join the にほんブログ村 小説ブログへ follow us in feedly

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳

>ニルヴァーナとは何か

生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、―それは喜ぶに足りない。

それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまること無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。

水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちから、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

とある通り、我々が普通想像する天国とか極楽とかとはだいぶ様相が異なっていて、普通想像するすごい明るくてすごい美味しいご飯があって、カワイイ彼女が100人いる、みたいな天国観は、完全なフィクションであるにもかかわらず、その受益者であり行為主体である我々という存在は、現世のそれをそのまま借りてきた構造をしていることがわかります。環境がフィクションで、自己がノンフィクションです。

 

フィクションな環境、ノンフィクションな自己

 

本書のいう天国は、まず環境がノンフィクションです、というより、環境に関してはなんらの制約も課されていません。なぜでしょう。それは

 

見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

 

天国がステキな場所だと考えた時に、その条件としてまず天国の環境がどうか、ということを考える態度は、環境がわれわれの心境に影響を与えるという前提に拠っています。われわれが問題にするのはわれわれに影響を与える環境のことだけです。例えば住む土地選びの時に、お酒が好きな人は近くに居酒屋があったり、歓楽街にすぐ出られる立地かどうか、という環境によって影響されますが、お酒を飲まない人にとってはそういう条件は意味がありません。

 

本書ではこの、環境が自己に影響を与えるかどうかの問題をさらにラジカルに推し進めて考えて、自己が影響を受けないと考えれば環境要因は不要である、と主張しています。自己が主で環境が従なわけです。

 

しかしその自己はというと、我々が一般的に考える自己とはかなり違っていて、まず、

 

愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

 

さらに、

 

世間の憂いと悲しみ、また苦しみはいろいろである。愛するものに由って、ここにこの一切)が存在しているのである。愛するものが存在しないならば、このようなことは決して有り得ないであろう。

それ故に、愛するものがいかなるかたちで決して存在しない人々は、憂いを離れていて、楽しい。それ故に、憂いの無い境地を求めるならば、命あるものどもの世に、愛するものをつくるな。

 

なのです。

 

つまりわれわれがわれわれ自己の目的と考えているものを否定しているわけです。目的のない自己はただ存在するだけで、そんな自己に楽しみも意味もないと普通は思われますが、本書ではそういう自己のありようを「楽しい」としています。このことについてはのちに考えるとして、ここまでの本書の天国観をまとめると、

 

環境には依存せず自己だけが問題

自己の知覚作用や認識作用を捨てたあとに残った感覚だけになること

 

と言えると思います。

 

>目的を捨てた自己

二番目の「自己の知覚作用や認識作用を捨てたあとに残った感覚」とはどういうものかということについてですが、これが明らかに本書のキモです。が、これは原理的に言葉で説明することはできません。ここで述べることもできませんし、原典でも述べられていません。知覚作用、認識作用を捨てたあとに残るものですので、知覚、認識の外にあるものです。この感覚は未体験なものです。というのも、体験とは知覚と認識の集積としてわれわれが記憶した出来事のうちで、多くの人が共通して記憶している出来事に名前を貼り付けたものだからです。

 

知覚認識の外にあるものも、結局知覚認識されているからわれわれが記憶することができる、とも考えられます。だから「自己の知覚作用や認識作用を捨てたあとに残った感覚」には、悟りという名前があり、その名で呼ばれる時、われわれは知覚や認識を捨てたあとに残る感覚のこと、あるいは少なくともその存在を共通して理解し、そうして悟りは体験化するわけです。

 

こうして体験化した悟りにいかほどの価値があるかというと、本書を読んでこのような気持ちになる私のような人間が知る程度の価値なわけです。これは明らかに価値の毀損です。本の感想を書いた時、ここがおもしろかったとか、ここが感慨深かったと言ってしまったとたんに、自分がその時感じた感情や感動が陳腐になってしまう感覚に似ています。以上のことが言葉による説明が原理的に不可能である理由です。

 

>ストア派

ニルヴァーナについての話は難解(というか原理的に言葉による伝達や理解に適さない)でしたが、結構ストア派箴言に見られるような人間の認識に立脚した鋭い言葉がいっぱいあってそれは普通に楽しいです。

 

>>自己

 

悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも変え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。

他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。

もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

 

やはり基本的に個人主義なんですね。

 

>>ことば

 

アトゥラよ。これは昔に言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にいなかったし、未来にもいないであろう、現在にいない。

口をつつしみ、ゆっくりと語り、心が浮わつかないで、事がらと真理とを説く修行僧――かれの説くところはやさしく甘美である。

善い教えは最上のものである、と聖者は説く。(これが第一である)。理法を語れ。理法にかなわぬことを語るな。これが第二である。好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。真実を語れ、虚偽を語るな。これが第四である。

自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。

荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。

勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。

 

言葉に関する話が散見されるというのもかなりモダンだと思います。言葉というツールが他人との意思疎通の主な手段だということを考えると孤独に対する身の処し方の話とも考えられますし、自分の思考を表現する手段だと考えると自己の認識の調整方法の話とも考えられます。非難の話とかは前者で、荒々しい言葉や怒りが苦痛で、それからの出離が即座に安らぎ、怒り罵りからの解放である、というのは非常ににストア派的です。怒り罵ることをやめても、怒り罵りの行動の同期となった感情が心の中に残っているような気がしますが、そういうものは存在しない、というわけです。

 

>>人間嫌い

 

一つの樹を伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ!束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。

警えば車夫が平坦な大道を捨てて、凹凸ある道をやって来て、車軸を毀してはげしく悲しむように、

愚かな者は、法から逸脱して、なしてはならぬことを実行して、死魔の支配に屈し、車軸を毀したように、悲しむ。

情欲にひとしい激流は存在しない。(不利な骰の目を投げたとしても)怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。

この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をもたない人は、楽しい。見よ!人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。

 

最後のやつは強烈です。

 

>>修行僧

 

正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。

天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

修行僧は堅く戒しめをたって、諸の感官をよくつつしみ、食事についてるほどよい量を知り、めざめているときには心を統一し、気をつけている。

修行僧は堅く戒めをたち、心の念いと明らかな知慧とを修養すべきである。つねに熱心に、つつしみ深くつとめはげむならば、苦しみを消滅し尽すに至るであろう。

罵らず、害わず、戒律に関してつつしみ、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。――これが仏の教えである。

心のすがたを熟知し、遠ざかり離れて住むことの味わいを明らかに知り、瞑想し、聡明であり、正しく念(おも)うている人は、世俗の汚れのない喜び・楽しみを知る。

 

スキルとか善行とかを引っ付けるのではなく、逆に全てを外して空になっていく試みであることがわかります。ミニマリズムの思想に近い部分があって、生活態度という意味では結構参考になるんですが、つまみ食いではなく本当に仕事も家族も貯金もすべて捨ててやってみるとそれはそれで面白いかもしれません、到底実行する勇気はありませんが。凡人の自分にはこれに感化されて部屋を片付けるのが精一杯です(笑)。