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『自己催眠法』門前進著

>ストレスとその解消

ここで心地よいということと、いやだということについて考えてみたい。心地よいというのは、本人がその感覚を受け入れている状態であり、いやだというのはその感覚を本人が排除したいと思っている状態である。このように、本人がその感覚をどのようにとらえているかによって両者の違いが出てくる。

くつろいだ状態でいれば、疲れはとれていく。くつろいだ状態のときには、心地よい気だるさや、心地よい重さの感覚として感じられる。すなわち、くたびれの感覚が心地よい気だるさ、重さとして感じられているときに、疲れがとれていっているのである。それゆえ、心地よい気だるさや、心地よい重さの感覚は、疲れのとれていっている感覚として理解できる。疲れがとれていっているという状態であって、進行形なのである。進行形の感覚が心地よい気だるさ、心地よい重さの感覚なのである。

それに対して、いやなだるさ、いやな重さというのは、疲れのとれていっている感覚ではない。疲れは溜まっているが、抑えられている感覚なのである。いやなだるさ、いやな重さの感覚がどれだけ続いても、疲れはとれていかない。いやなだるさ、いやな重さの感覚を心地よい気だるさ、心地よい重さに変えていけば、疲れはとれていくのである。

前に述べたように、いやだという感覚と、心地よいという感覚の違いは、その感覚に対する本人の態度の問題である。態度を変えれば、そのときにはいやな感覚が、心地よい感覚になる。そのためには、疲れ感覚を抑えて、行動しようと考えるのではなく、疲れ感覚に浸る必要がある。

価値判断以前の疲れの感覚がまずあって、受け入れいられた疲れの感覚と、抑圧された疲れの感覚があることが指摘されています。また、疲れ感覚に浸る、単純に疲れを感じることが、疲れが取れて言っていることになる、と言われています。

 

受け入れられた疲れ←→抑圧された疲れ

疲れを感じることが、疲れを取ることになる

 

>自己存在感覚・主体感覚

人と話をしているときに、相手と価値観の一致していることに気づかないだろうか。たとえば、人間は明るくて、行動力のあることが素晴らしい。暗い人はどうもいやだとか、天気は晴れがいい、雨はいやだとか。自分の中の暗い性格を、人と同じようにいやな部分としてとらえていないだろうか。無理をして明るい性格になろうと、人前では明るく振る舞っていないだろうか。この状況は、まさに自分のない状況である。

自己存在感覚。自分が存在している。自分が行動している。自分が考え、自分独自の考えで、それにのっとって、自分が行動したくて行動している。このような状態、それを世間では個性のある生き方という言葉で、言い表わしているようである。

自己存在感覚を持つということは、主体感覚を持つということに通じる。主体感覚を持ったときには、自己存在感覚が必然的に生じてくる。主体感覚を邪魔するもの、それはまさに世間の考えである。世間の考えで行動しているとき、主体感覚は持てない。充実した人生を送りたいというこの言葉、それはまさに主体感覚を取り戻したいという、心の底から湧いてきている「叫び」なのである。

世間の考えとは何かと考えた時に、これは複数の人間が寄り集まって、言葉でコミュニケーションする中で形成されていった認識、考えのことです。そしてこの考えには偏りがある、ということが言われています。世間の考えでいいとされていることは、全て社会的にいいことになってきます。個人のために善くても、社会のために善くないことは世間の考えとして共有されることはありません。これはなぜかと考えると、やはり自分の個人的なことを世間に話すというのはある程度親密なグループの中でないと抵抗のあることですし、世間の公式見解として認められる、つまり世間の考えとしてのある種の普遍性を獲得するためには、誰にでもわかるように明快な論理性がないといけない、という事情があると思います。

 

十分小さい友達のグループを考えると、おたがいの顔と性格がわかっているので、例えばグループの中に気分の浮き沈みが激しい人がいたとして、他のメンバーが愛着や損得勘定でその人がグループにいるメリットが十分あると考えれば、その人の気分に起因する反社会的なふるまいを多めに見る、というようなこともあると思います。しかしそういうことがあっても、そういう振る舞いは反社会的である、という世論は変わらないわけです。そう考えると我々は、普遍的な世間の考えを持つ架空の集団を想定して、そこで支持されるルールと比較して自分たちの集団のルールがどの程度特例的か、ということを判断している、という風にも言えると思います。

 

>社会的なものと反社会的なものの関係調整

コントロールとは抑えることではないということである。抑えられるものと抑える自分との関係調整を第一に考える。この関係調整がつけば、そのことを抑えたいという気持ちはなくなるのである。抑えたいという気持ちがなくなるということは、努力なくしてその問題をコントロールしているということになる。

話し合いとは、言葉のやりとりがあれば話し合いが行なわれたということではなく、ともに譲歩する部分がなければ、話し合いにはならない。それと、ともに相手に対する理解が深まらなければ、話し合いをしたということにはならない。それがなければ言葉による暴力でしかない。

コントロールとは、抑圧でなく関係調整である、というのが重要な視点です。あまり褒められたものでない反社会的ないびつさを持つ関係、をすべて排除していくと、最初のうちは明快さ、社会適合的になって言っている感覚があるでしょうが、長期的には無理が出てくると思います。より普遍的な集団で受け入れられない者同士が寄り集まって形成される局地的、限定的集団が、趣味の集団であり、友達関係である、ということが言われているんだと思います。

 

コントロールとは、抑圧でなく関係調整である

 

ところで、どんなに限定的な集団で集まったとしても、分かり合えない部分が絶対に出てきます。最も気心の知れた2人という単位でも、相手はどこまで行っても自己ではない他者なのです。この、社会にも理解されない、最も仲の良い友人にすらも理解されない自分の部分をどうするか、というと、それが孤独の世界の範疇であり、そこは社会に向く自分(意識)と社会以前の欲求、論理以前の欲求であるところの自分(下意識)の世界であり、自己催眠という技法はその関係調整の技法である、と言われています。

 

>自由感・不自由感の条件

不自由感を持つときは、選択肢の数が非常に少ないか、下意識の考えとは異なる意識の判断によって行動しているか、のどちらかである。意識の判断とは異なる、下意識の判断の結果に従って行動をとっているとき、人はとらわれているとか、心の中のものに振り回されているというような言葉をよく用いる。主体感は伴わない。そして、不自由という実感を持つ。また、下意識の考えとは異なる意識の判断によって、行動をとっているときには、自分の判断によって行動はしているけれども、義務的な感じで、気分が乗らない。このときにも、人は自由であるとは感じない。一人が自由であると感じるときは、意識の判断に下意識のエネルギーが伴うときである。このとき、幅広い見通しの下に判断し、行動するときに下意識のエネルギーが用いられる。このとき、人は自分は自由だという実感を感じる。自分は主体的に行動していると実感する。このように、自由とか、主体的というのは、実は意識だけの考え方だけでは成立しないのである。意識が主導権を持って、下意識がそれに協力しない限りその感覚は出てこないのである。

意識と心が一致した見解で前に進むとき、自由という所感が得られる、と言われています。この現象に関わる表現には非常にバリエーションがあると思います。没頭・夢中という状態もそうでしょうし、逆の望ましくない状態を指して理性で押さえつける、ということ、心は離れたいのにやっぱり体は好きみたい、というような言われ方をすることもあると思います。

 

われわれが悩んでいて、それを何とかコントロールしたいという問題は、からだの考え、欲望を特徴とする下意識の考えが直接外界に出てしまうということ。それから、もう一つは、意識の考えと下意識の考え、からだの考え、外界の考え、それぞれの間で、考え方に大きな隔たりがある場合である。その間に大きな摩擦を起こすことによって、それが本人にとっては、不安感や葛藤感、いらいら感などとなって出てくる、そのことに対してである。これらの二つのことで悩んでいる場合がほとんどであろう。

…(略)…

意識と下意識のぶつかっている関係では、いずれは下意識の方が優勢になってくる。一時的には、意識の方が優勢であるが、下意識は亀であり、意識は兎という特徴を持つからである。

たとえば、想像の世界を取り上げてみよう。人は、想像の世界においても現実と同じ制限を加えようとする。現実の世界では、人に暴力を振るってはいけないというのは当然である。この考え方を想像の世界にも持ち込み、そのような想像をするときに、想像することは楽しいが、これは悪いことを自分がしていると考えてしまう。しかし、よく考えてみると、暴力を振るうことの問題点は、相手を傷つけてしまうからである。想像の中だけで暴力を振るっても相手には傷がつかない。ということは、現実に暴力を振るうことはいけないが、空想の世界の暴力は何も悪いことではない。楽しければ、そしてそのことによって、自分中に解放される感覚が出れば、それは素晴らしい空想と言わなければならない。

このように考えることによって、自然に空想と現実、夢と現実などの区別がついてくることになる。自分が悪いことをしていないという気持ちを、自分の中で納得して持つことができれば、人に対してもそれは許すことができる。

…(略)…

このように、できるだけ制限を少なくしていく必要がある。そのために、最低限の事柄の制限だけを明確にして、その後は自分で悪いととらえていた事柄の中に、どれだけ素晴らしさを見つけだすことができるかということになる。少しずつ素晴らしさを発見するたびに、下意識に対する寛容度が大きくなってくる。また、下意識と一緒になって喜ぶ心が育ってくる。今まで持っていた、当然そのようなことの中に素晴らしさはないはずだ、という考え方を捨てる必要がある。もう一度、今の自分の目で、以前当然と考えていた考え方を点検することによって、意外な発見がたくさん出てくるものである。見落としていたものが急に見えてくるものである。

われわれがわれわれの下意識に対して課す制約について、点検が必要であることが言われています。制約に関して教条主義的に当てはめるというのは長期的に見るとコストが高いということだと思います。自分が自分の欲望を抑圧するのですから、その抑圧は無限定でも誰も文句は言いません。親が子を躾けるときにはこういう言われ方をすることがあるでしょうし、そういう言われ方をした経験に思い当たる節はだれでもあると思います。親と一緒になって、親や社会の代理人となって自分の下意識を抑圧していて、その抑圧による下意識の不満が溜まっていっている状態、これがストレスフルな状態だと理解されます。これに対してコントロールの仕方を抑圧から関係調整の方向に舵を切ることによって、この構図自体を変えていこうというアプローチであると理解されます。

 

「素直な自分」感覚でもって、行動を行なうことができるときには、それほどストレスは溜まらない。ところが、「素直な自分」を抑えて、~をしないといけないとか、~をしてはいけないという感覚の下に行動しているときには、非常にストレスが溜まる。このときには、われわれは自由ではなく、束縛されながら行動しているという感覚を持つ。

…(略)…

生きている感覚、充実している感覚は、どのようなときに生じるかというと、自由に生きている、自分がこのようにするのがいいと考えたことを、自由に行なうことができる状況にいるときである。しかし、自分はこのようなことを求めているとか、自分はこのようにするのがいいと思うという実感のこもった考えが出てくるためには、「素直な自分」感覚が必要になる。

「あのときの自分」は、非常に積極的で、あのときには非常に人生が充実していて、自分は生きていた。このような感覚を含んだ、「あのときの自分」という自分感覚がある。「あのときの自分」を思い出すだけで、そして、その気分に浸ることは、まさに暗示効果を生み出す。その気分に浸れば浸るほど、「あのときの自分」感覚がよみがえってくる。これは暗示現象のメカニズムとまったく同じで、それゆえ、暗示効果である。

まず、「あのときの自分」感覚を取り戻そう。そうすれば、主体感が戻ってくる。

自己催眠状態が深まってくると、穏やかな気分が生じてくる。穏やかな気分というのは、意識も下意識も反抗的態度をとらない状態を意味している。この状態を利用して、「素直な自分」感覚を追求していくことができる。まず、意識が下意識に対して素直になる。素直になるということは要求を聞いて、その通り行動することを許すということではない。素直感覚でもって、話し合うということである。そうすれば、下意識の方も反抗的態度をやめるであろう。このときに、「素直な自分」感覚が生じ始める。その感覚が出始めてくれば、その感覚によって主体感覚が少しずつ生まれ始めてくる。その感覚の素晴らしさに気づき、意識と下意識の間の反抗的関係から、素直な関係に徐々に調整されていくであろう。自分自身としては、「素直な自分」感覚を楽しんでいればいいわけである。そうすれば、勝手に、意識と下意識の間の素直な関係が進んでいくことになる。

 

アプローチとして下記の二つがあることが言われています。

 

「あのときの自分」感覚を取り戻す

穏やかな気分として知覚される素直な自分感覚を楽しむことで、意識と下意識の関係調整が進む

 

>下意識の要求は非言語的、非論理的

たいていの人は、休憩は働くための、活動のためのエネルギーを補給するものであるという発想をとっているように著者には思われる。このような考え方のために、人生を考えるとき、眠っている時間を人生の長さから省こうとするような極端な考え方も生まれてくるのである。

休憩の中には、休憩の感覚に合った、生きている感覚がある。われわれが生きていると感じるのは、仕事の中だけではない。仕事と呼ばれる、社会との関係の中での積極的活動だけの中で、生きている感覚が最も深く感じられるというのは、極端な発想なのである。そのために、他の心を生きることが、すべて犠牲にされるというのは、もっと極端な発想になってしまう。たそがれの心、夜の心、夜明けの心も十分に満たされたときに、人は、充実した、余裕のある生活を送っているという感覚を持つことになる。このことを十分に理解していない人が多く見受けられる。それぞれの心を十分に満たすということは、それぞれの心を十分に味わい、十分に楽しみ、十分に生きることである。そうすれば、十分に満たされたという感覚が生じてくる。

このような、睡眠や休憩、遊びや芸術、定量的でないもの、言葉で説明できないものに対する欲求が下意識による欲求であると言われています。これらのことを下意識の求めに応じて十分味わうことを、意識と下意識の関係調整の中でやっていくことが必要なことだと思います。例えば、朝ずっと寝ていたいと思っても、そうしてしまうと会社に行けなくなって社会生活の運営に支障をきたすので、平日のそれに関しては抑圧しても、週末の翌日休みの日に関しては心行くまで朝寝坊をすると言うようなことだと理解されます。こういうわかりやすいことから、もっと抽象的な、何となく泣きたい気分、何となくさみしい気分、というようなことも、これは下意識の要求なのであって、こういう非言語的、非論理的でかすかな声に対するアンテナを溌溂とさせておくことがひつようですし、そのための技法が自己催眠法であると理解されます。