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『人生論』トルストイ著、原卓也訳

人生全般について論じた本です。本書では人間を動物的基盤の上で生きる理性的な存在と規定し、それに基づいて幸福の在り方や生と死の在り方を論じています。

 

■動物的幸福の限界

本書を読んでいて非常にしっくり来たのは、動物的な幸福の追求は無駄である、という主張です。動物的な幸福追求とは、利己的な幸福追求の方法であって、他人を押しのけて出世するとか、人の持ち物を奪って豊かになるとかいうことです。あるいは必ずしも反社会的である必要はなく、頑張って仕事をしてお金を貯えることや、稼いだお金でより良い暮らしを送ることも本書では動物的な幸福追求とされます。この動物的な幸福追求の否定は外部からくるものではなく、自身の内的な疑念として意識されることが多いと思います。どれだけ稼いでも、どれだけ贅沢しても満たされない感覚、まあそんなに贅沢する機会自体在りませんが、あるいは幼少期のワクワクする気持ちがすっかり失われている感覚、そういう感覚をよく記述していると思います。

理性的な意識は個人的な幸福の追求の不可能さを示して…

もし人が…生存が緩慢な死であることなどに気づいたら…その人はもはや腐敗していく個我の中に自分の生命を置いておくことはできなくなって…

生存は緩慢な死である

 

■生命の再定義

さらに目から鱗だったのが、一般的な意味の生命を否定し、理性的な生命の定義を提示していた点です。一般的に生命というと、赤子として生まれて、不慮の事故によって、あるいは老人になって死ぬまでの期間のことを指すと考えられていますが、本書ではこの定義を明確に否定しています。そうではなく、本書では生命のはじまりは、理性的な意識の表れであるとされています。理性的な意識が、動物的個我の幸福追求を否定するということを先に述べましたが、人生全体で見ても理性の目覚めが、それ以前の理性的でない無自覚な人生の終わりであり、その次の理性的な生命のスタートである、というのが本書の見解です。そして難解なのが、そのようにして始まった理性的な生命は、時間や空間といった制約を受けないので、死もないとしている点です。わからないなりに説明しようとすると、数十年ののちに訪れる肉体の崩壊は、動物的個我という基盤の終わりという意味であって、理性の終わりを意味しない、というのは理性は時間や空間をその外側から認識する存在であって、認識しているときに理性は存在するし、認識していないときには理性は既に存在していないからだと思います。人間は将来自分の肉体が滅びることを予想できますが、それは予想であって、未来のその時点の死を認識しているわけではありません。人間は未来を予想できますが認識することはできません。理性は現在における認識そのものであって、将来における認識を予想するときそこに在る理性は厳密には理性ではないということだと思います(錯乱)

このことは人間の定義にもかかわってきます。本書では、世界を構成するものを無機物、動植物、人間の三つに分類し、それら三つに無機物<動植物<人間という優劣を与えています。

無機物、動植物、人間で構成されるこの世界

我々が無機物、例えば洗濯機や電子レンジを見た時に、それらは間違いなく無機物に分類され、動物に分類する人はいないと思います。また、我々が犬や猫を見た時、これらは動植物に分類され、無機物に分類したり、人間に分類したりする人はいないと思います。人間に関してもその事情は同じで、こちらも基本的に分類が誤って行われることはないと思います。これら事物の分類に関して、各人の判断に相違が生じないのは、その判断に使われる基準が一定で、一般に共有されているからだということができます。例えば無機物と動物の間にはじっとしていて動かないかどうか、動くとしても人工的に作られているかどうか、種として繁殖するかどうか、などの基準があり、それをもとに人間は人間以外をその二つに選別しています。これらの基準は、世の中のものを分類した時に混乱が生じない程度には一般に共有されています。それよりも問題は動物と人間を分ける基準の方で、この基準が人間の定義に関わってくるのですが、この基準というとやはり一般に知られている通り、理性の有無ということになってくると思います。

三つの種族を分ける基準は一般に共有され、人間と動物とを分けているのは理性の有無である

先ほど三つの種族の間には明確な優劣関係があると書きました。動植物は無機物よりも高位な存在で、人間はさらにその動植物よりも高位な存在です。そしてこれらの存在は、より下位の存在からの派生形なので、より下位のグループのルールに従う必要がある、という構造をしています。例えば、動植物の生命を維持する仕組みは、無機物のルールに従っていて、動物の筋肉や骨の運動や強度というのは、それを構成する元素の性質に準じるわけで、また、動物の皮膚組織や内臓は水分を含み、火に弱いので、それらの原料が耐えられる以上の火に晒されたとき、例えば山火事のときなどに、滅びなければなりません。このように、無機物の世界のルールを組み合わせて動植物は自身の生命を維持しています。さらに、その上位である人間に関しては、先に述べた無機物のルールに従って、その上で動植物の世界のルールにも従って存在しているわけです。これは、人間という存在の本質である理性が、純粋に動植物的な意味における肉体が無機物の世界のルールに従って滅びるときに道づれになるということです。

無機物の世界、動植物の世界のルールに従って存在する純粋な理性、という構造

最初に述べた動物的幸福というのは、動植物の世界のルールの中の成功、とも言い換えることができます。動植物の世界では、自分とその眷属の存続を維持させることが至上命題であり、一般的な意味の快楽や贅沢というのは、その至上命題を部分的に含むことをその価値としていて、それを追求することは動植物の世界のルールに片足を突っ込んで理性を使役している状況ということができます。このような目標設定は、より理性の視点に立った時に絶望をもたらす、ということは最初に述べました。この、生存が緩慢な死であるという感覚から抜け出すためには、理性の理性による目標設定を行う必要があります。

 

■正しい人生の目的

利己的な幸福追求を否定した後に本書が指し示す正しい方向性は、他者への愛です。利己的なのがダメなので、そうするしかないのですが、ここからが厳しい所で、自分の家族や友人、祖国などに対する愛はNGです。自分が好きなものへの愛は自己愛の延長です。本書ではそういう自己愛の延長の愛は、同じく他人の自己愛や、他人の自己愛に基づく愛と対立し、永遠の闘争を産むとしています。

生命を理解せぬ人間が、妻なり子供なり友人なりを愛しているというとき、それはその人の生活における妻や子供や友人の存在が彼個人の生命の幸福を増しているということを語っているにすぎないのだ。

ここでいう愛というのが、普段われわれが日常生活で使用している愛という言葉と、かなり意味の隔たりを持っていると思います。本書の指摘に基づいて我々が日常的に使う愛という言葉を考えてみると、それは「物事を認識し」、かつ、「その物事に好意的な判断を下す」という営みであるということができると思います。逆に本書で言われているような愛を考えると、それは「認識したもの全てに対して好意的な判断を下すこと」ということになると思います。

 

一般的な意味の愛とは、物事を認識し、その物事に好意的な判断を下すことである。

本書で言う愛とは、認識したもの全てに対して好意的な判断を下すことである。

 

■実例

ここまで考えて本書で言っていることを実践している様を描いたフィクションに一つ思い至りました。

イエスマン “YES”は人生のパスワード

です。この作品は、人生で出会う全ての事柄にイエスと答えることで人生を好転させる話で、この「すべてにイエスと答える」というのが、「認識全てに好意的判断を下す」という本書の愛の定義に近いと思います。例えば主人公が、ホームレスの金くれという質問に対してイエスと答えるシーン、掲示板のギター教室、韓国語教室の勧誘のチラシに対してイエスと答えて参加するシーンがありますが、これらは、イエスと答えることで自分の価値判断や損得勘定とは別の次元で、相手を肯定していることを表すシーンだと思います。

本書は難解な部類の本に入ると思いますが、イエスマンの方は非常に見やすく、また鑑賞後に元気が出る名作だと思います。本書の前後にイエスマンを観ることで、本書の理解が深まることと思います。

 

トルストイの人生論がわかりにくいときは、イエスマンを観るといい