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『悪魔とのおしゃべり』さとうみつろう著

>正しさと苦痛

正しさを捨てる、というコンセプトが繰り返し出てきます。正しさとは何でしょうか。

 

みつろう:「苦しいな」と思ったのなら、絶対に自分の中に「正しさ」を隠し持っているのか。

悪魔:当然さ。人間は「正しさ」以外の方法で、苦しむことなどできないのだから。

この文脈では正しさは苦しみを生み出すもの、という説明のされ方をしています。正しい状態から外れている状態のとき、焦りとか自己嫌悪とか、投げやりな気持ちとか、不快な感情が出てくることになるというのはうなずける話です。

 

「誰にも」「何にも」期待していない人間は、怒ることが絶対にできない。先に抱えた「期待」がなければ、怒りたくても絶対に怒れないのさ。そして、だからこそ悪い人はいつも笑っているのだ。

「自分を犠牲にしてまでやったのに!」と怒りを撒きちらすくらいなら、「他人のため」には何もしないでいいから、ただ微笑んで座っててくれないか?そっちのほうが、よっぽど誰かのためになる。

期待する、という心の動きもその先に正しさの像を見ているはずです。そしてその期待が裏切られたので怒りが出てくる。

 

みつろう:自分のせいで、自分が怒っている......。

僕らはなんで、こんな自爆体質に?

悪魔:これも、「正しさ」のせいだ。善の勢力が貴様らに言ったのだ。「世界にはすばらしい人がたくさんいる」「明日はすばらしい日になるさ」「未来の世界はバラ色だ」とな。要するに、期待させたのだ。

 

人間や世界の可能性に対する期待のような、美のイデアを含むと思われるものですらも、苦しみを生み出す正しさであると言われています。

 

貴様らは万引きも、不倫も、銃乱射も、ポイ捨ても、「社会」の押し付けてくる「正しさ」を疑おうとしないじゃないか。

貨幣制度を、結婚制度を、ピストル製造会社を、石油会社を、貴様らはその「正しさ」を疑わずに、ただ自分だけを責めているじゃないか。

…(略)…

「どうすればいいのさ?」と答えを外側に探すなとずっと言っている!常に鏡の関係になる「せかい」に対して、「どうすればいい?」「答えを教えてくれ!」「誰か決めてくれ!」「俺はそれに従うから!」と言っているんだぞ?だからちゃんと願いが叶い、「正解を押し付ける誰か」が、「従わせたい誰か」が、「支配してくれる誰か」が現れてくれてるじゃないか。社会に。

…(略)…

ルールを破ろうとする者が、よりルールを強化させるのだ。「ルールがまちがってる!」とは、「こっちのルールのほうが正しい」という主張じゃないか。どちらも結局は「正しさ」の剣を振り回しているだけだ。

正しさの類型の一つにルールというものがあります。何か特定のルールが悪いのではなく、ルールというものの思想が悪い、つまり理想の振る舞いや状態を仮定してそれから外れた度合いで正解をはかるという思想が。だからさらなる新しいルールを提唱することは、ルールの思想から脱却できていないという意味で古いルールと五十歩百歩なわけです。ルールはなぜ生まれるのかと考えると、それは明らかに、正しさを人々に教え伝えるためです。人々を正しい状態にしておくことが社会の安定に資するからです。しかし社会にとって必要であるということと、個人にとって必要であるということは別のことのはずです。社会生活を営んでいくには金銭が必要ですが、金銭の多寡はその人の存在価値を決定しはしないのです。ここを上手く分けられるかどうかが、正しさとその副作用の苦しみから脱却できるかどうかの分かれ道なのではないかと思います。

 

ルールの思想では、個人の意見よりも不特定多数の他者の意見の方がいつも正しい、ということがあります。自分的には自分を許したいと思っても、社会のシステムの中で人を裁く権利を持っている司法が許さないと判断すれば、結論は後者の判断が採用されることになります。我々は自分の意見と社会の意見が食い違うことを何度も経験して、社会の意見の先を読むようになります。既存のルールの中で勝負しようとするわけです。貨幣経済というルールの中で勝負するということ、これはまさに財産の多寡が自分の存在価値を決定してしまうような感覚の源泉のところだと思います。

 

なぜ人はルールに参加してその中で勝負しようとするのでしょうか。やはり他人からの尊敬を得るためだと思います。優れたものに対する尊敬というのは、一つの価値尺度の中で取り分けて優れているものに向けられるものである、という前提があって、尊敬その他の社会からの受容、それに類する敵対的でない態度が与えられる根拠になっているのは、その価値尺度の中で優れていることだという論理です。優れている、という言葉そのものが、何かと比較して優位であるということを、意味として含んでいます。価値尺度を持ち出すことなしに優れているという判断はできません。100点より120点が優れているという判断はできても、赤が青より優れているという判断はできません。

 

ここまで考えて、正しさを捨てるということは、こういう勝利に対する尊敬を得たい気持ち、との離別であるということがわかってきます。比較優位への憧憬との離別。さらに、多くの人ががむしゃらに勝ちたいという気持ちを持っているエネルギッシュな人たちばかりであるという前提は、現実味がありません。特にわが国では多くの人は平和主義者で善良な人たちであると仮定して、そう間違いではないと思います。しかしそういう人たちの間にも、既存のルールの信奉者は多くいます。なぜでしょう。これは、多くの人を比較優位に突き動かす動機が勝ちたい、という激情的なものではなく、むしろそういう動機は少数で、排斥されたくない、という動機が多数派なのではないかという疑問を生じてきます。

 

原初状態で子供時代の我々はもっと自由に物事を考えていました。既存の権威のことなど気にせずに、自分の好きなものが一等賞と思っていたはずです。しかし学校で友達と付き合いを進めていくうちに、どうもそれではうまくいかない事態にぶつかってきます。自分の我を通すだけではみんなとうまくやっていけない。みんなの合意形成によって生まれた円い意見より、自分の意見が正しいという態度は批判にさらされることになります。子供にとって友達の輪からの批判というのは大げさに言うと命の危険も感じるような強烈な印象になるはずです。こういう体験が子供のときにあって、この体験から逃れたい一心で自分の嗜好を捨て、既存のルールに従うことが正になっていくのではないでしょうか。

 

そう考えると、正しさを捨てるということのなかには、勝利や名声との離別、以外に、批判や軽侮に対する覚悟、ということも入ってきます。

 

勝利や名声との離別

批判や軽侮に対する覚悟

 

>正しさの価値の再定義

正しさの生まれた経緯をまとめると、正しくないことで何らかの危険や好ましくないことがある、ということでした。この命題の正当性はどうでしょうか。我々が暮らすこの社会は、正しくない、という廉で直ちに排斥されるようにはできていません。法律の定める正しさに違反した時には、随時排斥されますが、ここで正しさについて考えている状況の人で、それに当てはまっている人というのはいないと想定していいと思います。だから我々が気にしている正しさとは法律とはまた別の、より厳格な正しさなのだということがわかります。

 

たとえば会社の内規に反していず、1MD以上の成果を出さなければならないという不文律にも反していないのであれば、会社から排斥されない、というのはその厳格なルールの一例です。このルールはまだ必要に属するものだと思いますが、友達の間や家族間の取り決めはどうでしょう。昔の友人との古い約束事もあるでしょう。一度自分が持っている正しさの棚卸が必要だと思いました。古い時期に身につけた正しさや賛成できない正しさを外していくことが正しさを捨てるということの部分的な意味だと思います。

 

>悪人正機説

大乗仏教悪人正機説もこの正しさの存在の否定を含んだ思想であることが言われています。

みつろう:「善人」ってのは自力で頑張っている人のことなのか。

悪魔:「自力」というマボロシを信じている人のことさ。

だから、「自力作善の人」とも言う。一方「悪人」とは、自分自身のチカラの限界を認め、アミダの本願力に身を任せている者のことだ。

「悪を行った自分に後ろめたさを感じ」(=天国に行けないかも)「でも念仏を自力で唱えたからセーフだ」(=条件を満たしたから天国へ行ける)と思っているから、ダブルでアミダを裏切っている。

…(略)…

「悪を行った自分に後ろめたさを感じた」ということは、この宇宙には「悪」という行為があり、それをやった人は天国には行けない、と思っている。「悪がある」と信じている時点で、アミダへの裏切りだ。

…(略)…

そして、2つ目。「地獄行き」になりそうだったけど、それを自力(念仏)で修正できるはずであると、またもや他力本願を疑っているのさ。

信心深く品行方正な聖職者も、犯罪者も等しく善人だということが言われています。どちらも、正しいと信じることを成しているためです。前者は社会にとって善いことを、後者は自分にとって善いことを成しています。前者の善は広く認められるので善人と呼ばれ、後者の善は認められにくいので悪人と呼ばれているだけであって、正しくは「わかりにくい善人」とでも云うべきものです。

 

「わたし」には、世界の何1つとしてコントロールできていない、と気づけばいいのさ。そもそも、「自力」なんて初めから私にはなかったと、ただシステムへの気づきがあればいい。

…(略)…

「わたし」が起こしているようで、実は全ての流れが起きていただけなのさ。「わたし」は、その目撃者だ。「せかい」の全てに、実は「わたし」は何も関与していない。「せかい」で起こっている現象の中から「これは、私が起こした」と勘違いした部分を「自力」と呼んでいるだけなのさ。

 

この自力の否定の思想は、先述の正しさの放棄の話と酷似しています。自力で目指すべき状態であったり達成点であったりはまず間違いなくその人にとって正しいことなわけです。目的である正しさは苦しみの源泉であるということが言われて、さらにそれだけでなく、そこに至る手段である努力や自由意思というようなものは、存在しないということが言われています。

 

引き寄せの法則もこの思想に近いものがあります。引き寄せの法則の願い方は意識するだけなので、努力が不要であると説かれるからです。信じる対象はアミダではなく、宇宙の法則だったり、内なるナントカだったりします。引き寄せの法則にしろ、この他力本願の教えにしろ、これらの教えが甘美なのは、今までのアプローチと次元が違うからだと思います。xxをすると、やる気が出て目標が達成できます、というのであれば、それは今までのやり方と何も変わりません。努力にはいろいろな方法がありますが、努力しているときの我々はその時にアクセスできる最高の方法でやってきたはずです。努力というのはそうやってベストを尽くすことが原理的に含まれている行為だと思います。そしてそのようにやってきて、今の現状に不満があるわけです。ここまで考えると、この上今までのやり方の延長線上の方法を続けて、状況が変わることを期待するのはかなり望みが薄い気がしてきます。そんなときに示される他力本願、引き寄せが自力を否定して示すものは意識を超えた原理や潜在的な力という何ものかなわけです。今までやってきた努力だって全力を尽くしてきた、ということは先に述べましたが、ということはその先の努力は時間や根性の制約によって手が届かなかった部分なわけで、これらはもはや、自力にそのルーツを持っていますが、他力の領分だとは考えられないでしょうか。

 

>正しい願い方は、勘違い

この世は勘違い合戦だ。「そう」勘違いした者の前に、「そう」勘違いされた世界が現れるのだから。「私は背が高い」と勘違いした者が、背が高い私を見ている。「私は幸せだ」と勘違いした者が、幸せな世界を見ている。「私は金持ちだ」と勘違いした者が、シャム猫をプールサイドでなでる世界を見ている。

願うのはどうしてだ?信じていないからだ。

信じている者は、願っていない。願っている者は、信じていない。

みつろう:幸せになりたい人って、「幸せじゃない」と思い込んでる人のことだし。

悪魔:そうだ、願い方をまちがえているから、勘違いが上手に進まないのさ。

幸せになりたい!」と願えば願うほど、「幸せじゃない!」という勘違いが進む!この鏡の仕組みに気づけ。反射する「せかい」なんだから、「幸せになりたい」と願えば願うほど、「幸せじゃない証拠」が映し出されるじゃないか。

「幸せ」を望む者には、システム的に「不幸」が必要になってしまう。じゃあ、「幸せ」を真っ先に手放せばいいのさ。

他の本でも言われている、前提が実現化する、というやつです。幸せを手離す、とはどういうことでしょう。幸せになりたいと思うとき、われわれは不幸の渦中にいるつもりで、幸せを希求しています。そうすると「不幸の渦中にいるつもり」の方が現実化するので、まず願望の方の、「幸せを希求する」ことをやめるという事でしょう。こう考えると、逆に、「幸せの渦中にいるつもりで、不幸を希求する」のが幸せの願い方だということになります。

 

幸せを希求する態度を手離す

幸せの渦中にいるつもりで、不幸を希求する

 

それはなんだか悪趣味な感じがします。正しくない感じがします。これこそこの本のテーマの正しさを疑え、という事なんだと思います。どうやら私は、人間は幸せを希求するものだ、幸せを希求するのが正しい、と思っているようです。より幸せな状態を夢見て、前進を続けていくのが正しい姿であるという命題には、その前提として現状に不満な状態があります。その論で行くと努力もする必要がないということになります。努力するのは現状に不満だからで、それを自力で変えていこうという営みなわけですから。一方で、本書の別のところでは、努力は勘違いを進めるいい効果もあるという話があります。xx年努力したんだから、賢くなっているはずだ、うまくなっているはずだ、というように。

 

努力肯定説と努力否定説、ここでは努力否定説を採用したいと思います。やはり最初に言ったように、努力で何とかなるという話なら、ここで言われていることは何の面白みもありません。努力して苦労した人が成功しただけですから当たり前の結果というべきだと思います。そうではなくて発想の転換で、自力とは別の次元で問題解決を図るということの方に意味を見出したいと思います。

 

>不所有、不理解

いいか、この宇宙の、どの瞬間、どの場面を切り取っても、「わたし」と、「せかい」と、【体験】の、3点分離以外は、何も起こっていない。

…(略)…

[ここ]にないモノなら、全部が「向こう]にあるはずだよね?逆に、〔向こう]にないモノは、全部が「ここ」にある。

…(略)…

貴様ら人間どもの日々は、この「極」から「極」への移動ゲームなのさ。

みつろう:独り身の時は、彼女が欲しくなる。

でもいざ彼女ができると、1人になりたくなる。

いつも、こことは違う場所を僕は要求している。

悪魔:この幻想のゲームから抜け出す方法は、簡単だ。

今いる場所がどこであれ、そこを楽しむのだ。すると、ブランコの揺れは収まってくる。そして、全く揺れていない点で止まる時。貴様らは、この宇宙の全てを手に入れるであろう。

理解できるアドバイスなど聞く意味がない…自分が持っている知識で消化できることを、「理解」と言う。ということは、「理解できるアドバイス」とは、自分自身がすでに持って識を超えていないということだ。そんなものに、いったい何の意味があるのだろうか?

そもそも、ネイティブには「所有」という概念がない。単語もない。その発想が、分からないんだよ。「手に入れる」とは、どういう意味なのか。全く理解できない。大自然の一部であるこの肉体が、大自然を、手に入れる?一部が、全体を、手に入れる。こうしてインディアンたちは、「外界の何かを所有する」という近代文明の考えを死ぬまで理解できなかった。だから、海を越えてやってきた欧州人たちが、「この土地は今日から俺たちのモノだ!よこせ!」と言った際も、何の話をしているのかすら、本当に理解できなかった。

「得た」モノなら、絶対にいつか「失う」。それがたとえどんな「モノ」であれ、「地位」であれ、「関係性」であれな。車を「得た」なら、いつかは「失う」。土地も「得た」なら、死んだタイミングで「失う」。命も「得た」なら、いつかは「失う」。例外なく「得た」なら、「失う」運命にあるのさ。だから、ブランコの全体が見えている者なら、こう言う。得たのではなく、失い始めたのだと。生まれたのではなく、死に始めたのだと。

そもそも所有とはなんでしょうか。所有といえば、プラトンの『饗宴』を読んだ時に所有の話が出てきました。このときには所有を認識に比べて刹那的でないもの、というのは思い込みで、所有も認識も刹那に属するものであるという考察をしました。本書も部分的にその論を補強する主張だと思います。本書で不可能だと断じられている所有というのは、土地を持ったり財産を持ったり、刹那性に抗おうとする所有だといえます。これが幻想であると断じているわけです。

 

『饗宴』プラトン著 - H * O * N

 

ところでなにか美を含むもの、たとえば素晴らしい作品に触れたとき、それを所有したいと思うのは自然な感情だと思います。こういうとき人は、グッズを買ったり、dvdセットを買ったりします。これは刹那性に抗う所有です。こういうことをしても作品に対する渇望は埋まりませんが、とにかくそういうことをしたくなる、それは所有欲の発露な訳です。

 

さらに深い所有の姿というのがあると思います。すなわち、その作品に関する二次創作をするというのがこれです。これは、なにか具体的な財産を所有するわけではありませんが、所有としてはより深いところにあると思います、というのも、こちらのアプローチのほうが、作品の所有、ということの実相に迫っているからです。

 

作品の所有は例外なく認識から始まります。作品というものの定義からして、それは見られ、聞かれ、味わわれることを意図されているものです。そして認識による出会いの後、所有による関係が始まる、というのが一般的な見解であって、この見解からグッズの購入とか、dvdの購入とかという行動が生まれてきますし、変わったところだと金銭を支払ったという事実を所有の証とする形の寄付だったり、作品に共感する人が集まる同好会だったりします。そしてこの見解は幻想である、というのがここまでの話です。幻想であるとはつまり、本当の所有というのは、認識に始まり、認識の枠を抜け出すことなく、認識で終わるものだと思います。だから作品を鑑賞しているときには、認識しているわけですから、作品を所有していますし、鑑賞が終わっても、追憶の中にいる間は、やはり所有しています、しかしなにかものを買ったり、集まりに参加したりしたときに、それはどこまでも物品の購入や会合への参加に過ぎないのであって、作品とは関係ない、というべきだと考えます。考えてみると、認識の喜びと、購入の喜び、会合の喜びは全く似て非なるものだということがすぐに了解されることと思います。

 

してみると二次創作をしている間は、作品そのものの筋や事実よりも、それを鑑賞した読み手の認識にスポットが当たっています。認識を深めているわけです。だからそういう創作活動の中で、原作の原義から外れてきて、二次創作作品が一人歩きするということもありうることだと思います。この現象は、二次創作が深いレベルの所有であることの根拠になります。人間は、外界の情報やメッセージを厳密に原義の通りに受け取れるようにはできていません。必ずフィルターを通して認識します。なので作品に触れたその時から、作品そのものを純度100%で受け取ってはいません。だからこの二次創作作品の一人歩きです。ここまで考えて言えることは、ひとは厳密な意味では作品を所有することはおろか、作品を認識することすらできない、ということが出てきます。

 

深いレベルで鑑賞しようとすると、結局自分の内を掘ることになる、なのでテーマが何かということは究極的には問題にならないと思います。サッカーだろうが読書だろうが何でもいいわけです。しかしモノをため込もうとする方向の努力は何においても誤りであるということが言われています。ウェアやシューズにお金をかけることよりも技術を磨くことが認識の深まりに資するという事なんだと思います。