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『なぜかうまくいく人のすごい無意識』梯谷幸司著

>ミリオネア脳

そのアンケートは次のようなシンプルなものでした。低所得者層、中所得者層、高所得者層それぞれに「今、何に興味関心がありますか?」と聞いたのです。低所得者層に関心があることは、消費稅問題と年金問題。身近なお金のことに関心がありました。中所得者層になると、消費稅問題、年金問題に加えて、安保法案や、大企業の不祥事、政府の問題が上位3位を占めました。自分の正しさを証明するために、その対比として「悪者」「戦う相手」が欲しいわけです。

面白かったのが高所得者層の回答結果です。

政治や大企業の不祥事に興味のある人は2パーセントくらいしかいませんでした。彼らの興味関心があったのが、「1位健康づくり」「2位旅行」「3位孫と遊ぶこと」というきわめて個人的なことでした。

…(略)…

高所得者層は「こうあるべき」というメ夕無意識はほとんど使いません。そもそも正しさを証明する必要がないとわかっています。誰かと戦う必要はなく、誰かを悪者にする必要もない。自分のやりたいことをやるだけです。

 

ミリオネア脳の人は、「自分の正しさを証明することに関心がない」という風にまとめられています。これはいいまとめ方だと思います。私の周囲にも、人の話を全く聞かない人がいます。自分は球を投げっぱなしで、ひたすら喋りまくる、周囲はいつも聞き役、というような人です。こういう人がみんなそうかはわかりませんが、相手のリアクションが気にならないということは、自分のスタンスが相手のリアクションによって変化しないということだと思います。自分の話す内容や、その内容のもとになった自分の思想を、相手の出方に応じて変えるつもりがないということです。我々が人の話を聞くとき、その動機はその人の話やその人に興味がある、という前向きな動機以外に、その人が自分に対してどのような感情や意見を持っているかという後ろ向きな動機も確かにあることが言えると思います。

 

だから、できる人は人の話を聞く、とか、できる人は人の話を聞かない、というまとめ方は本質的ではありません。正しくは、本書が指摘している通り、できる人は自分の正しさを証明する必要性を感じない、ということだと思います。

 

自分の正しさを証明する必要性を感じない

 

絶対的自我は、「物事がうまくいってもいかなくても、自分の存在価値とはなんら関係のないことだ。今回はうまくいかないやり方だっただけであって、また別の方法を試せばよい」と、物事を分別して考えることができます。

この正しさの証明の不在という考え方の背景には、本書で言う「絶対的自我」というものがあると思います。物事がうまくいくかどうかに自分の価値がかかっていないとすれば、その物事がその人の心に残っていつまでも心配の種になるということはありません。その人の心の中は、そういう自分の価値を左右する恐れのためでなく、その人の興味に従った物事の印象が多くの座を占めることになるでしょう。

 

ミリオネア脳の人たちは、この苦痛な記憶、好ましくない記憶を整理していました。わかりやすくいうと、「やらないことリスト」を作るのです。つまり、自分はこれを避けたい、こういうことはしないと、自分ルールを作っていきます。概念は対比によって存在します。

…(略)…

避けたいことがあるから、欲しいものがハッキリするのです。そこで大切なのは、徹底的に自分基準となること。避けたいことが明確で、うまくいかなかったことを学習し、自分基準で「やらない」と決断したのです。そこには恐れの感情がついていないので、自分軸という器が広がるわけです。願望は役に立ちません。むしろ避けたいこと、やらないことを明確にし、ネガティブなものは利用する。

極貧状態から5年で個人年収を1億円突破した人にインタビューしたとき、こんなやりとりがありました。

「梯谷さんは年収いくら以上は要らないと決めてる?」

「いや、決めてないですよ。あればあるほどいいじゃないですか」

「ああ、梯谷さん、それじゃあ大きく稼げないね」

「え、どういうことですか?」

「私も昔お金がなくて、普通にいくらくらい欲しいというのは漠然としてあった。でもちょっとそれはおかしいんじゃないかと気づいたんだよ」

「はあ......」

「まず、『年収500万円以上は要らない』と呟き始めたんだ。そしてだいたい400万円くらいまでいくと、今度は『1000万円以上は要らない』と呟き始めた。そして8割くらいいくと、『3000万円以上は要らない』と呟き始めた。いくら以上は要らないと呟いて、どんどん限界を広げることをやっていまに至るんだ」

…(略)…

限界に近づくことは、知らない世界に踏み込むのと同じです。死後の世界が未知なために死ぬのが怖くなるように、限界に近づくことに無意識は恐怖を覚えます。

個人年収1000万円が限界だと思っている時は、1000万円を超えるとその先に何が起きるかわからないと不安を持ってしまうので、人は限界に近づかないようにブレーキをかけてしまうのです。だったら、限界を広げておけばいいじゃないかというのがこの戦略です。

限界というと悪いもののように思われがちですが、ミリオネアたちは、「限界って利用するものでしょ」という前提があります。

ネガティブなものを利用するという感覚。これは拒絶とは正反対の感覚です。いい所を探す、というのとも少し違います。利用するというのは、自分に好ましいように解釈して、その解釈でその物事を見るということです。利用できてしまうと、それはもはやネガティブではなく、有益なもの、ポジティブなものといわなければなりません。人間が認識する前の物事には価値判断というのは存在しない、という話が前読んだ本でありました。それに似ています。

 

『宇宙はイケメン彼氏』Happyhappy著 - H * O * N

 

その時は言語による認識は混沌の世界に区切りを与えることだと言いました。ネガティブというのはまさに言語による認識です。その状況をネガティブ、限界と名付けたわけです。しかしその限界を利用して、目的を達成したり、効用が増大したりして、その機構が再現可能であれば、それはもう限界という名付けは適切ではありません。目的に至る有用なツール、有用な手段と名付けられるべきだと思います。

 

限界というと名づけを再検討する

 

たとえていえば、子供がテストで80点をとったケース。お母さんが「なぜ80点なの?」と、原因に焦点を当ててしまうと、子供は無意識に言い訳を考え始めてしまうのです。それに対して未来基準の場合、「何の目的で80点を取ったの?」という質問になります。そこには大きな目的があるんだね、という前提があるわけです。「どんな目的なんだろう」と未来に視点が向かいます。

たとえば、イタリアンレストランを出したいAさんとBさんがいます。Aさんは「貯金が500万円貯まったら、夢であるイタリアンレストランをオープンさせたい」と言います。これは、条件が揃ったら行動に移す結果期待型です。

Bさんは「イタリアンレストランをオープンさせるために、いま500万円を貯めるために○○をしています」と言います。これは、やることありきで物事を進める結果行動型です。結果が出やすいのは、どちらでしょうか?もちろん、結果行動型のBさんです。

いずれも既存の認識の仕方を変える言葉の使い方として理解できます。なぜ→何の目的でという変換は、理由の内在化とでも言うべきもので、なぜ、という問いに問いに対する答えとしては、外的要因、外が寒いからコートを着た、というような回答も、内的要因、このコートがカッコイイと思ったから着た、というような回答も、矛盾なくつながりますが、何の目的で、という問いに対しては、前者の外的要因による回答は、回答として機能しません。

 

逆に考えて、外が寒いからコートを着た場合でも、そのような言い方は厳密には事実に反する、ということが出てきます。つまり、外が寒いから、「温かく過ごす目的で」、コートを着た、わけです。外が寒いときに自動的にコートを着るわけではありません。寒いのを味わいたいときにはコートを着ずに外に出ることもあるはずです。がしかし言い方次第でその選択肢は提示すらされないということになります。選択肢が狭まっているわけです。この言い方は、状況→行動と自動化してしまいがちな我々の思考に対して、状況→判断→行動という当たり前のプロセスを再認識させることで、状況に引きずられて、自由なく行動することを問い直す役割があると思います。状況から行動へ自動的に向かってしまうと行動は一通り、可能性が狭い行動になってしまいます。気温によって服装が一通りに決まってしまうわけです。そこへ判断を入れることで、服装にバリエーションが戻ってきます。この可能性の広がりが自由ということです。

 

状況→行動の自動反応をやめて、状況→判断→行動にできることが自由ということ

 

>脳の仕組み

つらいことや苦しいことがあるから、幸福感や喜びという概念が存在でき、幸福感や喜びを求めたり、幸福感や喜びを体験することがはじめて可能になります。

このように、何か対比として相対するものがあるから、概念が存在し、体験も可能になるという関係性がこの世にはあります。

そこで、「生き残りたい、安心、安全な状態が欲しい」と望むとしたら、それらの欲求を存在させるためには、対比として、どのような概念が必要でしょうか?

そうです。

死を意識すること」や「苦労や危険を感じること」が対比として必要となってきます。そこで脳は「死を意識することや、苦労や危険を感じることが必要なんだね。だったら、死を意識することや、苦労や危険を感じる出来事を作らないとダメだね」と動き始めて、病気や事故、災害、ビジネスの失敗、対人関係の不和などの現象を作り始めるのです。

また、「お金が欲しい」という欲求を持ち続けるには、対比として「お金がない」「お金に不安がある」などの概念が必要となるので、「お金がない」「お金に不安がある」と言い続けられる現実を作り出してしまうのです。

このように「脳は逆に動く」ということを知っておかないと、不都合なことを引き寄せやすくなります。

そこで、

 

「もっと」「さらに」という言葉を使って、目標の表現を変えていきます。

たとえば、「集客数がこうなって、売上がこのくらいになっている」と表現すると、「いまはそうなっていない」という前提が入ります。「健康になりたい」というと、「いまは健康ではない」という前提になります。

脳は前提を現実化しようとしますから、「いまはそうではない」という状態が現実化してしまいます。ですから「私はもともと健康で、もっと健康になりたい」という表現にすると、前提が「いまは健康」というところから始まります。これはビジネスや対人関係でも同じです。こうして、「もっと」「さらに」という言葉をつけて目標を発展させていくのです。

というわけです。他の本で、「否定形では願うな」という話がありました。貧乏になりたくない、不幸になりたくない、という願い方ではうまくいかないというのです。その理由を本書はよく説明してくれています。否定形で願うな、ということを本書を踏まえて考えると、たとえ肯定形で願っていても、願っていることと逆のことを意識しないことはできない、ということになると思います。お金持ちになりたい、幸せになりたい、ということを願ったとたんに、そうでない今の状況をとっさに認識してしまっているということは、実際やってみるとよくわかります。先述の『宇宙はイケメン彼氏』では、幸せになりたい、という願いは、「幸せになりたい」を叶える、と表現されています。「幸せになりたい」と感じられる出来事(つまり不幸な出来事)に満ち溢れた現実が手に入るというわけで、同様のことがここでも言われています。

 

もっと、といういい方は、現在の状況を「肯定的に」捉えたうえで、さらに上の状態を目指して進んでいくという言葉です。すでに持っているものもある、それに加えて○○になってほしい、もっとという言葉はそういう文脈にあると理解できます。

 

脳は前提を実現化する

願い方は、「さらに…になる」とするとよい

 

人はコントロールできないものは嫌なのです。税金がわかりやすい例です。税金も公共料金も一律課せられるものであり、不公平さはありません。にもかかわらず、税金の支払いや公共料金をいやいや払う人は多いでしょう。こうしていやいや払い続けると何が起きるでしょうか。「お金は自分でコントロールできないもの」と脳は認識してしまうのです。

そして、「お金は勝手に出ていくし、お金ってじつに面倒なものですね、じゃあ遠ざけましょう」となります。

…(略)…

「しなきゃいけない」という義務からやるのではなく、全ての支出が「自分の生きる目的と目標達成のため」という欲求からの戦略をとったことで、お金は自分でコントロールするもの、自分はコントロールできているのだ、という前提を芽生えさせたのです。すると「またひとつ目標に向かって前進しましたね」と、脳が面白がります。コーヒー代の支払いと生きる目的は直接関係なくても、潜在意識はそういうものだと解釈するのです。「お金は自分次第」という前提になりますから、欲しければ入ってくるということが起きてきます。

コーヒー代を払うたびに、これは自分の生きる目的のために支払っている、と宣言する人の話や、税金を払うたびに、国を支えている、と宣言した筆者の体験のまとめとして、このコントロールできないものは嫌、というのがあります。コーヒーの話で言うとコーヒーの代金は500円、これは支払う人が納得していてもいなくてもそう決まっています。そしてどちらにしろ結局払うわけです。納得していない状態でいやいや支払うというのは、現実のコントロールできない側面を見ていることになります。よく気づく人ほどコントロールできていない状態に敏感に気付いて、ストレスが溜まることになります。

 

しかし別な側面もあります。500円とわかっていてそのお店に入り、コーヒーを飲んだわけです。そしてその目的は、打ち合わせのためであり、その打ち合わせは自分のビジネスの一部なわけです。この関係を見出していくこと、あまり直接的でなくても、現状の在り方を認めていくこと、これは現実のコントロール可能な面を選択的に見ることですし、主体的、肯定的な見方でもあると思います。究極的にはコントロール可能ということと、主体的、肯定的ということはイコールになっていくと思います。

 

脳は、すぐに思い出せることは正しいと判断します。逆にすぐに思い出せないことは間違っていると判断し、その結果、セルフイメージも変わってしまいます。つまり信じ込みは、内容ではなく、思い出すスピードに起因するということです。早く思い出せるかどうか次第だったのです。だから私は、適切な目的の下に、適切なメタ無意識で構成されたパターンの行動をたくさんとらせます。

…(略)…

いま、ビジネスで問題を抱えている人や病気の人に協力してもらっているのは、「今日はどういう行動をとったか」、そして「どういう意図でそれを行ったのか」という1日の振り返りです。ビジネスパーソンでいえば営業日報のようなものでしょうか。

行動や発言の意図を洗い出すと、だいたいが問題回避か、自分の正しさを証明するパターンが多いので、そのずれを調整します。

改めて、その時に使っていたメタ無意識のパターンを確認して、「問題回避型→目的思考型」「プロセス型→オプション型」「他者基準→自分基準」にするなど、効果的なパターンの組み合わせに変更し、次の機会には都合のいいパターンで行動してもらうのです。

脳は思い出すスピードが速いものほど正しいと判断するということが言われています。くちぐせの本も、「口ぐせ」というのは考えるより先に出るから、「くせ」なわけで、これもスピードが速いために我々の認識に影響を及ぼすものであると理解されます。

 

『運命は「口ぐせ」で決まる』佐藤富雄著 - H * O * N

 

いまその記憶が甦ったということは、脳のなかでは、「いま起きていること」なのです。だから、「いま起きていること」として扱わないといけません。

せっかく身体が「未完了の記憶があるから処理してほしい」と意識の表面に出してきているのに、「それはいまのことではない、過去のことだから」と排除し続けていると、「このメッセージに気づかないんだな。だったらもっと強いサインで教えるしかないね」と、病気を引き起こしてしまうのです。「いま」に焦点を当てていくことはとても大切なのですが、マインドフルネスを教えている人が、「いま」の定義を間違えていることが多いようです。いま甦った過去の記憶は、脳にとっては「いま起きていること」です。そこで私は「甦った記憶を避けるのではなく、それはそれで処理していってあげてください」とお伝えしています。すぐに処理しなくても構いません。「気づかなくてごめん。いまの瞑想が終わってから処理をするから待っててね」と、ひとまず置いて、あとから検証すればいいのです。

これは別の本で、「脳には時制がない」という言い方で紹介されていました。

 

たとえば「確信度合い」をコントロールするやり方があります。ビジネスであれば、まず「今日の商談がうまくいく確率は何パーセントくらいか」と自分に問いかけます。「だいたい30パーセントくらい」「70パーセントくらいかな」と、漠然とした数字が出てくるものです。

そこで「どうして30パーセントなのか?」「どうして70パーセントなのか?」と、一度根拠を確かめるのです。すると、何らかの理由が出てきますから、それを把握しておきます。

そして、確信度合いが70パーセントであれば、パソコンの明るさを調整するように、確信度合いを30パーセントくらいにわざと下げてみます。

すると、どんな感じがするか。「なんだか今日の仕事がうまくいかない気がしてきた。じゃあ80パーセントくらいに上げてみよう。するとどんな感じか。これなら普通にうまくいくだろう」こうしてわざと上げたり下げたりしてみるのです。そして、自分のしっくりくる度合いに設定しておけばいいだけです。

この方法は、うまくいく、という感覚的なものを数字で置き換えることでコントロール可能なものにする、ということを意図していると説かれます。

 

脳は都合よく記憶をでっち上げます。そして、記憶が真実かどうか、脳には関係ありません。であれば、都合が悪ければ、「あれ?ちょっと待って。実はこういう記憶だったんじゃない?」とやり直せばいいというわけです。しかもそれは現実離れした内容でいいのです。

親から虐待を受けていた人の場合、私がセッションでよくやるのは、当時の自分が身長300メートルくらいの巨人になったとイメージさせます。すると、虐待していた親が、巨人化した自分の足元にいて、足の指をパンパン叩いているのが見える。

「それ、どう思います?」「なんかくすぐったいだけ」

「じゃあ、『邪魔』と言って、お父さんを指でつまんで、横によけてください」

そうイメージしながら演技してもらいます。するとそこからその人は、「私はやりたいことをやるから邪魔しないでね」と、人生を前に進み始めるのです。普通に考えると「そんなのおかしいでしょ」という設定でかまいません。

覚えてないような昔の記憶が現在の問題に影響しているというのはなんだかイカニモな話です。一方で行動や意識を決定している記憶がファンタジーでもよいというのは大いに同意できます。というのも、仮に幼少期にいじめられていた記憶がもとで現在の人間関係がうまくいかないというケースがあった場合、幼少期のいじめられていた状況や論理は、現在の大人の自分を取り巻くそれらと比較すると十分ファンタジーと呼べるほど異なっているはずだからです。現在の問題の原因といわずに、現在の自分を形づくる体験、というくくりで考えると、確かに幼少期、中学高校の体験がそれにあたると思います。ここの記憶をやり直していくことで変化のきっかけにする、そういう使い方であると理解されます。

 

1.まず、目の前にペンを用意してください。

2.次にそのペンを取ってください。

3.今度は、そのペンを取ろうと頑張ってみてください。

4.次に、ペンを取ろうと努力してみてください。

5.最後は、ペンを取ろうと目指してください。

ここで3~5のときにペンを取ってしまっては「頑張る」「努力する」「目指す」ことにはなりません。ペンを取ろうと「頑張る」「努力する」「目指す」ことと、実際に「ペンを取る」のは別なことです。

つまり、「頑張る」「努力する」「目指す」ということと、「ペンを取ること」はまったく関係ないのです。「頑張る」「努力する」「目指す」は人間重視型で、頑張る、努力する、目指すという体験の途中に焦点が当たっている体験基準です。頑張ること、努力すること、目指すことが目的になっているからうまくいきません。

一方、「ペンを取ること」にフォーカスするのは物質タスク重視型で、目的基準ですから、結果は容易です。

体験基準というのは手段の目的化のことであると理解されます。

 

もっとも基本的なのは、「ペーシング→ペーシング→リーディング」です。ペーシングとは相手のペースに寄り添うこと、リーディングは相手を望ましい方向へ導くことです。

1.相手のパターンの言葉で肯定する(ペーシング)

2.「そして」でつなげる

3.相手のパターンの言葉で肯定する(ペーシング)

4.「そして」でつなげる

5.新しいパターンの言葉をどさくさに紛れて入れる(リーディング)

あるとき、「貧乏から抜け出したい」という相談者がいました。その場合はこんな具合です。

「確かに貧乏って嫌ですよね。買いたいものが買えなかったり、いろいろ我慢しなければいけなかったり、つらいですよね」......1

「そして」......2

「お金がなくて将来の不安も出てくるでしょうし」......3

「そして」......4

「月いくらくらい収入があれば、経済的に余裕があると言えます?」......5

最初の「貧乏を避けたい」という問題回避型から、「いくら収入が欲しいか、という目的志向型にパターンをすり替えたのです。

同時に、「経済的な不安を避けたい」というゴール前に焦点を当てる「人間重視型」から、「経済的な余裕を感じる」というゴール後に焦点を当てる物質タスク重視型にパターンをすり替えました。「古い言語パターン→古い言語パターン→新しい言語パターン」と、使い慣れている言葉が2回ほど続くと、脳は油断をします。3回目の使い慣れていない言語パターンに最初は戸惑いますが、最終的に飲み込んでしまいます。

言語パターンという言葉が出てきましたが、これは実相を言い得たフレーズだと思います。発想の違いは言語パターンの違いなわけです。