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『塩狩峠』三浦綾子著

本の感想

本読みました。

塩狩峠三浦綾子

 

以下感想です。

■あらすじ

■作品の私物化

■隣人たらんとする苦行

--『塩狩峠』まとめ--

 

 

■あらすじ

 

キリスト教に否定的であった主人公「信夫」が、身の回りのキリスト教の人々に出会ってキリスト教に目覚め、日々の生活でキリスト教の教えを実践し、最後は多くの人の命を救うための自己犠牲によってその生涯を閉じる話です。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■作品の私物化

 

文庫本の作者紹介にて、作者がキリスト教徒であること、また作者は肺結核脊椎カリエスを患い、13年の闘病生活を過ごしたことが書かれています。この情報は本文が読者に与える印象を変質させてしまうかもしれない情報だと思います。私は本文を読む前にこの記載を読んだのですが、キリスト教の教えに関して登場人物が考えたり話し合ったりするシーンと、主人公の思い人であるところの「ふじ子」というキャラクターに違和感を覚えました。前者のシーンは前情報のせいで、作者がキリスト教を信じていない人に対してキリスト教とはなにかを身びいきありで教えている印象になります。プロレタリア文学は、共産党に票を集めることを芸術の追求に勝る究極の目的として有していて、その点において文学とはいえない、という主張を聞いたことがありますが、この作品の先述のシーンでも同じことが言え、つまり芸術の追求より布教を優先させた感があります。後者のキャラクターに関しては、境遇が明らかに作者自身の投影で、しかもそのキャラクターが美しく清らかな心を持って主人公と惹かれあっているという設定を有し、自身を美化した存在としてふじ子を作中に登場させたと伺えます。自分の作品の中に自分が登場し、しかもそれが美化されているとなると、これはもうご都合主義といわざるを得ません。この二点から、この作品は作者によって私物化されていると思いました。

 

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布教と自分の美化が作品を私物化しているように見える

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■隣人たらんとする苦行

 

キリスト教の教えについて登場人物が実践するシーンで、信夫が、職場の同僚「三堀」の隣人たらんと努力するシーンは、根源的な美しさを有しているように思いました。信夫は、不正を働いて会社をクビになりそうな三堀の隣人たらんと努力し、一緒に上司に謝りに行って、次に三堀が何か不正を行ったら自分も一緒にクビにしてもらってかまわないといいます。そんな調子で信夫は三堀に無償の愛を提供しますが、三堀には三堀の事情があって信夫に感謝しません。教えに従って無償の愛を提供しているのに偽善と笑われ、下心を疑われても、信夫は彼の隣人たらんとするところが感動的です。

 

キリスト教宗教戦争を引き起こしたとか、隣人たらんとする努力が押し付けになってしまう危険性を孕んでいるとかという批判はすぐに思いつきますが、それでも何か特定の宗教や行いを正しいと信じて、周囲の反応や情勢を気にせずに自分の信じるところを実行するというのは根源的な美しさを含んでいます。人間が外界の情報を感知するとき、感覚器官によって捕捉された情報は、脳のある部位の働きによって取捨選択され、脳に入るのは当初認識された情報の200万分の1ほどであるという話が『こうして、思考は現実になる』という本で紹介されていました。つまり、気に入らない情報を気にしなければ、感覚器官がその情報を捉えていても、その現実はなかったことと同じだということです。また『喪男の哲学史』という本には、自分が認識した現実の世界と、現実の世界そのものの間には埋められない隔たりが存在するという意味のことが書いてありました。言っていることはどちらも似ていて、要するに自分が現在において気にせず、将来にわたって思い出されないことはなかったことになるということなのですが、そう考えた時に三堀に対する信夫の態度は正しさを含むと分かってきます。

 

『喪男【モダン】の哲学史』本田透著 - H * O * N

 

三堀に否定された信夫は、そのあとも三堀に対して隣人たらんとし続けますが、その時信夫は、三堀の反応を気にしないことにしていたのだと思います。この態度が美しいのは、自分の認識のみが自分の人生を決定するという事実に対する了解、信夫にとっては三堀の隣人たらんとする行いは信仰の実践以外の何物でもなく、そこには三堀に感謝を求める気持ちも、三堀の迷惑であるという訴えを聞く気持ちも存在しないということが表れているからだと思います。この正しさは最初のキリスト教の合理性や自信の行いに欺瞞が含まれているかもしれないという危惧という批判とは次元が違っていて、もっと客観性を失った行為、例えば宗教戦争における異教徒の虐殺行為すらも、完全な信仰をもってすればその人の人生の中では純粋な美談たりうるということになります。人生を振り返った時に満足が行くということは、客観性や合理性を超えて、自分の信じるところに忠実であるということなのだと思います。

 

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客観性や合理性を超越した事柄が人生の価値を決定している

 

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--『塩狩峠』まとめ--

 

宗教を合理性の面から否定することは簡単ですが、本作を読んで宗教による救いは、そういう合理性を超越したところに存在するのではないかと思いました。特定の宗教を信じるつもりはありませんが、そういう無神論者でも何か生活の信条とするものや、自分の中の決まりごとのようなものは持っているでしょうし、そう考えると、宗教の枠組みを超えて、何かものごとを信じてそれに殉じる(本作のように死ぬほどの事態は極端だと思いますが)のは、生きる目的が不在の現代において、人生の方向性を打ち出すのに必要不可欠な態度ではないかと思います。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■関連する書籍

 

今回読んだ本はこれです↓

 

 

また、下記の本にも言及しました。

 

 

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