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『仏教誕生』宮本啓一著

>言語的なアプローチの限界

ヤージュニャヴァルキヤが一貫して追い求めたものは、真実のアートマンである。世間の人びとがアートマンだと思っているものは、真実のアートマンではない。というのも、「アートマン」を意味するとされる「わたくし」ということばを主語として、世間の人びとは、それにさまざまな述語(属性、限定)を連結させるからである。「わたくしは~である」と世間の人びとは口にし、それがアートマンであると思っている。しかし、真実のアートマンは、いかなる属性も限定ももたない。つまり、真実のアートマンは、こうである、ああである、というように、ことば(概念)によって捉えることはできない。あえて真実のアートマンをことばで表現しようとすれば、右の「~」に入りうるあらゆることばを羅列し、そして片端から、「~にあらず」というしかない。

認識主体という超言語的な存在に対する、言語的なアプローチの限界であると読めます。

 

>世俗の価値観の超越

つまり、世俗の価値観である善悪を超えることこそが、修行の目標として立てられるべきだと主張したものであると思われる。ずいぶんと乱暴な表現になっているのは、そこまでいい切らないと、善悪の彼岸とは何かを、弟子たちに直観させられないと考えた末のことであろう。

時代も地域もへだたるが、中国や日本の禅宗でいわれる、「仏に逢ふては仏を殺す」という、一種のショック療法的な文句をここでひきあいに出してもよいであろう。現に、現存最古の仏典の一つと目される『スッタ・ニパータ』(一四六―一四七ページ参照)をひもとけば、おだやかな表現ながら、釈尊が、いかに「善をも悪をもかえりみず」といったことを強調していたかがすぐにわかる。いいかえれば、道徳否定論者プーラナ・カッサパの說自体は、釈尊の説と何の変わるところもないということである。

仏教が大衆仏教、葬式仏教として発展して、社会秩序の増進という任務を帯びたときに、世俗の価値観における善、善行に対するご褒美(天国)と悪、悪行に対する罰則(地獄)という概念が出てきます。大衆宗教の価値は、当時においては社会安定に資するという道具的価値、現代にあっては過去そのような経緯で民衆に支持され浸透していて、そこからさまざまな精神性や文化が生まれたという歴史的、文化的価値だと言えると思います。

 

引用の部分は仏教が生まれる前の聖人の思想に触れた部分であり、仏教が生まれる前から世俗の善悪の超克ということは主要なテーマだったのだと知れます。

 

>瞑想と苦行

のちの大乗仏教になると、禅定の最高境地である三昧(心がまったく不動になった状態)をもって解脱(成仏)と見なす傾向がしだいに顕著になり、密教にいたってクライマックスに達する。釈尊がはじめのころついたふたりの仙の教えは、かなりそれに近いものであったと考えられる。つまり、禅定のつぎなるものとしての智慧の獲得というものが、彼らの教えには欠如していると釈尊は漠然とながらも直観したにちがいないのである。

禅定は智慧とは原理的に無関係である。三味じたいは、生来禅定に向いた心的傾向をもつ人(おそらくかなりの少数派だと思う)ならば、教理とは無関係にいとも容易に得られる。三昧をある種驚異的なこととして尊ぶ傾向は、生来禅定に向いた心的傾向をもたない多数派の、埒もないあこがれから醸し出されたものだといってよいであろう。

釈尊は、人並はずれて禅定に向いた心的傾向を、これといった鍛錬なしにもちあわせていた人物だったようで、だからこそ、ふたりの仙人が最高だと説く境地に、いともやすやすと達したのであろう。禅定の、あたりまえにして最大の問題は、そこから戻れば、またもとの雑々として心を乱す日常生活が待っているということである。いとも容易に最高の禅定の境地に達し、またもとの状態に戻るのみ、これが、老いや病や死といった苦しみから最終的に逃れる道だとは、釈尊にはとうてい思えなかったということであろう。

このような過激な苦行をつづけていくうちに、釈尊は、あらゆる苦しみに堪え得る心を練り上げ、ほぼ完璧というところまで行きついたようである。しかし、どんな苦しみにも堪え得るということと、苦しみを起こす心的機構を根絶し、超越的な平安な心を得るというのは別ものであった。いかなる苦しみに堪える心を得るというのは、苦しみを起こさない心を得るということではない。したがって、強固な意志だけでは、苦しみが起こるのを最終的に遮断することはできない。現に釈尊は、世俗生活への誘惑とつねに対決しなければならなかったし、そのため、みずからの道の正しさについて迷いつづけたという。このはげしい葛藤は、足かけ七年、満六年の長きにわたってつづいたとされる。なお、世俗生活への誘惑とその克服という話は、仏伝では、かなり古い時代から、悪魔の誘惑と悪魔の退散という神話的エピソードをもって語られている。

仏教以前のインドで宗教的に高いステージに上るための手段とされていたもので、釈尊自身も悟りを開くまでに経験し、その不完全性を実感して棄却したものが、瞑想と苦行と書かれています。

 

>悟り

生理学的にいえば、生存欲の中枢は、進化論的にもっとも起源の古い脳である視床下部であるという。この古い脳は、個体維持のための体温調節中枢と食欲中枢、そして種の維持のための性欲中枢との三群よりなる。ここが生理的にまったくの機能不全に陥ったり物理的に破壊されたりすれば、たちまち、死への道を一気にたどることになる。

ちなみに、わたくし自身の体験に即していえば、断食という苦行をうまく完遂すれば、食欲と性欲はみごとに消滅する。食欲中枢の機能低下は、隣接する性欲中枢の機能低下を誘引するようである。この状態において、幻覚剤メスカリンを服用したのと酷似した意識の拡大が起こる。身心の清澄なること、余人の想像を絶するものがある。釈尊が、かつて断食に耽溺した一因は、おそらくこれだと推察される。ただし、断食を止めて食を開始すれば、元の黙阿弥、心は汚濁する。恒久的に食欲と性欲とを抑え込むには、ただの行ではなく、徹底的に合理的な理念、つまり智慧をまたなければならないことは、ここからも容易に理解される。釈尊が最終的には苦行を捨て、智慧を得るための瞑想の道を選んだというのち、まことにもっともなことであった。

ジャイナ教の解脱者はさておき、釈尊、そしてかなりの仏弟子たちは、生存欲をそのような生理的なかたちで断じたわけではない。釈尊は苦行を捨てたということを忘れてはならない。ここで、「生存欲を断ずる」ということを、ジャイナ教的にではなく、釈尊、つまり仏教に即して見れば、それは文字どおりに食欲中枢、性欲中枢をまったくの機能不全に陥れようというのではなく、生存欲を持続的に抑制する、きわめて安定した心的状況を確立することだといいかえてもよい。

したがって、かれらは、体温調節機能は別として、性欲機能を完璧に抑制しつつも、生きるに足るだけの範囲において食欲を開放するという、いささか離れわざのようなことができたというべきである。ジャイナ教の解脱者は、この点について極端で、生のニヒリズムに到達した人は、少しばかりの食欲の開放すら許さず、飢えて死ぬ道を一直線に突き進んだのである。

悟りを脳機能の見地から説明すると、食欲と性欲の座である視床下部の部分的な機能抑制である、とされています。

 

>悟り以外の部分

戒律は、およそ考えられる事態をあらかじめ網羅的に想定し、はじめからがちがちに定められていたのではなく、ケース・バイ・ケース、もしくは、いいかたは悪いが、行きあたりばったりに定められていったのである。ここから、釈尊は、戒律について、原則遵守主義をではなく、プラグマティズムを貫いたということがわかる。うまくいっているあいだはそのままでよし、何か具体的な不都合が生ずれば、そのとき最善の対策を講ずればよろしいというのが、釈尊の、戒律についての基本的スタンスであった。

繰り返すが、釈尊はリゴリスト(厳格主義者)ではまったくなく、あくまでもプラグマティストだったのである。つまり、リゴリストのように戒律戒律と叫ぶほど、釈尊は戒律に関心があったわけではない。いうまでもなくこれは、釈尊が生のニヒリストであったことに由来する。戒律は、弟子たちに必要だから設けたのであって、釈尊自身についていえば、まったくのところ、どうでもよいことだった。釈尊が、リゴリストたちから、ずぶずぶの現実妥協主義者ではないかと疑われたのも無理のないところであった。

釈尊は理論を軽視しなかった。むしろ、理論、理屈をよく理解し、頭に留めておかなければ、正しい修行は不可能だとした。釈尊が不可としたのは、経験的な事実にもとづかない議論、理論のための理論、理屈のための理屈にかかずらうことであった。

…(略)…

釈尊は、理論体系を完成しようとは考えなかった人である。ゲーデル不完全性定理をまつまでもなく、かれは、完全な理論体系の構築など不可能だということを直観的に知り尽くしていた。実践修行が必要とされている場合、理論体系を整備することに汲々とすることは無益なことでしかなかった。そもそも教え(理論的な)は、ニヒリスト釈尊自身にとっては意味のないものであった。ましてや、水掛け論的な議論など、空しさの極致でしかなかった。経験論にニヒリズムが合体すれば、ここにプラグマティズムが誕生する。所詮は、すみやかに窮極の境地に弟子たちを導くために実効性のあるものが正しく、そうでないものは邪道だという判断が、ここから明快に引き出される。

かりに、大乗仏教やほとんどの仏教学者がいうところにしたがって、方便と慈悲とはイコールだとしてみれば、ただ今の文脈からして、次のようにいえるであろう。すなわち、慈悲は、釈尊その人にとってはなんの意味ももたない世界を、あたかも意味があるかのごとく創出する一種の幻術である。ただ、幻術を自在に操ることのできるのは、世界と自己とになんの意味も見いださない「生のニヒリスト」以外にはない。それは、生活のあらゆる面でクライアントとまったく利害関係をもっていないことが、心理療法家としては理想の状況だというのに似ている、と。

釈尊は、経験論とニヒリズムに裏打ちされたプラグマティストであったからこそ、やすやすとそのような妥協的な態度に出ることができたと考えるべきである。

あからさまにいえば、釈尊にとって、ある種肝腎なことがらをはずすことがなければ、あとのことは、その肝腎なことがらに資する可能性が多少ともありさえすれば、どうでもよいことだった。余計な誤解は極力避けたとはいえ、誤解を避けるのに懸命になるほど、釈尊はこの世のことに関心があったわけではない。釈尊が、成道後、しばらくのあいだ説法に打って出ることを躊躇した最大の理由は、まず誰も自分のいうことを理解できないであろう、誤解するのがせいぜいであろうという予感であった。いささかの心理的経緯があって釈尊は説法を開始したが、このような釈尊にしてみれば、ともかく説法を決意した以上は、その芳しくない予感が的中したとしても、少し心をいためるには及ばなかったというべきであろう。

悟り以外の部分に対する釈尊のスタンスを総合して、彼は経験論とニヒリズムに裏打ちされたプラグマティストである、とされています。

 

この一文は本書のコンセプトを凝縮した一文になっていると言えると思います。経験論的であるということは、自分の経験をもとに言動を構築していく態度であって、瞑想と苦行をやってきたけど、そのどっちも完全じゃなくて、最終的には禅定によって悟って不動の知恵を得た、という経験が初期の仏教の教えの核となっているということだと思いました。ニヒリズムというのは、俗世で生きていく中で経験する喜怒哀楽は結局悲しみにつながっている、帰結は老いと死でしかない、という悲観的、虚無的なものの見方で、これがそののちの悟りという経験に至る旅の出発点になっています。プラグマチストというのは、道具主義者のことで、悟りを開いた後の釈尊の態度についての評だと読めます。教団の経営にあたって、最も重視したのが、それが役に立つかどうかだったというのですから、宗教団体としてはかなり異色だと思います。宗教団体が最も重視するのは、その宗教が信仰する最高神に決まっているからです。

 

釈尊は経験論とニヒリズムに裏打ちされたプラグマティストであった

 

悟りを開いた後の釈尊が、生のニヒリズムに支配されて朽ち果てる死を選ばなかった説明についてはよくわかりません。宗教的には梵天勧請によるもので、本書の説明では、

 

生きることにまつわる自己および世界についての意味づけ、価値づけを行わなくなったニヒリスト釈尊は、どのようにしてこの世に身を処することができたのであろうか。それは、釈尊が、意図的に意味ないし価値を「創出」したからである。あるいは、釈尊は、創造神話をみずから演出し、みずからそこに出演したといってもよい。

ヒンドゥー教最高神ヴィシュヌになぞらえていえば、釈尊は、本来みずからにとってまったく意味をもたない世界を、いわば幻術師(マーヤーヴィン)が幻(マーヤー)を繰り出すように、あたかも意味があるかのごとくに創出したといいかえてもよい。

としていますが、前者は伝説の域で論外ですし、後者にしてもやはりよくわかりません。意味がないということを芯から知ることが悟りであって、そこに至るまでに世俗のすべてのことを捨て去っているのです。家族や財産や全てをです。そんなことをした後に宗教団体の教祖として一から頑張ろうという気になるものでしょうか。なぜ現世の苦しみは全力でこれを退けたのに、教団運営にまつわる身体的、精神的苦労はこれを享受するつもりになったのか、そこのところがわからないままでした。

 

常識的に考えてわかるはずがありません。なんといってもブッダであらせられるのですから。しかしそんな神の域の判断を一人の人間であるところの私に引き寄せて考えると、悟った時点で現世の苦しみの質が変わった、ということはありえると思います。つまり苦しみは苦しみですが、悟った瞬間に今までとこれからの苦しみは例外なく、「征服しうる」苦しみになったわけです。人間を一番恐怖させるのはわからないということです。死の恐怖というのは原理的に不可知なものなので、人間が死の恐怖を克服することはできないように見えます、然るにブッダは、悟りの定義から言って、死の先を見ることなくその恐怖を克服できたわけです。すべての営みと苦しみは死に連なっているという話ですから、後は芋づる式で他の苦しみも克服され、他の営みも意味を失います。そういう状態になった人にとって、苦しみは心乱すものではなくなる、ということになると思います。死ぬ気になれば何でもできる、というのと似ていて、死ぬ気になった人というのは要するに死に恐怖することをしない、というルールを作って守る人です。彼らは悟っているわけではありませんから、実際に死ぬ段になると恐怖するし、そのほか状況が変わったら恐怖することがあるでしょうが、そういうロジックで勇敢な行為や凶悪な行為に及んだ人はたくさんいたし、人間の心的機構にはそういうことができる幅があるものだと思います。

 

こう考えると、悟りから教団運営までの釈尊の心境は、現世の苦しみに嫌気がさして、苦しみからの解放を目標にして頑張った結果、苦しみから原理的に解放されることができた。この状況になると、苦しみはあえて避けるほどの意味がなくなってしまった、という風に説明できると思います。

 

征服しうる苦しみは、恐れるに足りない