が華麗に相手を論破するのが流行っていたので、言語の発達が著しい文明だったんだと思います。

 

■形而下から形而上へ

まず最初にソクラテス以外の人たちが愛について賛美する演説をして、それからソクラテスが真打として愛について語る、という構成になっていますが、最初の四人の演説とソクラテスのそれは明らかに質的に異なっています。最初の四人の話は、前提知識ありきで愛の化身であるエロスを賛美する方法であるのに対し、ソクラテスの話は、認識そのものと理屈を使って愛を述べている、という点に大きな違いがあると思います。

 

当時各人の姿は全然球状を呈して、背と腹がその周囲にあった。それから四本の手とそれと同数の脚と、また円い頸の上には全く同じ形の顔を二つ持っていた。そうして背中合わせの二つの顔にただ一つの頭顱、それに耳が四つと、隠し所が二つ、そうしてその他はすべてこれに準じて想像しうる通りである。人は現在のように直立して、しかも欲するがままに前後いずれの方向へでも歩いた。が、それのみならず一たび急いで駆けようとする場合、ちょうど飜筋斗(とんぼがえり)するものが両足を逆立てながら輪を描いて行くように、彼らはその当時具えていた八つの手足に支えられて輪を描きながら迅速に転がって前進したものである。

最初の四人は終始この調子で、結局これらは外的な権威を仮定して自分の主張がその権威によるものであるとすることで主張に正当性を持たせるという方法であって、これが彼らが形而下である所以だと思います。ただ、世界のことが謎に満ちていた古代だからこんな奇天烈な神話が生まれたのであって、世界のことがどんどんな明らかになりつつある現代でも、奇天烈さが影を潜めただけでやっていることは当時と全く同じ、ということがよくあると思います。例えば我々が信じている現代の科学では、モノというのは微小な分子という粒でできている、というのは常識ですが、この分子というものを自分の目で確かめた人、というのはほとんどいないと思います。この、見たことがないけど確からしいというのは引用の球形の人間と同じだ思います。

 

われわれが分子の存在を自分で確かめたわけでもないのにその考え方をすんなり採用できるのは、分子は存在を確かめれないほど小さい、という思い込みがあると思います。これも当時の球形人間を信じる人たちと同じだと思います。当時の人たちも、そんな昔のことがわかるはずがない、という思い込みがあったのだと思います。現在の科学では過去に人間がどういう暮らしをしていたか、どういう進化を辿って今に至るかに対するある程度根拠のある説明ができるので(それだって確かめた人はほとんどいないと思いますが)、その立場から見ると球形人間が奇天烈に映るのであって、さらに未来の我々から見た我々の常識が、その未来においては奇天烈になっている可能性は否定できないと思います。

 

しかし結局正しいかどうかは重要ではなく、これは態度の問題です。ソクラテスは当時の人たちとおなじ文化水準、常識の中で生きていたにもかかわらず、その主張は、主張の根拠として正直な認識と論理的な正誤を採用していて、この点で彼の主張には血が通い、現代に生きる我々にも理解できる、納得できるものになっていると思います。

 

エロス(愛)とは、まず第一に、何かに対して、次には現に欠乏を感じているものに対して、存在するものだ…

「…愛する者が善きものを愛する場合、その求めているものは何ですか、と、こう訊いたとしたら?」

「それが自分のものになることである、」と私は答えた。

「では善きものを手に入れると、その人はいったい何の得るところがあるのでしょう?」

「それならもっと容易く答えることができます(と私は言う)、その人は幸福になるでしょう」

「実際(と彼女はいう)、幸福なものが幸福なのは、善きものの所有に因るのです。また幸福になりたい人はいったい何のためにそうなりたいのかさらに尋ねる必要はもはやありません、むしろ私たちの答えはこれで終極に到達したように見えます」

一般にいって、善きものや幸福に対するあらゆる種類の欲求はすなわち何人にとっても極めて強大にして狡知に富む愛(エロス)にほかならないのです。それにもかかわらず種々異なった道を取って、たとえば蓄財とか、運動とか、愛智(フィロソフィア)とかいう方面からそれに向かう人々を指して、あれは愛しているとか、また愛者だとかいう人はいない、が、これと反対に、一つの特定の種類の愛に向かい、これを熱球する人々のみが愛という全体の呼称を独占して、愛するともまた愛者ともいわれるのです。

…要するに、愛とは善きものの永久の所有に向けられたものということになりますね。」

…それはすなわち地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇りゆくこと、ちょうど梯子の階段を上るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しい職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになることを意味する。

ソクラテスの話はソクラテスが過去にディオティマという女性から愛に関することを問答した体験を皆に語り聞かせるという形式をとっています。その内容は先述の通り終始納得のいくもので、通常の認識から出発して理解可能なことを確かめながら進んでいっていることがわかります。

 

最初は幸福になる方法としての善きものの所有、という話から始まったはずですが、最後には美の「認識」が最終地点となっていました。この認識と所有の関係は考察の余地があると思います。所有については、こないだツイッターでもいいましたが、所有しているものを永久に所有しようと思っている間は、それらのものが真に自分の所有物なのか注意が必要だと思います。本書でも指摘されているように、所有とは自分に欠乏しているものを求める心の動きである、ということは極めて正当だと思います。すると、真の所有とは、それが自分に欠乏しているという観念が消え去り、それに伴ってそのものを求める心の動きもなくなった状態である、ということができますが、このような心持になったときに人はその所有物に頓着しなくなると思います。

 

所有欲が消えた時、本当に所有したと言える

 

所有というと永続的なもので、認識というと刹那的なものだというのは一般的な感覚だと思います。100万円を持っている、というのと、100万円をみたことがあるというのが、前者が継続的で、後者が刹那的であることは明証的に知れると思います。しかし、先の話を考えると、所有もまた刹那的であると言わざるを得ません。人が本当に何かを所有するときは、そのものに対する欠乏が埋まったその瞬間だけで、次の瞬間からどうでもよくなっている、忘却が始まっていると思います。また、本書で認識を

 

しかるべき器官で観

ることと形容している箇所がありました。このしかるべき器官というのには五感はもちろん、理性も含まれると思います。というのも、本書で最高美に至る道に美しき学問というのがあります。学問を認識する期間は五感よりも理性という方が適切だと思います。

 

以上二点から、すなわち所有するという営みが意外にも刹那に属するものであるということ、またここでいう認識が、五感や理性を含めた人間の心の中で起こること全般であるということから、本書では所有ということと認識ということが割と近いことであると主張されていると考えられると思います。