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『雨』モーム著、中野好夫訳

>理性と本能の対立

まず、理性と本能が対立的に描かれています。理性はキリスト教とその伝道師であるディヴィドソンで、彼に関する記述は、

 

「いいですか、彼等は生れながらに堕落しているのです。だから何といってやっても、自分の罪悪がわからないのです。彼等では自然な行為のつもりでいるものを、罪悪だと意識させてやる必要があったのです。姦淫を犯したり、嘘をついて物を盗むばかりではない。彼等の肉体を露出することも、ダンスをして教会へ出ないことも、みんな罪だということを教えてやらなければならなかったのです。娘が胸を露わに見せたり、男がズボンを穿かないのも、みんな罪だと私は教えてやりました。」

ディヴィドソン夫妻との会話が何か彼女を不安にしていたのだ。だが、トランプなぞおよしになった方がいいでしょう、いつあの人達が入ってくるかもしれないのですから、とまでは一寸口に出して云いたくなかった。マクフェイル博士は立って持って来た。そして彼が一人でペイシェンスを並べているのを、彼女は何か漠然と心に咎めるようなものを感じながら、じっと眺めていた。

博士が一つ冗談口をたたいてみた。

だが宣教師はニコリともしなかった。「私のやってもらいたいというのは、正しいことなんです。人に説得されてはじめてするというような性質のもんじゃないと思うんですがねえ。」「しかし何が正しいかということになると、そこはやはり人さまざまというもんでしょうからねえ」

「じゃかりに足に壊疽が出来た人間がいるとしますねえ、切断しておしまいなさいということを、躊躇していえないような人間を、あなたは我慢お出来になれますか?」「壊疽というのは、こりゃ、厳たる事実の問題ですからねえ。」「じゃ罪悪は?」

未開の地に秩序をもたらす使命感に燃えた彼は、その情熱のために周りを息苦しくさせる、考え方に遊びのない人物として描かれています。

 

本能の方は表題にもなっている雨と、ミス・トムソンの出身地「イウェレイ」で、それに関する記載は、

 

マクフェイル博士はじっと雨を眺めている。漸く神経がじりじりしかけていた。あのしとしとと降る英国のような雨ではないのだ。無慈悲な、なにか恐ろしいものさえ感じられる。人はその中に原始的自然力のもつ敵意といったものを感得するのだ。降るというよりは流れるのである。まるで大空の洪水だ。神経も何もかきむしるようにひっきりなしに、屋根のナマコ板を騒然と鳴らしている。まるでなにか狂暴な感情でも持っているかのように見える。人々は時々、これでまだ止まないなら、何か大声にわめきたてでもしなければいられないような気持になる。かと思うと今度は骨まで軟かくなってしまったように、急にぐったりとなるのだった。もうどうにでもなれといったみじめさだ。

小ぢんまりした、綺麗に緑に塗ったバンガローが幾筋も幾筋もつづいていて、その間を広い真直な小路が走っている。まるで田園都市をみるような設計だ。きちんと列んで、妙に小綺麗に整ったところが、却って一種の皮肉な戦慄を感じさせる。愛の猟奇がこれほどまでに組織化され、秩序化されたことはないからだ。

…(略)…

男達は、窓際に坐って本を読んだり、針仕事をしながら、大抵は通る男に見向き一つしない女達を眺めながら、ゾロゾロと流れて行った。女達と同じように、それはあらゆる国籍の男だった。アメリカ人もいた。着いた船から上陸した船員、ぐったり酔いどれた砲艦の水兵、駐屯軍の白人兵士や黒人兵士、二三人ずつ連れ立って行く日本人もいる。ハワイ人、長い衣を着た中国人、頓狂な帽子を冠ったフィリッピン人、誰もみんな黙々として、まるで何か圧えられたように歩いてゆく。悲しい情欲だ。

こちらの方はポジティブな描写ではないですが非常に生き生きとして、作者の観察眼の鋭さがうかがわれる名文だと思います。

 

>理性と本能の対立の帰結

物語の帰結が暗示されている箇所があって、

彼はよく奇妙な夢を見るのだった。「今朝も私に申しますんですが、あのネブラスカの山々が夢に出て来るんだそうでございます。」とミセス・ディヴィドソンが云った。「成程奇妙ですねえ。」マクフェイル博士は云った。

そう云えば彼はアメリカを横断する時、汽車の窓からその山々を見たことを思い出した。丸く、なだらかな山々が平原から急に高くなっていて、丁度大きな土竜の丘を見るようだった。ふとその時、なんとなく女の乳房を連想したことを彼は思い出した。

厳格なディヴィドソンが、「女の乳房を連想」させる山々を夢に見る、ということで、生き方を決めた人間の中にある揺らぎを表現する方法としてよくある方法だと思います。

 

>理性と本能の対立に関する所感

特定の宗教を持たない私のような読者は、この作品を読んで、理性や教義の敗北に憤り失望を覚えるわけでもなく、原始的な本能の描かれ様に含まれるグロテスクな写実に拒否反応を示すわけでもありません。理性と本能の対立の帰結に特段の思い入れがないために、この対立がきわめて人間という存在にとって自然なものであるように感じました。本作で描かれていたように理性が敗北する場合もあれば、理性が勝利する場合もあって、本作でも前半に、ディヴィドソンが身の危険を顧みず伝道と人命救助のために未開の地に治療に行くエピソードが示されていて、本作以前の彼の中の理性と本能の対立では、常人の理性には困難なレベルの戦いだったにもかかわらず、理性が常に勝利を収めてきたわけです。そういう人の理性でも、状況によっては敗北する場合もあって、それはそういうものなのだと思いますし、この太古の昔から現在に至るまで繰り返されている「そういうもの」をテーマとして取り上げ作品にしたところに作者の偉大さがあるとも思います。

 

小学校の頃、学校のトイレで大きい方をするとからかわれる、という文化を唐突に思い出しました。この場合の被告人の罪は、明らかに人間の存在や生の営みと分かちがたく結びついたものです。本作で扱われる本能と理性の対立についても、本能の部分はやはり事情は同じだと思いますが、小学校の場合と違って本作の問題では、一方の本能が他方の本能と対立している構造を取りがちであるという事情もあって、小学校のトイレの問題と同様に処理すべきだとはちょっと言えません。この問題を理解するには、人間が生物としての一個体であるとともに、群れて社会を形成してその社会に参画している存在であるという事情を考える必要があると思います。社会の領分というのは「一方の本能が他方の本能と対立」したときにどうするかという問題の解決である、と基本的には言えると思いますし、理性のルーツもここのところにあるのではないかと思います。