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『方法序説』デカルト著、小場瀬卓三訳

世界史の教科書に載るレベルの有名なやつです。有名な考えるゆえにわれありを生で見たいというミーハーな動機から読み始めた本書でしたが、哲学書の中では非常に読みやすかったです。

 

■仮の格率

デカルトは真理を探すために疑えるものはすべて疑っていましたが、真理が明らかになるまでの間、拠り所とする指針がないと生活に支障をきたすということで、いくつかの格率(自分ルール)を考えました。これが短くまとまっていて結構面白かったです。第二、第三の格率がお気に入りです。

 

わたしの第二の格率は、…(中略)…極めて疑わしい意見でも、一度これと決心した以上は、それがきわめて確固とした意見であるかのように、それと同じくらいの動かぬ心をもって、これに従うということであった。この点でわたしはどこかの森のなかで道に迷った旅人をまねた。彼らはあちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、といってまた一か所にとどまっていてもいけない。彼らは同じ方向に向かってできるだけまっすぐに絶えず歩いて、たとえ最初彼らにこの方向を選ぶ決心をさせたのが偶然だけであったとしても、薄弱な理由によってけっしてそれを変えてはならない。というのは、こうした方法で、彼らはまさに望むところへ行き着かないにしても、すくなくともどこかへは行き着くはずであり、それは森のなかにいるよりはおそらくましだろうから。

「望むところへ行き着かないにしても、すくなくともどこかへは行き着く」というのは覚えがある話で、例えば外食しようとして、行きたかったお店が混んでいるときに、じゃあ別の店探すかということで、街中をさまよい歩いてもお昼時どこの店も満員で、うろうろするうちに最初の行きたかった店からずいぶん遠ざかり、結局ヨクワカラン店に入ったけどヨクワカラン味で、時間もよく考えたら最初の店で素直にならんでいた方が早かった、みたいなことだと思います(笑)。

 

望むところへ行き着かないにしても、というのは何か一つの事業が失敗に終わることも当然想定に入れている言い方です。最初の疑わしい意見が予想通り間違っていた時は、そのあとの行為も当然間違っているということだと思います。この格率はそのことよりもそのあとのどこかへ行き着いたという事実の方を重視していて、つまり最初の意見が間違っていたという気付きを得たということだと思います。一つの事業の失敗を許容しているのは、この格率が真理を知らない寄る辺ない人間のための仮の格率であるという性質にぴったりだと思います。

 

わたしの第三の格率は、常に運命よりも自分に克つことに努め、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように努力すること、…(中略)…最善を尽くしたのち、成功しないすべてのものはわれわれにとって絶対的に不可能な事柄であると信じるように習慣づける、ということであった。

われわれの外にある財産をすべて我々の力から等しく遠いものであるとみなせば、われわれの過ちで財産がない場合は別として、そうでない場合には、われわれの出生に当然属すべきだと思われる財産がないからといって、シナやメキシコ王国が自分の所有でないのを遺憾に思わないのと同様に、それを遺憾に思わないだろう。

自然によって予め定められた限界を考えることに絶えず専念していた彼らは、思想以外には自分の力の範囲内のものはひとつもないということを完全に納得していたからして、そのことだけでほかの事物に対する愛着をも防ぎ止めるのに十分だったのである。それで彼らは自分の思想を絶対的に自分の思うとおりにしていたからして、こういう哲学を持たないがために、自然や幸運に最大限に恵まれていながら自分の望むすべてのものを自由に処理しえないひとびとよりも、自分ははるかに富んで、力にみち、自由で幸福であると考えたのも若干の理由がなくはなかった。

最期の引用の「彼ら」というのはストア派の哲学者たちのことで、要するにデカルトは、ストア派が標榜する世界の見方を支持していたということです。最後の自分の思想を思い通りにしていた、というのは、目から鱗の考え方で、「自分の思想しか自由じゃない」から、「まだ自分の思想は自由である」への発想の転換だと思います。こういうストア派の考え方が紹介されるたびに、「欲しがっても手に入らないからあきらめて我慢する貧乏くさい感じ」がどうしてもあるように感じるのですが、その感じ方、ストアは哲学の理解の仕方がすでにストア派的じゃなかったということだと思いました。

 

■名言

感覚はしばしば我々をだますものだから、どんなものでも感覚がわれわれに想像させるとおりのものとしてはけっして存在するものではないと仮定しようと思った。それから私は、幾何学上のもっとも単純な事柄に関してさえ、推理を間違えて、背理(パラロギズム)におちいるひとびとがいるのだから、自分もまたほかの人と同様の間違いを犯しかねないと判断して、以前は論証とみなしていたすべての論拠を虚偽として捨ててしまった。最後に、われわれが眠っている時にも覚めている時に持つのと同じすべての思想が現れてくるが、その場合には真実の思想はひとつもないということを考えて、私は自分の精神の中に入り込んできたすべての事柄を、夢の中の幻想と同じように真実でないと仮定しようと決心した。しかしそのあとですぐに私は次のことに気づいた。それはすなわち、このようにすべてのものを虚偽と考えようと欲していた間にも、そう考えている「わたし」はどうしても何ものかでなければならないということであった。そして「私は考える、だから私は存在する」というこの真理は、懐疑論者のどんな途方もない仮定といえどもそれを動揺させることができないほど堅固で確実なのを見て、私はこれを自分が探求しつつあった哲学の第一原理として何の疑念もなく受け入れることができると判断した。

写真では見たことある金閣寺を実際現地で見た、みたいな感じですねー。

 

■人々の反駁

わたしは…反駁の利益も期待できない。というのは、私はすでに今日まで、自分が友人とみなしている人々の判断も、これは自分とは関係がないと思っている人々の判断もしばしば調べてみたし、また自分の友人にはその友情が隠してしまっているところをその悪意や嫉妬ををぬかりなく暴露しようとしている人たちの判断さえ調べてみたが、私の論旨からひどく遠ざかったものは別として、わたしがまるで予想もしなかったような何かを反駁として加えられたことはめったになかったからである。つまり私は自分の意見に対して自分自身ほど厳格で公正な批判者には一人も出くわさなかったようなものである。

 

普通に生きている人々も自分の意見に関して一通りの反駁を予想して想定問答集を作る、というようなことは日常的に行っていますし、わたしにもそのレベルの懐疑主義なら覚えがあります。そしてそのレベルの懐疑主義ですら、人々の反駁をしばしば予想するというのは誰しも経験することだと思います。ましてやデカルトは仮の行動基準を定めなければ日常生活に支障をきたすレベルの懐疑主義を採用していて、自分の意見に関しても頭から疑ってかかり、本書でも繰り返し自分の意見は信頼しない、最初に浮かんだ考えはほとんど無視する、ということを言っています。そんなデカルトにとって、人々の反駁が予想の範囲内であるということは、ある意味当然のことだと思います。

 

■討論の効用

…学院で行われている討論という方法で、それまで知らなかった真理を発見したというようなことは、ついぞ見かけたことがない。というのは、各人が勝つことに懸命になっている間は、誰しも双方の論拠を考量するよりは、真実らしさを強調することに努力するものだからである。長い間優れた弁護士であったものが、そのために必ずしも、あとでよい裁判官になるとはかぎらない。

討論について、おたがいがお互いの意見を考量することなしに自分の意見の正しさのみを主張しあう、というのは非常によく見られる現象だと思います。自分も話し合いの後に自分のことを主張することしかしていなかったと気づくことがありますし、ハナから人の意見を聞くという精神的な機能を排して生きている人、というのもしばしば見かけます。ここを読んだ時、どちらかというと学問的な正しさの探求の話よりも、仕事の実務的な話し合いの中で、組織として特定のケースにおける正解を探求する話し合いの方がしっくりくると感じました。自分も含め、みんな仕事がそんなに好きでもないのに、双方譲らず押し問答の打ち合わせが延々と続く、ということがよくあると思います。自分の行動に関して言えば、中立的な正しさを探求することができているのか絶えず監視しないといけないですし、そもそも話し合いの方法として、どちらかが議論に勝って正しさを獲得する、というような方法が、制度的に誤りに陥る可能性を含んでいて、もっと中立性を保てる方法を模索する、ということもあるべきなのかもしれないと思います。

 

アリストテレスのフォロワー

かれらは、自分を支えている木より上には伸びず、しばしばその頂上まで達したのち再び下に降りてくることさえある木蔦のようなものである。というのは、わたしにはこういう連中は再び下降してくる、すなわち彼らが学ぶことをやめたよりも、ある意味ではいっそう愚かになると思われるからである。彼らはその著書の中でよくわかるように説明してあるすべてのことを知るだけでは満足せず、なおそのほかに著者が一言も述べておらず、またおそらくは思いもおよばなかったようないくたの難問の解決をそこに見出そうと望むのである。

学ぶことに関して、懐疑主義者のデカルトらしい意見だと思います。学んでいる側としては、主目的であるべき知的好奇心の満足は当然あるとしても、頑張って学んでいる、という自負や、人より物を知っているという驕り、というのは絶えず生まれる余地があると思います。私はこの疑いを以て学ぶことをためらうよりは、不純な動機や誤りを含むとしても学ぶことを続ける方がいいと思います。多くの人間はデカルトのように自分の頭と余暇さえあれば、真理を見つけていけるような才能はないと思いますし、かくいうデカルトも、幼少期は他の偉人の考えを学ぶことから始めたことと思います。学んでいく中で、デカルトが言っているようなこともあるから、学んでも無茶してはいけないということをわかっとけばいいのかなと思います。