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『家族という病』下重暁子著

本読みました。

『家族という病』下重暁子

 

以下感想です。

■概要

■家族と個人

全体主義個人主義は切り離せない

■本書における誤り

--『家族という病』まとめ--

■関連する作品

 

■概要

 

ご家族と確執を抱えたまま死別された著者が、昨今の世の中の出来事、日本人のありかたを全体主義←→個人主義という切り口からコメントしています。著者はその来歴から、全体主義よりは若干個人主義寄りの立場をとり、自立を背景にした個人主義を主張されるところにご自身が女性の独立が難しい時代に立派に働いて自立されていたことの自負が感じられます。家族が家族であるというそのことだけでお互いを理解できているという幻想に陥り、お互いを知りあう努力を放棄して形骸化するという指摘、また家族の期待が子供の人格をスポイルする危険性をはらんでいるという指摘は至極尤もです。ただ本書は全体主義の一部分を否定したにとどまり、全体主義個人主義の間の揺れ動きの中でどう生きていくのかという部分に回答を与えるだけの説得力を持っていないように思いました。本書の誤りについては後述します。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

■家族と個人

 

家族の問題というのは、そのまま全体主義の功罪の問題ということができます。個は全体のために役割を持ち、序列を守って不自由な思いをしますが、共同体に所属しているという安心感を得ることができます。一方家族から自立した自己は個人主義の精神のもとに暮らしていくことになります。こちらは自分の頭で考えたことを自分の責任の範囲内において自由に実行できる権利を享受できる代わりに、共同体への帰属という安心感は捨てなければなりません。

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家族といると、不自由なこともあるけど安心できる

一人でいると、完全に自由だけど孤独で不安である

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

全体主義個人主義は切り離せない

 

全体主義個人主義、家族と個人は全く対立する性質を有していますが、人間はこのどちらか一方を選択してしまうことはできません。「人間は一人では生きていけない」というのも正しいし、「個人の自由は犯すべからざる権利である」というのも正しいのです。それぞれのメリットは人間が生きていくのに必要なものであるので、それぞれのデメリットを少しずつ我慢して暮らしていかないといけません。

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家族といる時間、一人でいる時間のそれぞれが人間の人生には必要

 

この二つの時間を両方知ることは間違いなく有益です。家族といる窮屈さと一人でいる孤独を自分のこととして実体験で経験することはそれぞれのメリット(全体主義の安心と個人主義の自由)のありがたみを認識すること、それぞれのデメリット(全体主義の不自由さと個人主義の不安)に耐えることに資するからです。本書の中でも、「家族が個人である前に役割を演じている」ことの弊害について触れられています。個人である経験、家族である経験、その両方の経験があって初めてそれぞれの経験のいい点悪い点を理解できます。

 

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■本書における誤り

 

著者は個人主義の立場から個人主義的な人間の成熟の必要性を説いていて、その有益性についてはよく知っていたようですが、その限界についてはあまり目を向けていなかったようです。本書は家族を全体主義の弊害を含む廉で悪と認定し、個人主義的な自由に基づいた「気の合う仲間」的共同体を善としています。しかし実際は、気の合う仲間的共同体も、家族という共同体も、程度の差こそあれ同じように全体主義的です。著者はこのことを見落としています。

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家族も、気の合う仲間も程度の差こそあれ同じように全体主義

 

そのことをよく表したエピソードがあります。以下に引用します。

 

高校時代の友達が、忙しくてなかなか会う時間がとれないという。せっかくニューヨークから帰国中の友達も交えて会おうと思ったのに。なぜなのか聞いてみると、孫がお受験だという。子供の受験ならともかく、なぜ孫がお受験で、祖母である友達が忙しいのかわからない。…(中略)…両親は面接などもあるから、それなりの緊張感もあろうが、なぜ関係のない祖母が…と言ったのがいけなかった。「どうして関係がないのよ。大切な家族の中で一番可愛がっている孫のお受験なのよ!」と逆に私が叱られてしまった。

 

話しぶりからするに筆者はまだ自分がやったことを理解していないようです。気の合う仲間だから、お互いのこだわりや嫌なことはほぼ似通っているのですが、とはいえやはり別の人間なので、理解できない部分というのが出てきます。それがこの例の場合「孫のお受験」だったわけですが、孫の受験を応援するおばあちゃんにとっては、筆者の無言の圧力(会合に欠席の理由を問い質す、聞かれてもないのに意見を言う)は全体主義の不自由の象徴に見えたことでしょう。家族の全体主義的な部分を否定し、自由がいいと言いながら、自分は気の合う仲間という共同体の全体主義的な不自由を他人に強要してしまっています。

 

本書の誤りは、家族の全体主義的な部分を非難しながらも自分にとって都合の良い全体主義容認してしまっている点です。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

--『家族という病』まとめ--

 

全体主義個人主義との正しい付き合い方とは、そのメリットとデメリットを十分に理解し、それらがトレードオフであることを踏まえたうえで、それぞれと適切な距離を保つということです。人によって適切な距離は違います。自分は不安と不自由による閉塞感のどちらをより感じやすいのか、あるいは自由と安心のどちらを重んじているのか、そういう事を自問して共同体や孤独と適切な距離を保つことが家族を病と思ってしまわない方法だと思います。

 

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■関連する作品

 

今回紹介した作品はこちらです。

 

 

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