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『オカルト』

前にホラーとは何かを考える記事を書きました。

ホラーというジャンルについて - H * O * N

 

この作品もまた、ホラーが満たすべき条件をよく備えたいい作品だと思いました。

 

 

>ホームビデオ風

この作品で頻繁に使われているのが、ハンディカメラで動画を撮影しながら撮影者自身状況の中にいて動いたり声を上げたりする、という手法です。この撮り方によって映像はブレブレになり、映すべきものが画面の真ん中にちゃんと映っていなかったり、簡単に言うと撮影技術の基本的な部分が全く満足できていない映像が出来上がってくるのですが、

 

それが逆にイイ

 

です。そういう日常と地続きの部分で超常的な現象が起きているということがより説得的に撮影できていると思います。類似する手法として、

 

押入れのすき間からAVを見ると燃える

 

というテクニックが昔「トリビアの泉」で紹介されていました(笑)。投稿者様は映像クリエイターの素質がある、と言っていいと思います。結局映像作品を視聴するという体験の中で我々は被写体や舞台背景といった製作者が明確に意図したものを見ますが、それだけでなくそれに付随する様々な情報を見ているのだと思います。本作の映像の稚拙さ、というのも一つの情報で、その情報が本作の舞台装置として一役買っているのですが、こういう言外の情報も使った視聴体験というのはより全体的、総体的なもので、そういう全ての情報がトータルとして一つの方向性を指示していると、感情移入がより容易です。

 

>儀式

この作品で起きる超常現象は、事件を起こした江野が証言する「声」や「儀式」という形で視聴者に予測される、現世とは違う次元の世界とそこからこちらを意図している存在です。

 

ホラーの定石通り、明確な解決はありませんが、その神が、日本の神話に出てくる「ヒルコ」という奇形の神で、江野やその前の松本に凶行を指示した、ということが緩やかに予測できる構造をしていますし、江野がその神の指示に従って凶行に及び、その結果死ぬことが救いであると考えたのには自身の困窮した生活があったということもできるでしょうし、道でいきなり絡んできたヤバイおじさんや、御昼山の山頂にあった象形文字の石板はそういう世界が存在することをほのめかしてはいますし、そのようなほのめかしは枚挙に暇がありませんが、全部江野と関係者の勘違いと偶然だった可能性も依然として残されています。これらの構造が非常にホラー的で、配分に製作者のセンスが光ります。

 

>視聴後の評価

ホラー作品の評価というのは非常に難しいと思います。というのも、先の記事に述べた通り、

 

ホラーとは、読者の心の引っ掛かりとその後の超常現象の観測を示して読者の感情移入を実現するという方針、またはその方針を持つ作品である

ので、ホラーの読み手は、未解決や悪意といった、ネガティブな意味で心に残る体験をする必要があります。この体験はホラーと不可分なものだと思います。してみるといいホラーに触れた読者もそういうネガティブな体験をしているわけで、ホラーの価値というのは、

 

(ホラーの本当の価値)ー(ホラーによるネガティブな感情X)=(表面的なホラーの価値)

 

という感じに目減りしているのが普通なんだと思います。そういう事情で、インターネットの星を参考にしてホラーの良しあしをはかることは誤謬になりえると思います。星のなかでも星1はある程度参考になると思います。他のジャンルでもそうですが星1がつくということは映像作品として備えるべき前提のような部分を満足していない作品が多いと思います。しかし星2以降になると、ホラーの本当の価値の部分からの差し引きによる振れ幅が大きく、星と本当の価値の乖離がほかのジャンルと比べて大きいというのはあると思います。

 

ところでホラーを見ると感想を書きたくなります。この記事も主としてそういう動機で書かれた記事ですが、先に述べたようなホラーというジャンルの特徴を考えるとそれは当然であると言えます。心に引っかかっているものは整理したくなるのが人間の自然な感覚だと思います。この心の異物が整理しても整理しきれない性質のものであることはホラーの原理上そうですが、こういうものを目の当たりにしたときにこれをエンタメととらえられるかどうか、がホラーが好きかどうかの分かれ目だと思います。