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『マーク・トウェイン短編集』古沢安二郎訳

最近海外文学の短編集に凝ってまして、この本はその一環として読みました。マーク・トウェインと言えばトム・ソーヤーの冒険が有名ですが、私は過去に一度読もうとして挫折しました。平たく言うと無駄に長かったからだと思います。その点これは短編集なので、一つ一つの話の切れ目が明確なのでダラダラ長くなることがなく、しかもトム・ソーヤーの冒険にみられるようなユーモアや滑稽さで暗示される真理の描写が随所にあって非常に機嫌よく読むことができました。

特に面白かったのは、『私が農業新聞をどんなふうに編集したか』『エスキモー娘のロマンス』の二編です。

 

 

■私が農業新聞をどんなふうに編集したか

 

農業を全く知らない男が農業新聞の主筆の代理になって、でたらめな新聞を書く話です。新聞を読んだ読者の反応は、でたらめなことを書くなと怒り出す人、自分は頭がおかしくなったと犯罪に走ってしまう人など様々です。この人々の反応が面白おかしく描かれているのは本作品の見どころの一つだと思います。例えばでたらめな記述に怒り心頭の老紳士が直訴に来たシーンでは、

老人は新聞をひざの上に置き、ハンカチで眼鏡を拭きながら尋ねた、「お前さんが今度の主筆さんかね?」

私はそうだと返事した。

「今まで農業新聞を編集したことがおありかね?」

「ありませんよ、こんどがはじめてですよ」と私は答えた。

「そうだろうね。ところで実地に今まで農業をやった経験はおありかね?」

「いいえ、まだないつもりですが」

「道理でそうじゃないかという気がしたはずだ」老人はそう言って眼鏡をかけなおし、眼鏡越しにぶあいそな目で私を眺めながら、持ってきた新聞を読みやすいように折っていた。「わしにそう感じさせたところをお前さんに読んでやりたいんだ。それはこの論説だ。よく聞いて、これを書いたのがお前さんかどうか、はっきりしてもらいましょう」

「『かぶらは決してもぎ取ってはいけない。そんなことをするとかぶらが痛むからである。それより子供を木に登らせ、子供に木をゆすぶらせたほうがよっぽどましである』」

「さあ、これをどうお思いかな?お前さんがこれを書いたにちがいないとわしは本当に思っているわけだが?」

「どう思うかですって?だって結構だと思いますがね。筋が通っていると思いますがね。まだあまり熟していないうちにもぎ取るものだから、この田舎町だけでも毎年何百万貫というかぶらが台なしにされているに違いありませんもの。ところが子供を木に登らしてゆすぶらせたら…」

「ゆすぶらせたかったら、お前さんのそのあほうな頭でもゆすぶらせたらいいんだ!かぶらというものは木になるもんじゃないわ!」

「そりゃ木になりませんよ、なるもんですか!ところで、誰が木になるなんて言いましたか?この言葉は譬えのつもりで書いたんです、全く譬えですよ。少しでも物のわかった人間なら、誰だって私の書いた意味が、子供にかぶらの蔓をゆすぶらせる意味だぐらいのことは判りますよ」

するとその老人は立ち上がり、持って来た新聞を全部小さくちぎり、それを踏んづけながらステッキでいろんなものをたたきこわし、私がのろまな牛ほどもものを知らないと言って、ドアをぴしゃりと閉めて出て行ってしまった。

怒り心頭の老人とのらりくらりと追及をかわす主筆のやり取りが非常にコミカルです。

本物の主筆が戻ってきて代理の主筆の行動を非難するシーンでも、

君はハマグリに音楽を聞かしてやるとじっとおとなしくしていると書いているが、余計なことだよ―――全く余計なことだよ。何をしたってはまぐりには通じやしないよ。はまぐりはいつだっておとなしくしているものなんだから

主筆はこのほかにも、そば粉のパンケーキを植えたり、雄の雁が水中に卵を産んだりと意味不明な記載を繰り返し、新聞社は直訴に来る人や主筆の顔を一目見ようとするやじ馬で大騒ぎになります。そんな中先述の通り本物の主筆が帰ってきて、代理にクビを言い渡すと、代理の口から自身の奇行の目的が明かされます。

お前さんの新聞の発行部数を二万部にふやしてやることができると言ったが、もう二週間あればそこまで漕ぎつけたはずさ。しかも今までの農業新聞にはついたこともないような最高級の読者層をお前さんのために獲得してやれたはずなのさ―――ただしその中には百姓は一人もはいっていないだろうさ

この発言からわかる通り、この作品は、事実を報道することと利潤を追求することを両方目的そして持っている新聞のというメディア、あるいはもっと広い意味で、文学性の追求と人気取りを両方目的とする「ものを書く」という仕事に対する真理を指摘する構造になっています。ハイクオリティなエンタメの中にあるこのゆるぎないテーマが本作の良さだと思います。

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真実の報道と人気取りという相反する目的が併存するジャーナリズムの矛盾

 

エスキモー娘のロマンス

 

エスキモーの娘に主人公であるトウェイン自身が話を聞く中で、現代人とエスキモーとの常識の違いが次々と露見していき、主人公を困惑させますが、しかし現代人から見ると頓珍漢なその世界の中で、現代人のそれと全く変わらない温度感で人間のドラマが繰り広げられている話です。

例えば食べ物の話になったとき、ニューヨークで鯨肉に人気がない理由は、食わず嫌いであるという話に続いて、

「ほんとですわ―――全く本当のことですわ」彼女は考え込みながら言った、「ここでわたしたちが石鹸を食わず嫌いしたのとおなじことですわ―――わたしたちの部族ははじめ石鹸を食わず嫌いしていましたものね」

私は彼女が本気で言っているのかどうかと思って顔をちらりと見てみた。確かに本気で言っているのである。私はためらったが、用心して尋ねてみた―――

「ちょっと失礼。以前は石鹸を食わず嫌いしていたんですって?以前は―――ですか?」―――と語尾を下げてきいてみた。

「ええ―――でも、ほんのはじめのうちだけでしたわ。誰も食べようとしなかったのは」

「ああ―――判りました。今までどういうことか、お話がよくわからなかったので」

彼女はまたことばをつづけた―――

「本の食わず嫌いだったんですわ。はじめ外国の人がここへ石鹸を持って来たとき、誰も好きじゃなかったのよ。でもいったん流行しだしたら、みんなが好きになって、今では買える人は誰でも持っていますわ。あなたも石鹸はお好き?」

「ええ、とても!石鹸が手に入らなければ死んだほうがましですよ―――特にこの国に来ていれば。あなたもお好き?」

最初彼女の石鹸を食べるという習慣に違和感を抱くものの、すぐに吹っ切れて話を合わせに行く描写がなんともコミカルです。

その後話は彼女の恋の話に移っていき、彼女の恋人は泥棒の廉で有罪となり、極刑に処せられたことがわかります。その裁きの方法というのが、「水の裁き」とよばれる方法で、

この刑は幾時代か遠い昔、誰も知らないどこか遠くの国から伝わってきたものです。それ以前は私たちの先祖は占いとか、そのほか不確かな裁きの方法を用いていましたので、時には罪のある人間でも命が助かる場合もあったのでした。ところが水による裁きの場合はそういうわけにはいきません。これは私たちのように憐れな無知な未開人よりずっと賢明な人たちが発明したものだからです。これによれば罪のないものは溺れることになっているのですから、疑いも文句もなしに身の潔白が証明されますし、罪のあるものは溺れないことになっているのですから、それで同じように罪のあることが証明されるというわけです。

この未開極まりない裁きの方法で彼女の恋人は有罪となり、流氷の上に取り残される刑を受け、死ぬことになりますが、あとから彼が潔白であったことがわかり、彼女の話はバットエンドで終わるのですが、先述のような支離滅裂な環境下でも、人の営みは一端の悲劇の体裁を持って語られ、また当事者にはそのような感覚を想起させるというのが面白いと思います。

 

 

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時代や小道具が変わっても、人の営みには何ら変わるところがない 

■ちなみに

 

マーク・トウェインという名前はペンネームだそうです。これは彼が水先案内人として船に乗っていた時の経験から着想を得たもので、船が難所を通り過ぎるときに水の深さを叫ぶときの叫びに、「測標二尋(マーク・トウェイン)」というものがあるそうです。

 

 

私が買った版だけかもしれませんが、中表紙に誤植がありました(笑)

 

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手紙などの記載であることを示すために、その記述部分に傍点を使用していて、初見のときにびっくりしました。

 

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今回紹介したのはこの作品です↓