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『フルメタル・ジャケット』

>モチーフの対置がスゴイ

たとえば訓練所で浴びせられる罵声の過激で過酷な内容と、ランニングのときに歌うバカな歌、陽気な長調のメロディと厳格さを排除した歌詞が与える印象が、それ以外の自由や尊厳のはく奪を強調しています。彼らはベッドで休むとき、銃を抱いて寝る、休息や弛緩の場であるはずのベッドに、最も似つかわしくない義務と業の象徴である銃が持ち込まれ対比されるわけです。さらにその銃に女の名前をつけて呼ぶというおまけつきです。こういう細部に対する病的なまでのこだわりは、のちのレナードの発狂と凶行に妙な説得力をあたえています。

 

物語の最後には究極の対比が示されます。つまり厳しい訓練を生き残り、さらに苛烈な戦場で戦い抜いている精強な海兵隊の一隊を、一人づつおびき寄せ、負傷させ足止めするという悪辣極まりない戦略で圧倒した、一人の悪魔の様なスナイパーが、少女だったという対比、女子供は撃てないと言っていたジョーカーが、そのスナイパーを撃つということ、それも憎しみとか恐怖とかそういうわかりやすい感情からではなく、祈りや救いというある種清廉な感情が、引き金を引いて相手の命を終わらせるという行動のトリガーになっているということ、そういう対比です。

 

>何を書いて何を書かないか

この作品は、ベトナム戦争に取材しているわけですが、ベトナム戦争そのものの方向性を決定づけるビッグイシューな戦闘を描いているわけではありません。ラストの緊迫の戦闘も、敵が川の向こうに撤退したという情報の信頼度を確かめる探索行動であって、戦争全体から見れば末端なわけです。つまり、この作品はベトナム戦争とはどういうものか、ということを説明しようとしていません。しかしその末端の戦闘で起きたことについては極限まで克明に描こうとしていることがわかります。先に述べたモチーフの対置というのもそうで、普段われわれが生活していて目につくものというのは、目立つものなのです。絶望のどん底にいるときにのんきな長調のj-popを聞くとその感じが認識の中で目立つわけです。モチーフの対置というのはこういうわけでかなり認識に対して素直な表現といえると思います。

 

他にも映像表現として、訓練所の直線的、整序的な画面の構図とか、戦場になっているベトナム市街地の、でっかい変な顔の看板もそうです。こういうものは、そういう場所、訓練所とか、異邦の敵地とかに訪れたときに、認識の中に強烈に印象付けられるものですし、そういうものの選び方のセンスがすごいのは、この監督が天才といわれる所以で、そういう細部がこれでもかというほどに、必要以上の執拗さで描かれています。

 

そうすることで、この物語はある種の普遍性を獲得します。それは取材した対象を越えて、戦争という現象一般、あるいはそれすらも越えて、われわれの普段の日常の中にある戦闘性や極限性というもの、をわれわれに想像させ、思い出させるわけです。読者が登場人物の行動に一つ一つ同意して、一緒に戦争を体験するということ、そののちに登場人物もやはりわれわれの認識に同意して、われわれの経験が映画的、映像作品的な印象を帯びる、ということは、創作作品を鑑賞することの価値の一つであるということが言えると思います。