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『運命は「口ぐせ」で決まる』佐藤富雄著

>少しだけ不幸

誰もが自分のことをなんらかの意味で不幸だと思っている部分があるということです。主婦の人たちを例に挙げると、彼女たちは、夫に対する不満をたくさんもっています。「私はいい心をもっているのに、夫はわかってくれない」「私は優しい言葉をかけているのに、夫はかけてくれない」「私は家族のことをこんなに心配しているのに、夫は理解してくれない」......。

十人中八人くらいは、こういうことをもらします。では、不幸かというと、そうでもないのです。それなら別れたらいいといっても、絶対に別れない。つまりは、少しだけ不幸、なのです。

 

これは非常に覚えのある感覚です。この感覚はきっと、他の様々なもっと大きい、人を本気で悩ます懸案の呼び水になりうるものだと思います。主婦の話の例を考えると、「私は優しい言葉をかけているのに、夫はかけてくれない」という悩みは、それだけでは離婚に至ることはない、ということは本書でも述べられていますが、例えば夫の仕事が忙しくなり、ますます家庭にかける時間が減ってきて、そこへ別の女の影がちらつくようなことが起こると、その真偽はともかく、これはもう悩みと呼んで差し支えないボリュームになるわけです。

 

>能力に対する思い込み

たとえば、パチンコをやらせたら負けない自信があるとか、釣りにかけてはまかせろとか、コンピュータなら一日触っていても飽きない......など。なんでもいいのです。要は、自分が、俺は能力がある、と思い込むことが大事だということです。まわりは誰も認めなくても、本人だけがそう思っている。これがだいたい成功している人のパターン、ものごとをうまくやっていく人の発想なのです。

 

これも同じで、こういう程度の自信であれば持っている人も結構いるでしょうし、持つことのハードルもそう高くないように感じます。しかし、総合して自信がありますかと問われれば、YESと答える人はガクッと減ってしまうでしょう。

 

要するに、われわれが普段感じる感覚や普段抱く所感には、不幸なものも幸福なものも雑多に含まれていますが、それらはひとつひとつでは不幸とも呼べないし、幸福とも呼べない弱々しいものなのです。総合した時に出てくる不幸な感覚とか朗らかな感覚というものはそれら小さい感覚の複合で、不幸な感覚の方が数が多ければ不幸な気分ということになるし、逆だったら幸福な気分ということになる、ということが論理的には言えます。

 

論理的には、といったのは、実際はそうなっていない、つまり、最初に引用した通り、朗らかな感覚の方が過半数を占めているということをもって、満足してしまうことができない性質を、人間は持っているということが言えると思います。最初の引用の主婦たちが離婚に踏み切らないのはそのためで、冷静に考えると幸福なわけなんですが、過半数の幸福は所与のものとして、少数の不幸に目を向けてしまうわけです。能力についても同じで、論理的には能力の偏差値50以上の人はみんな無限定の自信を持っていいわけですがそうならない、自分に足りない部分にフォーカスしてしまうことがあるわけです。

 

自分の足りない部分にフォーカスしてしまう

 

本書で言っているのはさらにラジカルで、不幸な感覚が朗らかな感覚よりも多くても、朗らかになっていい、自信を持っていい、というショッキングな主張です。こういうといかにも非論理的に聞こえるので、言い方を変えると、自分の気分や能力をはかるときのアプローチとして、論理的な方法は適さない、という言い方になると思います。論理的という枠組みの中でそもそも争っていないのです。

 

>論理的に考える

論理的でないという枠組みとはどのようなものでしょうか。偏差値が50以上だから能力がある、自信があるといういい方は論理的です。自身や能力の論理的な根拠が示されているためです。魚介類が嫌いだから、海老を食べない、という言い方はこの時点では論理的です。しかし、魚介類がなぜ嫌いかということになると、何となくあの感じが嫌い、としか言えなくなってしまって、非論理的な領域に近づいてきます。誰でも自分の能力の自信について上記のような方法で考えるし、自分の好き嫌いについて上記のような感想を抱くことがあるので、人は非論理的な思考も論理的な思考もどちらも持っているのですが、何か重大な選択をするときには論理的な方法を使うことが多いです。判断を失敗すると損をしたり痛い目を見たりする局面です。上記の能力の判定のような部分はまさにそうで、自分の能力を過大評価して分不相応な仕事に就くと痛い目を見るわけです。そういうリスクはみんな当然承知していて、そう言う時の判断には論理的な方法が使われます。上記の例で能力について何となくある、何となくないというような好き嫌いのときの判断方法が使われていないことは極めて一般的なわけです。

 

しかし上記の「少しだけ不幸」の感覚はこの論理的な判断による弊害です。論理的に損のないように判断して、自分の能力を最大限生かして占めうる社会階層に位置しても、先述のようにその位置には人間は満足できません。論理的に判断された今の座の正当な評価はのちに吟味が必要ですが、本書ではもう一つの非論理的な判断方法について話が進みます。

 

>イメージ成功法

過去に経験したいいことを繰り返し回想していると、そのいい経験の映像が脳に配線されていきます。脳に配線されると、人間の体はそのとおりに表現しようとしますから、いい経験がまた味わえるというわけです。これを上手にやっていこうというのが、イメージ成功法です。いくら想像力がたくましいとはいっても、人間は未来のことを想像するには限界があります。未来のことはリアリティがないからです。しかし、過去のことは現実にあったことですから、リアリティをもって想像することができるのです。では、どのようにイメージ成功法を行なうかというと、まず、自分の頭の中に小さな部屋を思い浮かべます。その部屋に自分の好きな家具や絵を配置する。自分の好きな部屋を空想の中でつくりあげていくわけです。そのとき、実感を伴って想像するには、部屋に配置する家具や絵を、これまでに実際に見ていなければなりません。人間は知らないものは想像できないのですから、日ごろから行動を通して、見て、触れて、自分の好きなものを知っておく必要もあるでしょう。そして、その部屋の中で自分を動かすのです。過去にあったすてきな経験を、頭の中にいる自分に、もう一度体験させるのです。

 

論理的でない方法、論理以前にある思考方法で何かを志向することができるのか、ということ疑問に対して、本書は、「人間は繰り返し回想したことを志向する」という解答を与えています。これを根拠づける経験則はいくつもあって、例えば小説家は自分の作品の登場人物の様な人生を歩むことが多いそうです(という話も本書の作者の他の著書で読みました)。

 

人間は繰り返し回想したことを志向する

 

ひとつには、経験、ということが挙げられます。私たちは、自分で経験したことしかうまく想像することができないし、経験したことなら何度でも繰り返し想像することが可能です。つまり、想像するためには経験が必要だということです。二つ目に重要なことは、知識、です。経験と同様に、私たちは知らないことを想像することができません。外国人が富士山を想像できないように、知らないことを想像すると、リアリティに欠けてしまうのです。ですから、その現象に対する知識をもっていることは重要な要素となります。三つ目に大切なことは、情報、です。たとえば、旅行に行こうと思っても、そこがどんな場所で、どんな行き方があって、どんな荷物をもっていったらいいのかという情報がなければ、旅をうまく構成することができません。これと同じで、想像も、その現象に対する情報がなければ、実際に構成して想像することができないのです。このように、想像するためには、経験、知識、情報、の三要素が必要です。そして、あなたがもっている三要素の質と量によって想像空間が決まってくるといえるのです。つまり、想像の三要素が質・量ともに充実していれば、イメージ成功法も簡単に行なうことができるし、また、いくらでも想像空間を広げることができるのです。それがすなわち、自分の人生の可能性をも広げることができるということにほかなりません。

 

大事なことは、経験、知識、情報であって、

 

ここで大事なのは、目的というのが全部視覚化され、映像にならないとだめだということです。一億円もうけようと思っても、一億円という単位は目標にはなりません。金額そのものが目標にならないのは、それだけでは自分がなりたい状態を思い描けないからです。要するに、自分の頭の中に絵として想像できるものしか目標にはならないのです。

 

この三要素がそろった想像は、どうなるかというと、「視覚化」されるわけです。この認識レベルが大事なんだと思います。

 

身近なことで考えてみると、たとえば、仕事へ行くのに毎日会社までの道筋を考えながら家を出る人はいないでしょう。駅まで歩いて電車に乗り、電車の出入口ではきちんと人を避け、乗換駅では間違えずに降り、また会社まで歩いていくわけです。これは、ほとんど無意識のうちに行なわれます。つまり、初めに脳にインプットされたときから、コンピュータが自動的に働いているのです。このように、脳のコンピュータは、目的の情報を入れると、その目的を達成しようと自然に動きます。それは、古い脳がもっている特性、すなわち、生きていくために、最適な状況をつくりながら生命体を維持していくという働きを、そのまま利用しているのと同じです。

たとえば、トイレへ行こうという目的を定めると、確実にトイレへ行って用を足して帰ってきます。トイレへ行こうと思ったのに交番へ行ってしまう人はいません。しかも、トイレへ行くのに、トイレ、トイレ......と言いながら向かわなければ、どこかへずれていってしまうわけでもありません。トイレへ行こうと思った瞬間から、しゃべっていても、ちゃんと用を足して帰ってくるようになっているのです。要するに、目的達成機構というのは、ひとたびその目的を入力したら、取り消さない限り、必ずそれを実行するようにできているということです。

 

これは興味深い譬えです。我々は簡単にトイレに行くことはできますが、夢をかなえることは(同じような容易さでは)できません。なぜでしょう。まず先に述べた認識レベルの差というのがあると思います。トイレに行くこと、というのは経験、知識、情報どれをとっても申し分ない量が蓄積されていますので難なくできますが、夢をかなえること、というのは無理ありおなじセンテンスに当てはめていますがそもそも次元が違います。トイレに行くことはこれ以上具体的に記述できず、またこれ以上具体的に記述する必要もないですが、夢をかなえるのほうはさらに具体的に記述でき、ぜひそうすることが必要です。

 

>意識空間の拡張

現在のところ、人類には五百万年の歴史があるといわれています。猿人からさ分かれ、二本足で歩行を始めたのがその起源とされています。それ以後、天変地異や食料不足といったさまざまな苦難を経て、私たちの祖先は生き残ってきました。なかでも厳しかったのは、四回あったといわれる大きな氷河期でしょう。最後の氷河期が終わったのは、今から一万年ぐらい前といわれています。当時の人類にはほとんど体毛がなくなっていましたから、保温の方法や洞窟での生活については、さまざまな工夫がこらされたことでしょう。そうして苦労を重ねて氷河期を生き残っていった知恵というのは、大変なものだったはずです。人類にとって、「生き残る」ことこそが、勝利であり成功でした。そして、このときの生き残りによって、現在の人間の原型ができあがったと私は思うのです。

もちろん、中には死に絶えてしまった系統・分流も数多くあったはずです。もちろん、そういう人たちは、子孫を残すことはできませんでした。

しかし、知恵を出して氷河期を生き残った人たちは子孫を残しました。そうして成功した人たちの形質遺伝子は、子孫が生き残ることによって次々に受け継がれていき、今生きている私たちが存在しているのです。つまり、私たちはみな、成功した人たちの遺伝子を受け継いでいるといっていいわけです。これは、まさに「すごい」という以外に表現のしようがないことではないではないでしょうか。

…(略)…

私たちは、父親と母親から遺伝子を受け継ぎます。そして、この遺伝子の中に先祖から伝わる遺伝情報をもっているために、血のつながった人は、姿かたちや思考も似てくるわけです。さらに考えれば、私たちの遺伝子一個の中に、五百万年の歴史の中で培った情報が込められているともいえます。五百万年も生き残ってきた優れた種だけが、我々の中に全部入っているのです。

といっても、受け継いだ遺伝子の情報すべてが常にオンになっているわけではありません。周囲の環境や本人の状態によって、オフになっているものもあります。

…(略)…

いずれにしても、私たちが遺伝情報としてさまざまな優れた要素をもち合わせていることだけはたしかです。あとは、周囲の環境や本人自身の考え方によって、どこをオンにするかということだけが問題なのです。

夢や希望をもらえる話です。500万年というとかなりスゴイ年月です。有史以来西暦ができてからの2000年に限って言っても世界史の教科書と便覧用語集1式になるボリュームがあるわけで、それの2500倍です。当時の人類の寿命が何年ぐらいだったのか知りませんが、仮に50年と考えて、文脈的に言ってこの時点ですでに雄と雌による有性生殖で子孫を残していたでしょうから、わたしの誕生に遺伝的にかかわっている個体の数は2の一万乗ということになります。それも環境の変化や生存競争、繁殖の競争に勝ち残った個体のみに限った話です。何らかの技能・知能・バイタリティに秀でた人間の1万や2万はいただろうという気分になります。

 

「普通に東京にいて、オフィスへ仕事に行くときでも、マンネリ化していると思ったら、どこかで生活のリズムを変えてみなさい。朝一時間、早起きをして、ゆとりをってホテルで朝食をとったり、ロビーで新聞を読んだりというようなことをやってごらんなさい。あの空間に自分を置いてみるのです。しかも、計画的にではなく、朝、目ざめたときに、思いつきでやってみるのです。

…(略)…

結局、これも発想の転換なのです。マンネリ化した日常をほんの少しだけ変えてみることによって、いつもと違う気持ちに生まれ変わらせるのです。

投資する対象は、家でもなければ土地でもなく、自分自身の遊びだということでした。この場合の遊びというのは、日本でいう女遊びや酒を飲むということではなく、自分の想像空間を広げられるような遊びということです。たとえていうなら、一人旅をする、ヨットでクルージングをする、スキーをするなど、一人で想像できる時間をどうやってもてるかということになるのです。一人のいい時間がもてなければ、二人のいい時間をもてるわけがありません。まず、自分自身が充実できるための時間をもつこと。そして、それを実現するためには、お金をかけて少しぜいたくをしてみることも大事でしょう。こういうことに時間とお金を使うのだと、私はジャックに教えられました。

さっきの話にしろ、この話にしろ、言いたいことは意識空間の拡張ということだと思います。一人旅や遊びの経験が意識の拡張にどう寄与するのかは分かりませんが、このわからないということがこういう体験による情報や知識の本質なんだと思います。というのも、この経験による意識の拡張ということを私は過去に何度も経験していると思っていて、代表的なものが就職という経験です。この経験はなぜ意識空間の拡張になりえたのかというと、それまで話にしか聞いたことのなかった社会というものがどういうものか、ということを身をもって確認した経験だったからだと思います。私が社会と出会って得た所感は、過去に誰かが得た所感の中に似通ったものがあって、それを読んで、社会に出たことのない私が納得したとして、それは意識の拡張をもたらさないと思います。というのも社会が厳しいとか、仕事は楽しいとか、それに類する言説は世間にあふれていて、学生の私でも聞いたことがあったし、自分がいま実感として持っている社会に関する知識や情報のなかにも、学生の頃に聞いた通りのものもありますが、その二つは別のものである、ということが、認識主体の立場から確かに言えると思います。結局経験するということは、書かれた知識や聞いた知識と本質的に違うんだと思います。

 

>失敗とは

失敗を決定的なダメージと感じてしまうのが、失敗を次のステップへの布石だと思えるのか。ここが大きな違いになるわけです。

…(略)…

失敗を恐れない人は、冒険的で、とにかくやってみようと考えていて、やってみて、失敗してもなんとかなるという前向きな考え方をもっています。こういう部分が大事なのです。

結局、失敗ということにどれだけ勇気をもって立ち向かえるか、失敗というものに対する耐性をどれだけもっているかが鍵となります。成功だけの連続の上に、真の成功はありえません。いい成功をするには、失敗を布石と考え、それをもバネにしていくパワーをつけることが必要なのです。

普通に読むとあきらめるな系の凡庸な文に見えますが、後半で「なんとかなる」が出て来たときにこの文は非常に意味を持ってきます。このなんとかなる、というフレーズは本書で繰り返し説かれる楽天思考の精神を端的に表現した言葉ですが、これが失敗に対する態度のところに出てくるのです。この文脈では楽天思考は失敗に対峙した時に精神的なダメージを軽減するための考え方として位置付けられているように思われます。しかし本書ではここより以前のところで、楽天思考は普段から、失敗に見舞われていなくても使っていく考え方として述べられています。そもそもここでいう失敗とは何でしょうか。何か状況が悪化していくということが、失敗しそうにない状態→失敗しそうな状態→失敗と状態遷移していくものと考えたときに、どこまでが失敗で、どこまでなら失敗でないかという問題が出てきます。失敗という状態と失敗でない状態の境界線は、思考方法如何でかなりの振れ幅で振れ、明らかに失敗に見えるようなことでも、その枠組みを離れると失敗でないというようなことも出てきます。例えば東大合格を志す受験生にとって、模試E判定は失敗しそうな状態ですが失敗ではありません。だから楽天思考の人なら、これから頑張れば大丈夫だと考えるでしょう。そして実際に東大不合格という結果になっても、下のレベルの大学には合格しているでしょうから、その大学で頑張ろう、ということになるでしょう。これが先に述べた、枠組みを離れるということです。東大合格という枠組みを離れたわけです。

 

この例からもわかる通り、楽天思考の人間に失敗を知らせることは困難を極めるのです。その意味で、失敗に対して楽天思考で対応する、というのは難しい表現で、他人から見ればその通りですが、本人のなかでは全く状況が違います。楽天思考の人間に失敗という経験は存在しないのです。

 

究極の楽天にとって、失敗は不可知である

 

>ことば

このように、人間の口ぐせの偉大なところは、しゃべった言葉が考えているよりもダイレクトに脳を動かすということです。自分がいった言葉に自分で腹を立てたり、喜んだりするというのは、誰でも知っていることでしょう。いくら真剣に考えていても、口に出さずにいては、そんなに心が動くことはありません。言葉というのは、それほど強い力をもっているということです。さらに驚くのは、口に出していうことによって、それまで見えていなかったものが見えるようになるという点です。たとえば、「人生ってなんて素晴らしいんだろう」と言葉に出したときから、今まで見えなかった素晴らしいことが見え出すのです。こういうことを知ったときに、はじめて口ぐせの偉大さに気づくのです。頭の中で理屈をこねているうちは、見えてきません。ところが、「なんとかなる」といった言葉を口に出したときには、なんとかなるものがちゃんと見えてくるのです。これを知ることが口ぐせの神髄だと、私は思います。

本書の真に偉大なところはここです。何をすればいいのかが非常に明確です。この主張は、本書の著者、佐藤富雄氏のメインテーマともいうべきもので、他の著作でもこのコンセプトに準じた論が展開されていきます。この主張について引き続き吟味していきます。

 

>旅

仕事と遊びの関係になりますが、未知なるところへ旅をすると、そこで大きな感動を受けることがあります。こういうことが、脳のキャパシティを広げていって、イメージや空間を拡大するのです。また、それ以上に、柔軟な思考ができるようになるので、仕事にも大いに役立ってくるでしょう。

広大な自然に触れられるような場所へ、そのときの気分にまかせてフラッと出ていく。これもひとつの方法です。

あるいは、もうひとつの方法として、強烈に文化や文明のにおいのするところへ出かけていくことも必要なのです。それは、大都会のニューヨーク、パリ、ロンドンなど、どこでもいいのですが、人がうず巻き、活気とともに大いなる刺激を与えてくれるような場所で文化・文明の刺激を常に浴びていないと、時代に即応した卓抜なアイデアやひらめきは出てきにくくなるからです。

また、作者の別の著書『運命を変える大きな力がもらえる本』では、

 

私が皆さんにとくにお勧めしたいのは、単なる物見遊山の旅ではなく、生涯忘れることのできないほどインパクトのある旅です。

旅とは本来、ワクワク、ドキドキしながら自分を見つめなおし、新しい自分を発見するためのものです。

そしてまた、旅とは非日常の中に自分を投げ込み、結末の見えない行動によって自己解放していくものです。

旅に出たなら、日常のことはすべて忘れてください。何か仕事に役立つ情報はないか、人間関係をとりもつような良い土産品はないかと日常の延長上に留まっていると、かえって何も発見できません。

また、「旅先であれもしよう、これもしよう」と欲張ったスケジュールを組むと、それが果たせなかったときに大きなストレスになってしまいます。

それよりも、あえて何の目的も想定しない、純粋な旅に出かけてください。きっと、思わぬ発見があります。あなたが本当に欲しかったもの、本当にやりたかったことが見えてきます。

というのも、自分で気ままな旅をしていると、どうすれば自分が心地よく快の状態でいられるか、それだけを考えてすべての行動を決定する「良い習慣」が身につくからです。

 

自分が心地よく快の状態でいられるか、それだけを考えてすべての行動を決定する「良い習慣」

 

そう考えると、ひとり旅という趣味は、多少の検討を.必要とする趣味のように思われます。この趣味は、この特徴によって、他の趣味を越えてより純粋な趣味の領域に近づいていくということが言えると思います。他の趣味は、例えば音楽や美術のような趣味は、その道の第一人者、名の知れた人物を目指そうとすることができて、そういう楽しみ方がある程度一般的です。スポーツでも同じレベルの集まりの中で一歩抜きんでることが目標であり、それに向かって行くことが楽しい、という見解は一定の支持があると言っていいと思います。しかしそういうことから、技術の向上、練習の必要性、仲間との協力や切磋琢磨ということが出てきて、それが楽しいというのは同意するところですが、そういう楽しみは仕事じみてくる、ということがあると思います。

 

ここのところに最初に述べた、「少しだけ不幸」の感覚が生じうる余地があるんだと思います。サークルのなかでは1番になった、地区大会では優勝した、しかしその先にいまだ越えられない壁があるときに、その壁にフォーカスすることは、技術の向上の必要性は必ず要求します。そうやって課題を一つ一つ超えていくことが技術の向上という事であり、向上心という事であり、論理的ということなわけです。向上心と向上する楽しさが、不幸な部分を探すように要求しています。

 

本来的なところに立ち返ると、自分のサークル内や地区内での立ち位置などは気にする必要はないはずです(なんといっても趣味の世界ですから)。だからこういう趣味を楽しむ人は、技術の向上のときには自分の不幸なところや足りないところを探して課題を解決していく楽しみを享受しつつ、またあるときは自分の不幸なところや足りないところに目をつぶり趣味そのものの楽しみを享受するという、全く逆のことをできるべきであるということになると思います。

 

このバランスが、多くの場合向上心過多で、それが日常にまであふれ出た状態が、要するに少しだけ不幸ということなのではないかと思います。そしてひとり旅という提案は、このアンバランスに対する処方箋の意味でもって理解されるべきなのだと思います。そこで理想的な「旅」の姿の検討に移りますが、

 

未知なるところへ

非日常の中に自分を投げ込み、結末の見えない行動によって

大いなる刺激を与えてくれるような場所

 

それに先ほど引用した

 

自分が心地よく快の状態でいられるか、それだけを考えてすべての行動を決定する「良い習慣」

 

なわけです。未知なる環境、投げ込まれた非日常なので、当然、不自由な思いをすることが懸念されます。時間的空間的制約、それに加えて金銭的制約というのは厳然としてあるはずです。予算的にちょっと無理して上のコースにするかどうか、というようななんとかなるレベルのことや、大阪から北海道まで5分で到着したいというようなどうにもならないレベルのことまで雑多な制約があるはずです、。こういうことにフォーカスしながらする旅は、ここで言う「旅」ではないといえます。旅を楽しむ精神性や技術というのは、こういうことを気にしないことであり、制約の外の部分に目を向けることであり、その性向であり、その訓練なわけです。その意味で旅は人生の雛型であり、人は旅人なわけです。

 

訓練という気持ちでやると訓練にならないということもここで言われている通りです。練習というものは本番のようにやらないといけないというのはよく知られた事実ですし、人生において目指すべき態度というのがけっして何ものにも従属しない態度なので、旅の態度もそうあるべきです。

 

>不可能性を超越する旅

どうしようもない制約に対してどうするかということは興味深い問題です。この手の自己啓発本では不可能なことはないかのように語られますが、これはなぜでしょう。先に見た例の中で、後者の大阪から北海道まで5分で到着することは、現代の技術で不可能であることは事実としてあると思います。というか、他にも不可能なことはたくさんあります。中国やメキシコの王国を所有することや、ダイヤモンドのように腐らない物質でできた体を持つことや、鳥のように飛べる翼を持つことなど、不可能なことを考えることはたやすいことで、そのバリエーションも無限の可能性があります。だからと言って、普段われわれが目の前に横たわる不可能性の谷を前にして足がすくみ、途方に暮れる、ということはありません。これらの本で言いたいのもこういうことだと思います。つまり不可能なことを考えようと思えばいくらでも考えられますが、逆に考えなければ気にならない、ということです。これは不可能という現象に関する重大な事実だと思います。

 

不可能なことを考えようと思えばいくらでも考えられるが、逆に考えなければ気にならない

 

こう考えると、何かを望むということを人は気軽に思考しますが、これにも一つの技術があるということがわかります。何を望むか、どのように望むかということがその望みが叶えられるかどうかに深くかかわってきます。ここで、感謝ということが望みの一形態、ないし究極の形態として捉えることができると思います。必ず叶えられる望みというのはなにかと考えると、それはすでにかなえられたことを望むことです。これはもはや、望みというより感謝というべき心の動きです。

 

感謝ということがこの手の本ではよく言われますが、感謝と朗らかさの関係はこういう部分を出発点としているんだと思います。感謝すると人から感謝が戻される、というような説明のされ方もしますが、この説明では納得できない人も多いと思います、私がそうでした。そういう場合は、ひとり旅の精神性と、何かを望むということの関係から理解するといいんじゃないかと思います。