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『赤毛のアン』モンゴメリ著、村岡花子訳

>アン的なもの

を随所に感じることが、この作品の読書体験であり、また読みどころだと思います。それはアンの行動から感じられることもあれば、アンを取り巻く環境から間接的に感じられることもあります。この作品に登場するものは、人物であれ自然であれ、作者の体験、作者の一面であって、同じ一個人の想像力というところにアンと出自を同じくしていますし、またアンが物語の中で、それらの表象と反応しあいながら人生を送っているという意味で、やはりアン的なものの原因であり、結果であるとも言えると思います。その意味でアンは作者自身である、という訳者解説の言葉はその通りだと思います。

 

>>マシュウ

「マシュウ、まさか、あんたは、あの子を引き取らなくちゃならないというんじゃ、ないでしょうね」

たとえマシュウが、逆立ちしたいと、言い出したとしても、マリラはこんなに驚きはしなかっただろう。

「そうさな、いや、そんなわけでもないがーーー」問い詰められて困ってしまったマシュウは口ごもった。

「わしは思うにーーーわしらには、あの子を、置いとけまいな」

「置いとけませんね。あの子がわたしらに、何の役にたつというんです?」

「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」

突然マシュウは思いがけないことを言い出した。

マシュウは、アンの引き取り手であり、最初にアンを気に入り、以後二人の親子としての絆は絶えることがなかった人物で、二人の親子愛に満ちた姿は非常な美しさをもって胸に迫るものです。寡黙で女性が苦手という、コミュニケーションに難がある人物ですが、コミュニケーションに苦労する描写が、ここぞという場面での彼の発言の重みを効果的に増していて、引用のシーンも普段軽口など叩かない彼が妙な表現を使ってまで主張をする様が可愛らしいシーンだと思います。

 

対照的な性格の二人が出会ったときから最後まで親子として愛し合うその在り方は非常にアン的だと思います。

 

>>カナダの自然

グリン・ゲイブルスの10月は実に美しかった。窪地の樺は日光のような黄金色に変わり、果樹園の裏手の楓は深い真紅の色に、小径の桜は言いようもなく美しい濃い赤と青銅色の緑に染まって、その下にひろがる畑をも照りはえさせていた。アンは自分を囲む色彩の世界を思う存分楽しんだ。

グリン・ゲイブルスに再び春が訪れた。美しい、気まぐれな、しぶしぶやってくるカナダの春。四月から五月にかけて気持ちのよい、爽やかな日が続き、夕日はピンクに雲を染め、ものみなが生き返ったようにすくすくとのびる。「恋人の小径」の楓は赤いつぼみを持ち、「妖精の泉」のほとりには、くるくるとはの先がちちれた、小さなしだが勢いよくはえてきた。サイラス・スローン家の地所のうしろにある野原ではさんざしが咲きだし、黄色い葉の下からピンクや白の星のようなやさしい花がのぞいていた。太陽のさんさんとふりそそぐある日の午後、全校の少女たちと少年たちは、さんざしを摘みに出かけ、晴れ渡った薄暮の中を、楽しげな声をこだまさせながら、手やカゴにいっぱい、はなのえものをたずさえて帰ってきた。

紅と金色で照りはえた10月の朝だった。谷には薄もやがたちこめて、それはあたかも太陽にーーー紫水晶や真珠や銀やばらやくすんだ青色やを、すくいあげさせようとして秋の精が張り渡した網かとも思われた。しっとりと露に濡れた野原は銀糸で織った布地のように輝き、森の窪地には枯葉がうずたかく積もって、かけてとおる足の下で、がさがさと音を立てた。「樺の道」は黄金色の天幕をつくり、下にはえているシダは枯れて褐色になっていた。カタツムリののろのろとは違って、飛ぶように学校へ急ぐ少女たちの愉快な心をいやがうえにも弾ませる刺激剤が、空気そのものの中にこもっているかと思われた。ダイアナと並んで腰掛ける褐色の机に、ふたたび戻っていくのはなんと楽しいことだろう!

論理的な意味を飛び越えて、これらの美しい自然の描写がアン的である、と直感させるような表現だと感じます。

 

>>想像力

そうしたらマーカムはスーザンに向かって、「おやじが俺の名義の畑をくれたんだよ」っていうんですって。そして「どうだい、おれたちゃ、この秋に所帯を持とうじゃないか」って言ったんですって。そうしたらスーザンは「ええ、いいわーーーいいえ、だめよーーーあら、わからないわーーーどうしよう」って。そんな風にして二人は婚約してしまったんですって。でもそんな風な申し込みじゃ、あんまりロマンチックとは思えなかったわ。

「ビロードのじゅうたんよ」アンは酔ったように吐息をついた。

「それに絹のカーテン!こういうものは夢に見たことはあるけど、ダイアナ。でもね、やっぱり、こういうものの中では落ち着いた気分になれそうもないのよ。この部屋にはあんまりいろいろのものがあって、しかもみんな、あんまり素晴らしいもんで、想像の余地がないのね。貧乏なものの幸せの一つはーーーたくさん想像できるものがあるというところだわね」

一つ目は、非常にシブいシーンで、このシーンでアンが見落としたのは、紛れもなく彼らにとっての幸福であったに違いありません。必ず正しい見方をしないといけない、というわけではないのです。当時の農村の幸福のシーンが生き生きと切り取られ、またアンの少女らしい想像力がそれを見落としている、というのが素晴らしいシーンだと思います。

 

二つ目のシーンは本書の後半の方に出てくるシーンで、アンの成長ぶりが見てとれます。アンの想像力がより本質的になっていって、その表現がまた逆説的でおかしみがあります。

 

>>危機回避的でない

「あんまりあんたはものごとを思いつめすぎるよ、アン」

とマリラはため息をもらした。

「一生の間にどのくらいがっかりすることかしれないよ」

「あのね、マリラ、何かを楽しみにして待つということが、その嬉しいことの半分にあたるのよ」

とアンは叫んだ。

「そのことはほんとうにならないかもしれないけど、でも、それを待つ時の楽しさだけは、間違いなく自分のものですもの。リンドの小母さんは『何事も期待せぬものは幸いなり。失望することなきゆえに』って言いなさるけど。でも、あたし、なんにも期待しないほうが、がっかりすることより、もっとつまらないと思うわ」

もう恋なんてしない式の危機回避はアン的ではない、ということです。

 

>>キリスト教の解釈

いつか牧師さんが、小さい時に牧師さんの叔母さんのとこの台所から苺のお菓子を盗んだことがあったというのを聞いて、二度と牧師さんを尊敬する気がなくなったっていいなさるのよ。私はそんなふうには感じないわ。牧師さんが思いきってそう言いなさるなんて、偉いと思うわ。そうして、悪いことをして後悔している小さな男の子たちが、自分もこんな悪いことをしても、それでも大きくなったら牧師さんになれるのだと知ったらどんなに励まされるか知れないと思うわ。

ほんとに一生懸命お祈りしましたのよ、ミセス・アラン。でも目はふさがなかったの。だって神様が私を助けてくださるとしたら、たった一つの方法は、小舟を橋の杭のすぐそばにただよわせていって、あたしをその杭にのぼらせてくださることだってわかっていましたもの。…お祈りはしても、自分もよく目を開けてするだけのことはしなくてはならないと思ったのよ。

引用の箇所の思想は、純粋にキリスト教的であるかどうかというと、そうではないような気がします。特に後者について、自助努力を否定する内容があったように記憶しています。それはさておき、キリスト教文化圏ではない我々にとっては、このアンのキリスト教の解釈の仕方にアン的な要素を感じるというのが正しい読み方だと思います。

 

>>率直さ

「あの女の人たちがつけていたダイヤモンドを見た?」ジェーンはため息をついた。

「まぶしいばかりだったわね。お金持ちになりたいと思わない?あんたたち」

「私たちはお金持ちよ」とアンが断言した。

「だってあたしたち十六年も生きてきたでしょうーーーそして女王のように幸せでそれにみんな多少の想像力を持っているし、あの海をごらんなさいよ、全部銀色と影と、そして目に見えないものの幻ばかりよ。たとえ百万ドル持っていても、ダイヤモンドの首飾りを何本持ったって、この美しさをこれ以上楽しむわけにはいかないわ。あたし、他のどんな女の人とかえてくれるからといっても、かわりたくなんかないわ。あの白いレースの人になって、しょっちゅう、ふきげんな顔をしていたいと思って?まるで生まれつき、世の中を軽蔑してるみたいに!それともあのピンクの女の人みたいに、親切でよい人ではあっても、あんなに太って背が低くて、全然スタイルがなってないようになりたいと思う?エバンス夫人だってごらんなさい、とても悲しそうな目をしているじゃないの。あんな目つきをするところを見ると、ひどく不幸なことがあったに違いないわ。そんなのいやでしょう?ジェーン」

「あたしにはわからないわーーーよくは」ジェーンはまだ承服しかねるようすだった。

「ダイヤモンドってかなり人を慰めてくれるものだと思うわ」

「そうね、あたしは自分のほか、だれにもなりたくないわ。たとえ一生、ダイヤモンドに慰めてもらえずにすごしても」とアンは言った。

善性にあふれているように見えるアンも、ある種冷徹な目を持っているというのがここの引用の示唆的なところです。理性の批判から無縁でいる、というのは、一つの才能だと思います。物事を学んだりやってみたりして、知識や経験が増えるほど、その知識と経験に基づく判断と無縁でいることはできないと思います。そういう批判が自分の在りように向かない、自分を肯定する方向に向いているがゆえに、アンはアン的なのだと思います。

 

>アン的である、とは

結局一言で言ってしまうと、自然体である、ということだと思います。元からあった不幸な境遇や、親への恩、努力とその成果、悲しい運命…といったものは、あったりなかったり、予想通りだったり期待外れだったり、外的要因によって決まることで、それは非常に自然なことです。世界は私たちの頭の中とは違うのですから。

 

しかし、伝統や教育的模範は、賛成できるものはこれを受容し、そうでないものは拒絶すること、想像力は無限に自由であること、といったこともまた、非常に自然なことです。我々に観測される世界は全く自由にならないものですが、世界を観測する我々の観測の仕方は全く自由なのです。

 

前向きに頑張って、外界を切り開いていく、というのとも少し違います。我々の想像力は無限でも、我々の観察力と予想は明らかに有限だから、そのために我々が世界に関わるときの判断全般はきわめて曖昧なものになってしまっています。我々は何かを期待して判断をしますが、我々の判断が我々の期待する結果をもたらすかどうかは未知数なのです。

 

アンは別に、常に前向きであろうとしているわけではありません。目標や楽しい出来事、悲しい出来事に自然に反応しているだけです。別にどうこうするわけじゃない、自然に泣いたり笑ったりして、その経験の結果でありかつルーツであるものが想像力なわけです。

 

自然の定義、基準をどうするかというのは重要な問題で、本書を読む意味の一つもそこにあると思います。環境や他者との出会いの中で成長し磨かれるアンの自然体を目の当たりにすることで、我々の人生はよりアン的な自然に接近することでしょうし、それがそのまま人格の陶冶になる、というのが、本書が古典として広く認められているということの意味だと思います。