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『ガラスの動物園』T・ウィリアムズ著、小田島雄志訳

>究極的に孤独

本書は家族小説です。解説に、

 

ぼくたちに自分自身の親子のあいだの食いちがいを思い起こさせ、さらには、家族というものが、外なる現実社会にたいしてはおたがいに寄りそうと同時に、家族内部においてはそれぞれが究極的には孤独であることを思い当らせてくれるのである。

 

とある通り、本書で提示される家族の本質は、孤独であることだと思います。アランは幸福論の中で、家庭内で行われる暴力や意地悪な言葉は「度を越した信頼」であると定義しています。本作における母であるアマンダが主人公のトムと姉のローラに向けるいわゆる「ウザイ」言葉はまさにこれで、

 

アマンダ「それがこわかったんだよ、あたしには、おまえがアル中にでもなるんじゃないかって思うと!オートミールを一杯おあがり!」

トム「コーヒーだけでいいよ。」

アマンダ「ビスケットは?」

トム「いや、いいんだ、コーヒーだけで。」

アマンダ「すきっ腹では一日の仕事ができないでしょう。出かけるまであと十分あるわ。ガブ飲みしちゃだめ!あんまり熱いものを一気に飲むと胃ガンになるわよ......クリーム入れなさい。」

トム「いらないって。」

アマンダ「さますためよ。」

トム「いらないったら!ブラックで飲みたいんだ。」

アマンダ「それはわかってるけど、からだのためによくないから。あたしたちはね、からだだけは大事にしなきゃならないんだよ。こういうつらい時代に生きているんだもの、頼りになるのは―――おたがい同士、家族だけ......」

 

これに類する会話を家で母親と繰り広げた覚えのある人は相当数いるのではないでしょうか(笑)アマンダにとっては子供たちの幸せは彼女の幸せで、子供たちの苦痛は彼女の苦痛なのです。そこに在るのは紛れもなく母親の子供たちへの愛なのですが、これがなぜこれほどまでの孤独と破局をもたらすのかというと、子供たちの幸福と苦痛はどこまでも子供たちのものであって、彼女のものではないからです。子供たちも彼女が自分たちを愛していることはわかっています。彼女のおせっかいが彼女の純粋な本心にルーツを持つと知っているからこそ、彼女の心と自分たちの心が分かり合えない孤独が一層色濃くなる、そういう構造をしていると思います。

 

>冒険を望む

そんな家族の外にある世界に冒険を夢見る主人公も非常にわかりみが深いです。

 

母さん!母さんはね、ぼくがあの倉庫に首ったけだとでも思ってるのかい?(彼女の小柄なからだのほうに激しく身を突き出す)ぼくがコンチネンタル靴会社に惚れてるとでも思うのかい?ぼくが人生の五十五年間を、あんな――セロテックス張りの!―――蛍光灯の!穴倉ですごしたがってるとでも?いいかい!ぼくはいっそだれかがかなてこ振りあげてこの脳天たたき割ってくれたらって思ってるんだぜ――毎朝あんなところへ行くぐらいなら!それでもぼくは行くんだ!朝になって、母さんのいまいましい声が「元気に明るく起きましょう!」「元気に明るく起きましょう!」ってわめくのを聞くたびに、ぼくは「死んだやつがうらやましい!」と思う。それでもぼくは起きる。倉庫へ行く!たかが六十五ドルの月給のために、こういう人間になってこういうことをしたいというぼくの夢をすべて捨ててるんだ、永久に!ところが母さんは、口を開けばぼくが自分のこと―――自分のことしか考えないって言う。だがいいかい、ぼくが自分のことしか考えなかったらね、母さん、おやじのあと追っかけてるぜ―出て行ってるぜ!(父親の写真を指さしながら)人間が行けるかぎり遠くまでな!

 

アマンダ「たいていの若者は自分の職業に冒険を見つけるものだよ。」

トム「としたらたいていの若者は倉庫にやとわれちゃいないんだ。」

アマンダ「世間には倉庫や事務所や工場にやとわれてる若者がいくらでもいるわ。」

トム「そいつらがみんな自分の職業に冒険を見つけてるかい?」

アマンダ「見つける人もいるし、見つけなくても文句言わずにやってる人もいるでしょう!みんながみんな冒険気ちがいじゃないんだから。」

トム「男はね、恋をし、獲物を追い、戦いを挑むのが本能なんだ。ところが倉庫の仕事じゃあそういう男の本能は発揮できないんだよ!」

アマンダ「男の本能!あたしに向かって本能なんてことば言わないでちょうだい!本能なんて人間はとうの昔に捨てたはず!動物のものよ!そんなもの、一人前の文明人は見向きもしないわ!」

トム「じゃあ一人前の文明人はなんに目を向けるんだい?」

アマンダ「もっと高尚なもの!心とか、魂とか!動物だけだよ、本能を満足させたがるのは!」

 

ぼくたちのアパートから路地をへだてて、パラダイスというダンスホールがありました。春の夜ともなれば、窓もドアも開けはなされ、音楽が外に流れてきました。ときどきあかりが消され、天井から吊るされた大きなミラーボールにだけ光が当てられる。それがゆっくりまわると、やわらかな虹の七色が薄暗がりをよぎって行く。そういうときはオーケストラの演奏もワルツかタンゴになる、ゆるやかな官能的なリズムの曲です。やがてホールから若い男女が幾組か出てくる、路地の比較的人目につかないところへ。ごみ捨て場の奥とか電信柱のかげとかで、キスしあう姿が見られたものです。これがせめてもの慰めだったのです、ぼくと同じようになんの変化も冒険もない人生を送るものにとっては。だがこの年、冒険と変化は目前に迫っていました。ついその先でこういう若者たちを待ち伏せていたのです。ドイツではヒットラーの山荘を包む霧のなかにひそみ、イギリスではチェンバレンの手にするこうもり傘のひだのあいだにかくれてスペインではゲルニカの無差別爆撃がありました!だがここアメリカではただ、ホット・ジャズ、酒、ダンスホール、バー、映画、それにセックスといったものが、薄暗がりに吊るされたミラーボールのように、はかないまやかしの虹色を氾濫させているのみでした......世界は爆撃を待っていたのです!

 

「世界は爆撃を待っていた」激シブですね(笑)破壊や闘争が平和より素晴らしいという意見に、賛成する人はまずいないでしょうし、こういう意見は嫌悪感や怒りを催す軽率さや不覚悟をその背景に持っていると思います。しかしこういう意見に傾きかねない閉塞感を本書が提示する家族は持っていますし、また家族とは普遍的にそういうものなのだと思います。

 

トム「ぼくはいま、新しい未来へ跳びこもうとしている、倉庫もミスター・メンドーザも弁論術の夜間コースもない世界へだ。」

ジム「なに寝ごと言ってるんだい?」

トム「映画ももう見あきたしな。」

ジム「映画!」

トム「そう、映画!どうだい、あの――(不夜城のような繁華街のほうに手を振る)魅惑のスターたち――あの連中が冒険という冒険をかっさらってるんだ――ひとり占めしてるんだ!その結果、どうなる?みんな自分で経験するかわりに、敬虔な面持ちで映画見ることになる!ハリウッドのスター連中がアメリカじゅうの人間になりかわって冒険をおこない、アメリカじゅうの人間は暗闇にすわってスター連中の冒険をじっと見つめる、ってわけだ!ただし、戦争が起こるまでは、だがね。戦争になったら冒険は大衆にも手の届くものになる!だれもが味わえるようになるんだ、クラーク・ゲーブルだけのごちそうじゃなく!暗闇にすわっていた大衆は暗闇から外に飛び出して、自分で冒険に乗り出すんだ――どうだい、結構な話じゃないか!」

トム「いよいよぼくらの出番だ、南洋の島々―猛獣狩り――はるかな異国!だがぼくは辛抱強い男じゃない。それまで待っちゃいられない。映画館に入るのはもうあきた、自分から出て行くつもりだ!」

 

>彷徨と後悔

この閉塞感を打破するために家族からの遁走を選んだ主人公は、その後彷徨の日々を送ることになるというラストです。

 

ぼくは月の世界には行きませんでした、もっとはるかに遠いところへ行ったのです―――時のへだたりほど遠いものはないんですから。

…(略)…

この非常階段を最後におりてからは、ずっと父の歩んだ道を追い続けました、空間に見失ったものを行動に見いだそうとしたのです―――ぼくは旅から旅を続けました。さまざまな町が枯葉のようにぼくのまわりを吹き抜けていきました、色鮮やかではあっても枝から吹きちぎられた木の葉のように。どこかに足を止めたいとは思いましたが、ぼくを追い立てるなにかがあったのです。それはいつも思いもかけぬときに、不意に襲ってきました。たとえば聞きなれた音楽の一節になったり、あるいは透明なガラスのかけらになったり。

…(略)…

ああ、ローラ、ローラ、ぼくは姉さんをきっぱり捨てようとした、そのつもりだったのにどうしても姉さんのことが胸を離れないんだ!ぼくはタバコを探す、通りを横切る、映画館やバーに飛びこむ、酒を飲む、そばにいる見知らぬ人に話しかける――なんでもいい、姉さんのろうそくを消してくれそうなことをやってみる!

…(略)…

だっていまは、すさまじい稲妻が世界を照らしているんだ!そのろうそくを吹き消してくれ、ローラ――そして、さようなら......

 

この彷徨する主人公は、家族からの独り立ちを経験している我々大人の原型を含んでいると思います。守りたい愛する姉がいた、というのは本作に特殊な事情ですが、たとえそういう人物が家族の中にいなくても、家族と過ごした記憶、美しい思い出はあるはずです。実家にいたときにあれほどウザかった母親が懐かしい、ということが起こりえますし、そういうとき我々は、「なんでもいい、姉さんのろうそくを消してくれそうなことをやってみる」気持ちで行動しているかもしれません。ラストの主人公の語りの最中にアマンダが「愚かしさは消え去り、威厳と悲壮美に満ちて」描かれているのもこの効果を狙ってのことと思います。家族ということに限定せずに、この主人公は、美しいもの、愛したものからの別離を経験した人の雛型であるということもできると思います。先述の「ろうそくを消す」気持ちはこちらの方が収まりがいいように感じます。