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『ナイン・ストーリーズ』サリンジャー著、野崎孝訳

サリンジャーについては、実は以前『フラニーとゾーイ―』を読もうとして挫折した苦い経験がありまして、この度短編集なら何とかなるかと思い今作を手に取った次第です。『フラニーとゾーイ―』については、一見して必要性がわからないような冗長なワードサラダ的記述がキツかったんですが、こんどの短編集も最初の一つ二つの時点でその傾向があり絶望しつつ、それでも何とか短編集ということで読み進めたところ、『笑い男』が自分的に激ササリでした。最近読んだ本の中では一番泣いたと思います。それに続く『エズミに捧ぐ―――愛と汚辱のうちに』も、少女エズミの愛らしさとその後の展開の汚辱のコントラストが圧倒的切なさを見せる名作で、さらに『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』は、軽い読み口のコメディといった風情で、サリンジャーという作家の創作の幅に圧倒されることしきりでした。

 

よかったのは、

笑い男

『エズミに捧ぐ―――愛と汚辱のうちに』

『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』

 

笑い男

スクールバスの運転手の青年が団長を務める「コマンチ団」の団員である語り手が、その視点から団長の恋とその終焉を目撃する話です。笑い男というのは、バスの道中団長が団員に語って聞かせる冒険譚の主人公の名前で、奇想天外な設定の盗賊「笑い男」が、忠実な仲間たちと共に犯罪行為を働き、敵と戦うその話に団員は夢中になります。

 

実を言うと、笑い男の嫡出の子孫は私だけではなかったのだ。コマンチ団には団員が二十五人いたが、それはすなわち、笑い男の現存する嫡出の子孫が二十五人いたということである。

この冒険譚は、笑い男の仲間の狼「ブラック・ウィング」の死と、その死を悲しんで生きる希望をなくした笑い男自死によって終わります。この冒険譚を語る団長はその時、ある女性「メアリ・ハドソン」と恋仲になり、彼女はコマンチ団に混じって野球をしたりしていたのですが、笑い男の終わりの際に破局に至っただろうことがわかります。この事情に関しては、語り手は第三者であり、客観描写に徹しています。メアリが名残惜しく野球を観戦に来ていたり、団長がそのメアリに何事か話に行き、うまくいかなかったようだったり、語り手がメアリを夕食に招待しても断られたりと、細部の事情は分かりませんが、断片的な情報をつなぎ合わせるとどうやら二人が破局したらしい、と何となく察しがつきます。

 

この、恋愛の終わりと、それに伴って起こる、その恋愛を取り巻く他の世界の終焉というのが非常に美しいと思います。まず非常にリアリティがあります。失恋してしばらくたって、家の掃除などをしているときに、彼女との思い出の品を見つけて古傷が疼いた経験はないでしょうか。また、何かで聞いた小話で、彼氏と別れてから

主人公が(元)彼氏の名前のドラクエのセーブデータ

を見つけて泣いた女性の話がありましたが、こちらの方が具体的で分かりやすいかもしれません(笑)

恋愛の終わりは純粋に二者間の問題であり、どちらかに非があってもその相手を選んだ責任というものがもう一方にあります。その意味で、事の起こりから、その活動の利益損失を経て、事後処理まですべて二者間で責任が完結するのが、基本的な恋愛の形態だと思います。しかし、破局に伴って打ち捨てられるドラクエのセーブデータに罪はありません。このセーブデータの存在は、二人で楽しくゲームをした時間の存在を示唆しています。最終的に破局を迎えても、全てが0点だったわけではないのです。最終的に一緒にいられないという判断を下した相手の中にも好きな部分があったし、今もまだあるわけです。このことが破局にかかわる問題をより切なく、離れがたいものにしている原因だと思います。

 

たとえ話が長くなってしまいましたが、この作品は、その破局によって打ち捨てられる側の世界からの視線で書かれています。メアリと団長にとって、コマンチ団と過ごした時間は純粋に喜びであったはずです。コマンチ団の団員である語り手に、破局の事情がいっさい伝わっていないことからもそれは明らかです。団長とメアリの間のやんごとなきアダルトでダークな大人の事情によってこの関係は唐突に打ち切られるわけですが、それと同時に団長から語られる「笑い男」もバットエンドで幕を閉じる、というのが、世界の終焉をより劇的にする演出で、非常な感動を呼びます。

 

破局によって唐突に打ち切られる側の世界の物語

 

■『エズミに捧ぐ―――愛と汚辱のうちに』

兵士である語り手が、作戦行動のためにイギリスに駐屯しているときに、現地人の少女「エズミ」と心を通わせます。エズミは土曜日の教会で児童合唱隊の一員として歌う少女で、本文のエズミに関する微細な描写が、このキャラクターの造形に作者が注ぐ注意の並外れた執念のようなものを感じる鬼気迫る出来で、要するに

すごいカワイイ

です。

「毛がぐしょぐしょに濡れてしまって」と、彼女は言った「ひどい恰好でしょ?」そう言いながら彼女は、私の方を見やって、「濡れていないときには、はっきりウェーヴの出る毛なんですのよ」

「そうでしょうね。それは今でもわかります」

「カールとは違うんですけどね、ちゃんとウェーヴするんです」と、彼女は言った。

 

バッチリ決まっていないところがまたいいですね。これもまた以前どこかで聞いた話で、「ミニスカートをはく女性は、露出が多くなるからではなく、見えているんではないかとしきりに気にするから魅力的になる」という話がありました。ここもそういう効果があると思います。

 

それから話題を転じ「いつでもよろしいのですけど、わたしだけのために、短編をひとつ書いてくださったら、とてもうれしいんですけど。わたし、ご本が大好きなんです」

私は、できれば、本当にそうしたいと答えた。が、あまり多作じゃないともつけ加えた。

「そんなに多作じゃなくて結構よ!子供っぽいたわいないものでなければいいの」と、言って、彼女はちょっと考えていたが「どちらかといえば、汚辱のお話が好き」と、言った。

「何の話ですって?」私は、身を乗り出して言った。

「汚辱。わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」

私はもっと詳しく彼女の意のあるところを聞きただそうと思ったが、その時チャールズが私の腕をしたたかにつねったものだから、私はいささか辟易した様子を示しながら彼の方を向いた。

 

聖歌隊のメンバーであり、家庭教師同伴で喫茶店に入ってきて、折り目正しい振る舞いと言葉遣いをしている彼女のイメージからはおよそ似つかわしくない「汚辱」というワードが、彼女自身の口から出ます。どんな種類の汚辱なのかという説明はなく、語り手と読者の想像に委ねられたその言葉の解釈が、彼女の謎であり、神秘であると思います。

 

テーブルのそばを離れそうな様子もない。事実、彼女は両足を互いに交差して立ち、足元を見下ろしながら、靴の爪先を両方きちんとそろえてみたりなどしているのだ。これは、ちょっとほほえましい仕草だった。白のソックスをはいた少女、足首から足全体にかけて実にかわいらしい。いきなり彼女は顔を上げて私を見ると「あなた、わたしのお手紙がほしいかしら?」と、言った。心持ち顔を赤く染めている。「わたし、とても明確な文章のお手紙を書きますのよ、わたしぐらいの……」

 

フェチズムがすごいですね(笑)

 

そして別れ際、エズミは語り手に、「お体の機能がそっくりそのまま無傷で帰還なさいますように」と言い残して別れます。そして時は過ぎ、語り手は作戦行動で負傷し、体の機能の一部が不能の状態になってしまいます。エズミから身の安全を案じる手紙が来ますが、語り手はその返事を書くことすらままならず、エズミがお守りとして同封した彼女の父の形見の時計も、運ばれる途中でガラスが壊れてしまっていた、というラストです。

 

長いことXは、エズミの父の腕時計を箱から取り出すことはおろか、その手紙を下に置くことすらできかねていた。が、いよいよ時計を取り出してみると、それは送られてくる途中でガラスがこわれていた。ほかに故障はないかしらと思ったけれど、ぜんまいを巻いてそれを確かめてみる勇気はなかった。彼はその時計を手にしたまま、また長いこと黙って座っていた。そのうちに、まったく思いがけなく、陶然とひきこまれてゆくような快い眠気を覚えた。

エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機―――あらゆるキーノ―ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。

 

この汚辱が、彼女の予想の斜め上を行っている(であろう)ところがこの作品のすごい所だと思います。というのも、汚辱というのは予想の範囲内であればそれほど心理的なダメージはありません。予想を裏切るからこそ心が揺さぶられ、その後の展開に感動が生まれてくるのだと思います。

 

■疑問

その意味で解せないのは、この作品は「エズミの結婚式に出席できない語り手が、彼女の結婚式の座興として書いた作品」であるということが、冒頭の導入でほのめかされています。最後の語り手がやっとのことでエズミに語りかけ、眠りに落ちるシーンは、直視できないほどの汚辱的で感動的なシーンですが、この際冒頭の導入があることで、このシーンののちに語り手が快方に向かうことがわかります。この眠りのシーンをより感動的にするためには、この結末は明かさない方がよいのではないかと感じました。