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『孤独な散歩者の夢想』ルソー著、今野一雄訳

>尊い無為

その幸福とはいったいどういうものであったか?またどんなふうにその幸福を楽しんだか?わたしはそこで送った生活を描いてみせるから、現代のすべての人々に、できればそれをわかってもらいたい。尊い「無為」こそ、その快い味わいを思いのままに味わえたらと願った楽しさの第一のもの、主たるものだったが、じっさいのところ、そこに滞在しているあいだにやっていたことは、すべて、閑居に身をゆだねた人間に必要な甘美な仕事にほかならなかった。

 

美しい天気に心を誘われると、もうじっとしていることができず、かの人たちがまだ食卓を離れないうちに、そこを抜け出して、ひとりで舟に乗って、水面が穏やかなときは、湖のまんなかへ漕いで行く。そして、湖のまんなかで、水のまにまにゆるやかに漂わせておく舟の中に長々と身を横たえ、目を空に向け、ときには何時間ものあいだ、さまざまの夢想にふけっている。それは漠然とした、しかし甘美な夢想で、はっきりときまった対象があるわけではないが、わたしにとっては、人生の快楽と呼ばれることのうち、このうえなく快く思われたどんなことにくらべても、はるかに好ましいことのような気がした。

 

サンピエール島での美しい思い出が胸を打ちますが、われわれが日常の中で自然の美しさを目の当たりにしたとき、このような境地に至れるでしょうか。それには何かが足りないと思います。普段の我々の認識は、目的とか理由とか、社会的に価値があるとされていることで充たされていて、クリアじゃない状態なんだと思います。足りていないものは、後付けの必要なもの抜きで、自分の認識と客体の二者だけでいるということのために、既存の価値を捨てることだと思います。

 

>境地

魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいだされるような不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの空虚を埋めつくして、もはや満たすべきなにものをも感じさせないのである。こうした状態こそわたしがサン・ピエール島において、あるいは水のまにまにただよわせておく舟のなかに身をよこたえて、あるいは波立ちさわぐ湖の岸べにすわって、またはほかの美しい川のほとりや砂礫の上をさらさらと流れる細流のかたわらで、孤独な夢想にふけりながら、しばしば経験した状態なのである。

そのような境地にある人はいったいなにを楽しむのか?それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状態がつづくかぎり、人はあたかも神のように、自ら充足した状態にある。他のあらゆる情念をふりすてた存在感はそれ自体、満足と安らいの貴重な感情なのであって、この世でわたしたちの心をたえずこの感情からそらして、その楽しさをかきみだそうとするあらゆる官能的な、地上的な印象を自分から遠ざけることのできる人には、その感情だけで十分にこの存在は愛すべき快いものとなる。

 

長い生涯のあいだの移り変わりのうちに、わたしはこのうえなく甘美な享楽と強烈な歓喜の時期の思い出が意外にもいちばんわたしを惹きつけ、つよく心にふれるものではないことを知った。激しい情念にとりつかれたそれらのみじかい時期は、どんなに生気にみちたものであろうとも、その激しさのゆえにこそ、生の直線上にまばらに散らばった点にすぎない。それはごくまれに起こり、すみやかに消え去るのであって、ひとつの状態を構成することができないし、わたしの心が愛惜する幸福とは、たちまちに過ぎ去る瞬間から成り立っているのではなく、ひとつの単純な変わらない状態なのであって、そこには激しいなにものもないが、その持続は魅力を増大させ、やがてそこに至高の幸福をみいだすにいたるのである。

歎異抄』に似たような話があります。

 

すべてのいろんなことにつけても、往生には賢しらな考えなど持たずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつねに思い出してみるべきや。そうすれば、自然と念仏も口から出てくるのと違いまっか。これが自然の道理や。自分であれこれ考えないことを、自然ちゅうのや。これはすなわち「ひとまかせ(=他力本願)」ということや。

われわれが普段頑張って追い求めている幸福は、日常の生活で努力や我慢を積み上げて、その結果そこに至るものだというのが一般的な幸福像だと思います。例えば頑張って勉強して志望校に合格するとか、お金をいっぱい稼いで家を買うとか、そういう意味の幸福が普段われわれの思っている幸福だと思います。ここで言っている幸福は、その成立過程がちがっていて、やはり目的や理由を放棄した先にここでいう幸福があるということのように読めます。我々が普段考える方の幸福は追えば逃げる蜃気楼の様なものだというのもよく指摘されるところです。何か目的にしているもののところにたどり着いたとしても、思っていたほどでなかったり、さらに上がほしくなったりする、というのは経験的にも正しいように思われます。目的とするものが幻だとしても、こういう営みの中にある前進感みたいなものは実体的なものだと思います。ショーペンハウエルは、幸福を「朗らかな気分」であると定義しましたが、これは全く正当です。我々が幸福と同一視している、大学合格とか、巨万の富とか言ったものも、そういうものを手に入れて、朗らかな気分になって、幸福になるというプロセスを必ず含むからです。前進感が実体的であると言いたのもこの意味で、最終目的を手に入れて、朗らかな気分にならなかったとしても(朗らかな気分にならない場合があるということが経験的に確からしいと思われます)、その過程で感じた前進感には、朗らかな気分が確かに含まれていたと言えると思います。だから我々の考える幸福の実態は、決して手の届かない幸福に向かって走り続けることによる朗らかな気分である、ということができると思います。これを十分リアルと考えるか、虚偽と考えるかにはまた議論があると思いますが、一方ここでいう幸福の方は、われわれの認識から目的や理由を取り払っていって、残ったものの中に朗らかな気分が含まれている、ということを意図しているのだと思います。

 

>目的や理由

かれらが勉強するのは他人に教えるためで、自分の内部を明らかにするためではない。かれらのうちの多くの者は、書物を書くことだけを考え、どんな書物であろうと、ただ世に迎えられさえすればいいのである。書物を書きあげて出版してしまうと、もうその内容にはいっこうに関心をもたない。ただそれを他人に受け入れさせることが、またそれが攻撃される場合には、弁護することが問題となるにすぎない。そればかりではない、その書物からなにかひきだして自分たちの役にたてるということもないし、その内容がまちがっているか、正しいかさえ気にしない、反駁されなければそれでいいのだった。わたしはどうかといえば、わたしが学問をしたいと思ったのは、自分で知るためにであって、人に教えるためにではなかった。

 

自分の必要という考えにつながることはすべてわたしの思想を暗くし、そこなうし、完全に肉体的な利害を忘れてしまわなければ、わたしは精神的な楽しみに真の魅力をみいだしたことはない。だから、かりにわたしが医学を信じるとしても、また、たとえ薬がおいしいものであるとしても、わたしは、そんなことを考えていては、あのまじりけのない、利害をはなれた観照があたえてくれる愉悦を決してみいだすことはないだろう。

 

こういう閑人の仕事には、情念が完全に静められたときでなければ感じられない魅力、しかもその場合、それだけで人生を幸福な快いものと感じさせる魅力がある。けれどもそこに、職務のためとか、本を書くためとかの利害の念や虚栄心が混じってくると、ただ教えるために学ぶとか、著者や教授になるために植物採集をやるとかいうことになると、そうした快い魅力はすべて消え去って、植物のなかに情念の道具を見るにすぎなくなり、もはやその研究には真の喜びは感じられず、人はもはや知ろうとはしないで、知っていることをみせびらかそうと考え、森のなかにいても、世間の舞台に立っているのと同じで、そこで喝栄をうけることばかり考え、あるいはまた、書斎やせいぜい庭園の植物学に閉じこもり、自然のなかにある植物を観察しないで、体系とか方法とかいうものばかり気にしているのだが、そういうものははてしない論争の主題なのであって、それによっては一本の新しい植物も知ることにはならず、博物学にも植物の世界にもいかなる真の解明をもたらすものでもない。そこからは憎悪や嫉妬が生まれてくるのだが、これは名声を獲得しようとする競争心のためで、他の分野の学者たちのあいだにおけると同様に、あるいはそれ以上に、著作家的植物学者のあいだにみられることだ。

 

ほんとうの楽しみというものはかかった金では勘定されない、そして、喜びというものは金貨よりも銅貨に縁の深いものだというのはまったくそのとおりだ。

 

繰り返し述べられているのは、やはり目的や理由を捨てることです。趣味をやっているときに、お金儲けのことや、見栄えを気にすることがあると思いますが、その頻度が十分多かったり、そのせいで趣味が楽しくない義務になったりするとそれは目的や理由の思考に毒されている状態だと思います。先ほど述べた通り幸福には二種類あるので、われわれの幸福はその性質に基づいて正しく分類されるべきなのだと思います。我々の幸福の中で、社会的な性質のもの、自分の外部により近い位置にあるものは、金貨の幸福であって、われわれが普段使っている意味の幸福で、目的は決して手の届かないものです。逆に趣味や人間関係といった性質のもの、自分の内部により近い位置にあるものは、銅貨の幸福であって、目的に向かって前進することからではなく、われわれの認識の内にその価値の源泉を見出すべきものです。後者に分類される趣味の領域において目的の追求の枠組みを援用すると、趣味が一つ消えて、仕事が一つ増えるだけです。