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『ヘヴン』川上未映子著

本読みました。

『ヘヴン』川上未映子

 

以下感想です。

■あらすじ

■みどころ

■百瀬

■コジマ

■両極端な二人の共通点

■ラストの美しい情景

--『ヘヴン』まとめ--

■関連する作品

 

■あらすじ

 

同級生からのいじめに苦しむ「僕」が、同じくいじめられている「コジマ」に出会い、文通をして親しくなり、やがて決別する話です。コジマは「僕」とは違い、いじめに耐えることに信仰めいたものを抱くようになっていき、非暴力を貫く心の強さでいじめっ子を圧倒するほどになっていきます。「僕」は、いじめの原因であり、いじめられる者同士のきずなの証である自分の斜視を手術で治し、二人の関係は終わります。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■みどころ

 

小説としての表現については、サイケデリックで意味不明な説明文や登場人物の行動が特徴です。それだけならまあ、そういう雰囲気が売りの作品を書く作家さんはいますし、そういう作品にも言語化できない種類の良さがあるのですが、本当の本書の特徴は、極めて思想的で長すぎる台詞だと思います。思想を体現する登場人物が二人出てくるのですが、彼らの思想が台詞としてまとめて明記されています。この形態はあまり小説的ではなく、思想書に物語が付随しているような状態になっています。しかしその二つの思想とその両方に触れた主人公の心象には読むべき価値があると感じました。これからそれら(思想を有する二人の登場人物とラストの主人公の心象)について述べます。

 

物語の付随した思想書のような色彩の作品

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■百瀬

 

百瀬は「僕」をいじめるグループに属しながら、いじめを楽しむそぶりも、直接的に手を下すこともなく、いつも無関心にいじめの様子を見ている大人びた少年です。基本的に「僕」のことは無視しているのですが、いじめをやめるように百瀬に「僕」が話しかけるシーンで百瀬の思想が現れた長いセリフがあります。

 

君が受けている眠れないくらいの苛めは、僕にとってはなんでもないことだ。良心の呵責みたいなものなんてこれっぽっちもない。なんにも思わない。僕にとっては苛めですらないんだよ。僕と君に限ったことじゃなくて、考えてみればみんなそうじゃないか。思い通りにいかないことしかないじゃないか。自分が思うことと世界のあいだにはそもそも関係がないんだよ。それぞれの価値観のなかにお互いで引きずりこみあって、それぞれがそれぞれで完結してるだけなんだよ。

 

百瀬はその設定にふさわしい虚無的なまでの現実主義者として描かれています。百瀬的に言えば、主人公に対して行われている苛烈を極める苛めも、そこに暴力の欲求とそのはけ口が偶然居合わせたから起きただけの取るに足らない出来事で、そこに権利や罪や倫理や人の気持ちといったものは何も存在しません。そういう血の通ったものは、みんながあると信じているから結果としてあるような感じがするというだけの話です。

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虚無主義者で現実主義者の百瀬

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■コジマ

 

コジマは、主人公と同じようにクラスの中でいじめを受けながら、主人公に手紙を出して接触を図ります。主人公は手紙を通してコジマの思想的な成長と完成の過程を追うことになります。完成された思想に到達したコジマは、肉体的には痛めつけられながらも心は強く穏やかなままで、最後には自身の信念に殉じて身命を投げ出す覚悟があることを軽々と示して見せ、数で勝るいじめっ子を圧倒するまでになります。

 

わたしと君が、いまここでなにかがあって死ぬかなにかして、それでもう酷い目に遭わされることがなくなったとしても、いつだってどこかで、同じようなことが起きてるんだよ。弱い人はいつだって酷い目に遭わされて、それでもどうすることもできないんだよ。そんな人たちがいなくなることはないんだよ。だからって強いやつらの真似をしてなんとか強いやつらの側になって、そういう方法で弱くなくなればいいの?そういうことなの?違うでしょ?これは試練なんだよ。これを乗り越えることが大事なんだよ。

 

コジマは百瀬とは真逆に、すべてのことに意味を見出そうとし、自身が見つけた世界の解釈を信じそれに殉じる宗教家のようなキャラクターとして描かれます。コジマにとっては苛めという事象も、ただ自分が受ける身体的精神的な侵害という単一の意味にとどまらず、自身が受ける苛めと不特定多数の弱者が受ける暴力を同一視するようになっています。自身の命や尊厳を軽々と捨てるその覚悟を支えているものは、生命の存続という生物として当然の志向性をも凌駕するほどの信仰なのでしょう。

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信念に殉じる宗教家のコジマ

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■両極端な二人の共通点

 

先に述べた二人は、最も極端な世界観を最も矛盾のない形で遂行する存在として描かれていると思います。凡そ人間は人生の無意味さと意味を求める人間の性の間で矛盾や葛藤を抱えるものですが、この二人はその矛盾を両極端な方法で克服しています。百瀬は意味を求める人間の性を否定することによって、逆にコジマは人生の無意味さを否定することによってです。

 

虚無主義者と宗教家は人生の無意味さの矛盾に対する本質的な反抗の手段である

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■ラストの美しい情景

 

ラストで、主人公は苛めの原因であり、コジマとの絆の象徴であった自身の斜視を外科手術によって取り除きます。斜視が治ったことによって主人公のぼやけた視界が像を結び、憂鬱な気持ちで通っていた通学路の並木道が強烈な美しさをもって認識されるというのがラストシーンです。ここでは、斜視によって視界が二重にぼやけていたのが手術によって治って、視界が像を結んだ時の感動が描かれていますが、その言わんとしていることは、百瀬やコジマのような両極端な矛盾を含まない考え方から遠いところにある個人の説明不能なレベルの認識が、個人的な体験として知覚する喜びや感動に意味を見出そうとする試みなのではないかと思います。主人公は、百瀬やコジマの考え方を聞きながらも、そのどちらにも感化されるわけではなく、悪く言えばどっちつかずな態度で、苛めを受け入れることに信念を見出すわけでもなく、苛めを止めるための現実的な方策を講じるわけでもなく、漫然と日々を過ごしていきます。いじめが嫌だとか、コジマが好きだとか、読者が理解できる心の動きはもちろんありますが、随所で主人公独自の、読者にとっては理解に苦しむ見解や行動が見られます。斜視を治すのだって、コジマには信念の放棄と罵られ、百瀬には斜視は苛めの本質ではないと非難されています。それらの意見は確かに矛盾がなく、しかしそういう矛盾がない意見を退けて矛盾をはらんだ個人の判断が下され、その先にある美しさが個人だけのものである様がラストシーンで描かれているのだと思います。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

--『ヘヴン』まとめ--

 

本書をまとめると…

最も矛盾のない生き方は、虚無主義か狂信

人生には矛盾があって誤謬があるけど、その果ての美しさは本人にしかわからない

ということだと思います。本人にしかわからない部分というのは、その定義より伝達困難、記述困難な性質のもので、読書や読書感想文というアプローチではわかりにくい概念だと思います。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■関連する作品

 

宗教家がすべてに意味を見出すことで心の安寧と洗練された人格を有するようになるということをテーマにした作品として、『塩狩峠』があります。

 

『塩狩峠』三浦綾子著 - H * O * N

 

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