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『宇宙はイケメン彼氏』Happyhappy著

>いまとは何か

「過去」と「未来」は考えることはできても、「感じること」はできなくて、逆に「いま」は「感じること」はできても「考えること」ができません。

たとえば、「ゾンビの映画」を観ているとします。

ここでもし、自分は「ゾンビに襲われる映画の主人公なんだ」と信じ切ってしまったら?

「こんなのいやだ、平和を味わいたい」と思ったら、「ゾンビを倒す方法、ゾンビから逃げる方法がいる!」と考えますよね(映画の中で)。

毎日、「どうすればゾンビを倒せるか、どうすればゾンビから逃げられるか」で悩み続けるはず。ほんとうに「自分はこのゾンビドラマの主人公だ」と思いこんでいるんだから、そりゃあもう一大事でしょう。非常に深刻な大問題です。......って、おかしいですよね(笑)。ほんとうは「こたつでミカン」のお茶の間にいるのに。

でもじつはわたしたちも、これと同じことをやっているんです。

炬燵でミカンというのは、「いま」と「過去と未来」の関係性を表現するための枠組みで、「いま」がテレビに映った「未来と過去」を見ている、と説明されます。

 

>わたしとは何か

いま、すこし顔をあげて感じるままにいろいろ言葉にしてみてください。心の中で。ぶつぶつ言ってみましたか?何て言ったか聞こえましたか?ちゃんと言葉が聞こえましたよね?

そう、じつは聞いているほうが「ほんとうのわたし」なんです!

同じように「自然界に存在するすべてのもの」、それは物に限らず「行動」や「感情」までにも名前がつけられ「意味」や「概念」が与えられています。

そしてそれは「わたし(と思っている自分)」にも当てはまるんです。「わたし」自体に意味はないし、「あなた」自体にも意味はない。

「九州の出身」で、「運動神経が悪く」て「走るのは苦手」で、「お金持ちでもない」し、「美人でもない」し、「これといった資格もない」し......などと、どんなに言葉を重ねて説明をつくしても、それらはただの「情報」であって「わたし」そのものではないんですよね。

「ありのまま」。それは、わたしたちが便宜上つけた「意味」や「情報」をすべて剥がした姿のこと。

ここの説明と似た話を、前に別の本で読みました。

 

ヤージュニャヴァルキヤが一貫して追い求めたものは、真実のアートマンである。世間の人びとがアートマンだと思っているものは、真実のアートマンではない。というのも、「アートマン」を意味するとされる「わたくし」ということばを主語として、世間の人びとは、それにさまざまな述語(属性、限定)を連結させるからである。「わたくしは~である」と世間の人びとは口にし、それがアートマンであると思っている。しかし、真実のアートマンは、いかなる属性も限定ももたない。つまり、真実のアートマンは、こうである、ああである、というように、ことば(概念)によって捉えることはできない。あえて真実のアートマンをことばで表現しようとすれば、右の「~」に入りうるあらゆることばを羅列し、そして片端から、「~にあらず」というしかない。

『仏教誕生』宮本啓一著 - H * O * N

 

まさかの仏教誕生。その時に「言語的アプローチの限界」ということを言いました。本書ではその限界にさらに克明に切り込んでいることがわかります。言語を使った瞬間から、言語と言語的アプローチが、非言語的自分にとって他者になる、聞いている方の自分、すなわち言語的でない自分、ということが指摘されています。

 

>世界に対する非言語的アプローチ

「イライラしちゃダメなんだ」と勘違いされる方が多いのですが、「イライラ」したらダメなわけではないんです!

「イライラ」したらダメなわけではなくて、「イライラ」するのはダメと否定したり、その「イライラ」を無視してしまうことが「ぶるぶるビート板」なんです。

「イライラはいやだ!」「モヤモヤはあっちいけ!」

とプールの中にビート板をつっこみぶるぶる耐える。

波に種類はないし、水にも種類はないように、「欲しいものも豊かなもの」も「いやなものも嫌いなもの」も、

同じプールの水ではありませんか!

だから、「いやなこと」に抵抗したり拒絶したりすることは、「欲しいものや叶えたい夢」に抵抗している(遠ざけている)ことと同じなんです!

「ほしいもの」と「いやなもの」が同じもの、同じプールの水、という説明はどういうことでしょうか。言語というのは、カオスな世界に区切りを与えるものであるという話を、高校の現代文の教科書で読みました。アメリカでは、タヌキのことを「ラクーン・ドッグ」と呼びます。つまりドッグの仲間なわけです。日本人は犬とタヌキは全く別物と考えていて、名前がちがいますが、アメリカでは命名規則から考えると犬の仲間である、そういう見方を支持するとすると、犬とタヌキは結構共通点が多いことに気付きます。四本足で毛むくじゃらで、見た目だけ考えても結構似ています。タヌキを犬のグループと考えるか、タヌキという独立したグループと考えるかが、言語による仕切りなわけです。

 

これも何か別の本で読んだことですが、エスキモーには「白」を表す言葉が何通りもあるそうです。エスキモーの生活圏の景色を見たら、日本人は白一色だと考えますが、エスキモーは左の方はフワフワの白、右の方はピカピカの白、と考えるわけです。これも言語による区切りの問題です。エスキモーは日本人のいう「白」というグループの中に、いくつもの仕切りと領域があるということです。

 

言語による認識はこういうことで、言語による規定を外した世界は、いいものも悪いものもない混沌の世界である、と理解されます。言語情報をすべてはがした姿が真の自分という話と構造がよく似ていて、こちらも、言語情報をすべてはがした姿が真の世界なわけです。

 

「がんばって過ごす」というパターンを「ただ永遠に」繰り返しているだけだったんです。だからどこまでいっても「ゴール」にたどり着けないんです。「ゴール」だと思ったら「スタート」になっちゃう。あまりにも無意識にそのパターンを繰り返しているので、「埋める穴」が見つからないと、逆に「ざわざわ」感がすごいんです!

だって「がんばることがよいことだ」って思ってるんですから。「がんばってないこと」はもう「犯罪」です。

するとね、どうするかっていうと、自分でわざわざ「穴」を掘っちゃうんですよ!(笑)

たとえば、子どもが学校で転んで少し怪我をして帰ってきただけなのに「誰かにいじめられたんじゃないか」とか「靴に問題があったんじゃないか」とか「グラウンドに石が多かったんじゃないか」とか、わざわざ「問題」を創りだして「解決しよう」とするんです。

この例は言語的なアプローチの典型的な例だと理解されます。言語的なアプローチ、それも自分の使い慣れた語彙による言語的なアプローチです。子供が転んでけがをして帰ってきたことを、「穴」として観る。転んだ原因は、グランドの石だった可能性がある、というのは本当ですが、こういう避難的なアプローチも、逆に元気に遊んだ証拠だ、と楽観的にアプローチすることも、どちらも言語的という点で共通です。

 

よーくハートを感じてみてください。理想のお金持ちになったら?どんな気持ちですか???

きっと「うれしいー、いっぱいある~、安心だ~」とかかな、と思います。

つまり、「いま」この瞬間から「いっぱいある~!ほっとする~!ありがたい~!」を先に、「自分」で見つけてどんどん味わうんです。

このとき、「方法や手段」はなんでもいいんですよ。ここ大事です。

「お金持ち」になりたいからといって「お金」のことにこだわらなくてもいいんです。

「いっぱいある~!ほっとする~!ありがたい~!」というこの感情は「お金」じゃなくても味わうことができますよね。

・洗濯物を干しながら「洋服、いっぱいある~!ほっとする~!ありがたい~!」って味わう。

・お米を洗いながら「米粒、いっぱいある~!ほっとする~!ありがたい~!」って味わう。

・トイレに行くときに「行きたいときに行けるトイレがすぐここにある!トイレットペーパーもいっぱいある!ありがたい!」とかみしめてみる。

そんな風に、「手段」はなんでもいいから、自分で先に「ある」の波動を出すんです。すると「ある」の結果があとからついてきます。

非言語的アプローチの一端が言われています。非言語的なアプローチというのはこのように脈絡や論理性を排除した世界観のことだと理解されます。洋服や米粒がいっぱいあってもお金がいっぱいあることと関係ないんじゃないか、という疑問は言語的です。

 

>引き寄せの法則に取り組む態度

この本は、引き寄せの法則、というジャンルに属する本です。本書は引き寄せの法則には非言語的に取り組むべきである、と示唆していると思います。普通人間は物事に取り組むとき言語的に取り組んでしまいがちです。いいことを考えよう、という指示を、言語的に解釈すると、いいことを考えるのは善で、悪いことを考えるのは悪という価値判断が生まれてきます。しかし本書で繰り返し述べられているように、いいこと、悪いこと、というものは非言語的な枠組みには存在しません。引き寄せの法則で記述されているいいことと悪いことの体系を学んで、それに基づいて生活するようになっても、そこでいういい状態を目指して悪い状態を排斥するように努めていく、その中でいい状態にはまだ届かないけど前に進もうとする、いつかいい状態になる、今は少し悪い状態、少しだけ不幸…というわけで引き寄せを始める前の状態に一周廻って戻ってくる、というようなことがあると思います。これは引き寄せの法則を言語的に理解してしまった状態だと理解されます。そうではなく、いい状態も悪い状態もない、いい状態でなかった過去もいい状態になっている未来もない、そもそもそういう価値判断や時間の概念は人間が世界を理解するときにわかりやすいように導入された枠組みであって、この仕組みの中で抜け落ちた情報にこそすべてがある、ということが言われているんだと思います。

 

言語的な理解や活動が、非言語領域に影響を与えるということは間違いなくあると思います。お風呂に入ると気持ちいいということや、注射が痛いということは、言語的な活動の範疇ですがその帰結として非言語的な結果をもたらします。それは自動的にで、また事実としてそうなるわけです。不愉快な入浴体験や、気持ちいい注射体験というものを想定することは非現実的で意味がないと思います。御しにくい非言語的な領域を間接的に制御する方法がある、というのは便利な話で、だから、そういう具体的な方法を整理して記述することは、いいことだと思います。