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スタインベック『菊』

 

下記の文献を参考にスタインベックの『菊』を解説します。

冬の花 - 滋賀大学学術情報リポジトリ

スタインベックの「菊」 ―或るちぐはぐな夫婦の物語― - 長崎大学学術研究成果リポジトリ

■あらすじ

中堅農場経営者ヘンリーの妻として菊を育てながら平和な毎日を送るイライザが、庭で仕事をしていると、旅をしながら金物の修理をしているその日暮らしの鋳掛屋がやってきて「何か仕事はないか」と言います。相手にせずやり過ごそうとするイライザでしたが、鋳掛屋が菊のことに話題を向けると途端に心を開き、鋳掛屋の知り合いに渡すために菊の新芽を持たせてやり、さらに家から仕事を探してきてやります。菊の行く末に期待を寄せるイライザでしたが、のちに鋳掛屋が渡してやった菊を道端に捨てていることに気づき絶望する話です。

菊を育てながら平和に暮らすイライザ

鋳掛屋と出会い菊を託し、菊の行く末に期待寄せる

菊が道端に捨てられており絶望

 

 

■イライザの欲求不満

この作品は、何不自由なく暮らしているかに見えるイライザがもやもやした欲求不満を抱えていることを暗示する描写で始まり、そのことがこれからの話の発端になっています。冒頭の情景描写にて、

濃い灰色のフランネルのような霧が、サリナス渓谷を、空やその他の世界から隔離していた。どちらの側にも、霧が蓋のように山々の上にかぶさって、その大きな谷間を、蓋をした壺のようにしていた。

霧によって蓋をされた話の舞台であるサリナス渓谷は、イライザの外界からの隔絶感、抑圧感を表していますし、

静寂と待機の季節だった。大気は冷たくて、やわらかだった。微風が南西から吹いてくるので、農夫たちは、やがて慈雨がやってくるだろうと、かすかに期待していた。しかし霧といっしょに雨がやってくるはずはなかった。

飴に対する農夫たちの割の薄い期待は、イライザの期待もそうであるということを暗示しています。また、

彼女の背後には、窓の高さまでゼラニウムをびっしりとめぐらした、こぎれいな白塗りの農家が建っていた。よく掃除が行き届いていそうな小さな家で、窓は、いやになるほどみがきたててあり、玄関の上り段には、きれいな靴拭きが置いてあった。

これはイライザの家の描写ですが、非常に手入れが行き届いていることがわかります。これも、イライザが持てあました自らのエネルギーを、家事に振り向けた結果と読むことができます。イライザが仕事をする様子の描写でも、

鋏の使い方でさえ、熱がはいりすぎ、力がはいりすぎた。彼女のエネルギーにとっては、菊の茎など、あまりにも小さすぎ、弱々しすぎるように見えた。

のように、イライザがエネルギーを持て余していることを表す描写があります。

エネルギーを持て余して欲求不満を抱えるイライザ

 

■鋳掛屋の登場

イライザの目には、鋳掛屋は能力を生かして腕一本で生きる自立と自己実現の象徴のように、また男性的世界の体現のように映ります。鋳掛屋に菊の話題を向けられたことで気を許したイライザは、菊の作り方を鋳掛屋に教えてやります。ここの描写は性の交歓の描写と読むことができます。その主たるものは、菊の蕾を摘むときの「植木屋の手」、職人の直感のようなものを説明するシーンで、

星がとんがってて、あたりがひっそりと静まっているときさ。ほら、体が上へ上へと舞い上がっていくような気持ちだよ。とんがった星の一つ一つが、体の中へ飛び込んでくるような感じだよ。熱くて、鋭くて、そして―――とてもいい気持ちなんだ」ひざまづいたまま、彼女の手は、油じみた黒いズボンをはいた男の足のほうへのびた。ためらいがちな彼女の指が、ほとんどズボンにさわりそうになった。それから、その手は地面に落ちた。

この直球の描写の他にも、「型の崩れた帽子を、ひきちぎるように脱いで、暗褐色のきれいな髪をゆさぶった」シーン、「興奮」「熱情」と言った単語の使用、そう言った演出が生の交歓を暗示していると言えます。

 

菊の育て方の説明が性の交歓の描写になっている

 

イライザは鋳掛屋に託した「菊」に並々ならぬ思い入れを持って、去っていく鋳掛屋を見送ります。

イライザは金網の垣の前に立って、荷車がゆっくり進んでいくのを見まもっていた。彼女は肩を貼り、頭をそらし、目をなかば閉じていたので、目の前の情景は、ぼんやりとしか目に映らなかった。彼女の唇は無言のまま動き、(さよなら―――さよなら)という言葉を形づくった。それから彼女はささやいた。(あれは明るい方角だ。あそこには輝きがある)自分のささやき声に、彼女は、はっとした。その考えを振り払い、誰かが聞いてはいなかったかと、あたりを見まわした。犬どもが聞いていただけだった。

鋳掛屋の方角に憧れを込めた感慨を向けるイライザのこの独り言は、彼女が男性の、社会の中で能力を発揮して生きていく生き方にあこがれを感じていることを表しています。この後イライザは夫と街へ食事に行くことになっており、そのために身づくろいをするシーンがあります。

浴室へ入ると、よごれた服をひきちぎるようにぬいで片隅へ放り投げた。それから、小さい軽石で、足も、腿も、腰も、胸も、腕も体中を皮膚がむけて赤くなるまでこすった。体をふき終わると、寝室の鏡の前に立って、自分の体をながめた。腹をひきしめ、胸を張った。首をねじ曲げて肩ごしにうしろ姿を見た。

このシーンは解釈のわかれるところで、一つ目の文献の解釈では、「イライザが強く下界の目を意識した結果」と解釈されるのに対して、二つ目の文献では、「イライザの鋳掛屋との暗示された不貞に対する償い」であるとされています。個人的には一つ目の文献の解釈の方が納得がいきます。イライザの所作に自身の不貞に対する悔恨のようなものは読み取れませんし、鏡の前に立って自分の裸体の魅力を確認するシーンとちぐはぐな印象を受けます。一つ目の解釈を支持するなら、このシーンでイライザは「町へ行く」という自身の予定に、閉鎖された世界(霧に閉ざされたサリナス渓谷)を抜け出して下界と交わることを意識した、ということになります。

 

 

夫と街で食事をするというイベントが閉鎖的な現実からの脱却の模倣、暗示になっている

 

■絶望

あらすじで解説した通り、この後イライザは絶望に打ちのめされることになるのですが、捨てられた菊を見つける問題のシーンの前に、それを予見するかのような情景描写が配置されています。これは解説を読んで個人的には一番感銘を受けたのですが、

…ポーチへ行って、とりすました、しゃちほこ張った格好で腰を下ろした。川沿いの道へ目をやった。霜枯れでまだ葉が黄ばんだままの柳の列が、濃い灰色の霧の中で、まるで薄い日光の帯のように見えた。それだけが、この灰色の午後の、ただ一つの色彩だった。

この川沿いの道の方向というのは、鋳掛屋が去って言った方向であり、これから向かう町の方向であり、先ほどイライザが「輝きがある」と感じた方向であって、その方向には、霧の向こうに霜枯れで葉が黄ばんだ柳があり、それが「まるで薄い日光の帯のように見える」のです。つまり、イライザが先ほど見た(かどうかは定かではありませんが少なくとも独り言をこぼすほどにそう感じた)「輝き」の正体というのは、ただの霜枯れで黄ばんだ柳の葉であり、まがい物の光だったというわけです。このような形でイライザの期待が裏切られることが予告されています。

 

日の光と見紛う霜枯れの柳の偽りの輝き

 

そして捨てられた菊を目撃してしまったイライザが、絶望するシーンでラストになります。

彼女はしばらく黙っていたが、やがてまた話しかけた。「ヘンリ、拳闘試合では、おたがいに相手に酷いけがをさせたりするの?」

「ときには、ちょっとくらいあるが、そんなことはまあ珍しいだろうな。なぜだい?」

「鼻柱を折られて血が胸へ流れ落ちるなんてことを読んだからよ。グローブが血でじっとり重くなったなんてことも読んだわ」

彼は彼女の方へ向きなおった。「イライザ、どうしたんだ?お前がそんなものを読んでいるとは知らなかったぜ」彼はいったん車を止め、それから右へ曲がってサリナス川の橋を渡った。

「女でも拳闘試合を見に行く人はいるの?」

「それは、いるさ。イライザ、どうしてだい?お前も見に行きたいのかい?おまえがおもしろがるとは思えないが、ほんとうに行きたいんなら、つれて行くよ」

彼女は、ぐったりと座席へよりかかった。「とんでもない。行きたくなんかないわ。ほんとうよ」彼女は彼から顔をそむけた。「葡萄酒が飲めたら、それで十分よ。それでたくさんだわ」彼女はオーバーの襟を立てて、自分がめそめそ泣いているのを―――老婆みたいに泣いているのを―――彼に見られないようにした。

この、「老婆みたいに」泣くという描写は、少し前の身づくろいのシーンの、生命力と女性的な魅力の溢れる彼女との対比によって、より一層印象的です。またこの会話から、イライザが拳闘試合を忌み嫌いながらもそれに興味を持ち、そういう情報を収集していたころが伺えます。しかし打ちのめされた今のイライザにとって拳闘試合など「もうたくさん」であり、「葡萄酒が飲めたらそれで十分」なわけです。これは男性社会にあこがれて首を突っ込んでみたはいいものの、その男性社会の厳しさに手ひどく打ちのめされて、「葡萄酒」―――ヤケ酒に逃げるしかない惨憺たる敗北を表しています。

 

手ひどい敗北とヤケ酒、自信を失って老婆のように泣く

 

■感想

解説をたどって読んでみると、期待と裏切りのプロセスが丹念に描かれ、霧に閉ざされた閉鎖的な現実、風変わりで異国情緒あふれるキャラバンの様な、憧憬の対象としての鋳掛屋、霜枯れの柳の偽りの輝きと、どこか思い当たる節があって懐かしく魅力的にすら感じる背景描写が舞台装置として配され、圧倒的切なさを有した素晴らしい作品だと思います。

 

■ちなみに

この短編はこの本に収録されています。