『堕落論』坂口安吾著 感想
本読みました。
以下感想です。
■救い
■アンチ形式主義
■自分だけのもの
--『堕落論』まとめ(三行で)--
■救い
カバーの裏表紙部分の解説には、「堕ちきることにより真の自分を発見して救われる」と書かれていますが、本書に救いはありません。「救い」の定義にもよりますが、すくなくとも、「救われている状態」はありません。坂口安吾が示したのは、「救われなかった状態を否定する方法」であって、それは下記のように述べられています。
負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。ただ、負けないのだ。
筆者が、原理的に正解のないこの世界で「よりよきもの」を求めてあがき続けることの中に「人性」、「真実の生活」が存在すると信じていたと分かります。
正解はないが、正解に向かっていくことは絶対必要
■アンチ形式主義
そんな風に、筆者はこの世に原理的に正解が存在しないことを主張していましたから、勢い、正解みたいな顔をしている存在、つまり、「形式主義」「伝統」といったものを忌み嫌っています。形式主義というものは、正解みたいな顔をして、それに従うのが正解とみんな思ってしまうので、大衆の目を覚まさせるために、法隆寺を取り壊して駐車場を作れ、というような強烈な主張をしたのだろうと思います。
法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。…(中略)…累々たるバラックの屋根に夕日が落ち、埃のために晴れた日も曇り月夜の景観に変わってネオン・サインが光っている。ここにわれわれの実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、なんであろうか。
既存の権威にしがみついて自身で正解を求めることをやめるという態度を忌避していることがよくわかります。
形式主義は正解っぽいだけで、実は不正解で、思考停止を招くから害悪
■自分だけのもの
既存の権威をすべて否定して回った作者は、有名な作品を条件反射的に攻撃しているようにも見えますが、そんな作者の作品評論の中で、賞賛されている数少ない作品に、宮沢賢治の遺稿「眼にて言ふ」があります。作者はこの視を評して曰く
生きているやつらは何をしでかすかわからない、何もわからず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這い回っている罰当たりには、ものの必然などはいっこうに見えないけれども、自分だけのものが見える
続けて作者はこれこそ芸術であると評しています。本書の中で作者が規定する正解は結局これで、この正解も結局のところ「人それぞれの本気」ぐらいの意味なのでやはり普遍的な正解はなくて、普遍的な正解を目指したとたんそれは唾棄すべき形式主義に陥るというわけです。
本気で生きている人がみる「自分だけのもの」こそが芸術
--『堕落論』まとめ--
三行でまとめると
正解はない
正解っぽいやつは全部偽者
本気で正解を求めた時に見えるものが自分だけの正解
ということになります。