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『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳

>試験が終わった後の解放感

夏休みはこうなくてはならない。山々の上にはリンドウ色に青い空があった。幾週間もまぶしく暑い日が続いた。ただときおり激しい短い雷雨が来るだけだった。川はたくさんの砂岩やモミの木かげや狭い谷のあいだを流れていたが、水があたたかくなっていたので、夕方おそくなってもまだ水浴びができた。小さい町のまわりには、干草や二番刈りの草のにおいがただよっていた。細長い麦畑は黄色く金褐色になった。あちこちの小川のほとりには、白い花の咲くドクゼリのような草が、人の背ほども高く茂っていた。その花はかさのような格好で、小さい甲虫がたえずいっぱいたかっていた。その中空の茎を切ると、大小の笛ができた。森のはずれには、柔らかい毛のある、黄色い花の咲く、堂々としたビロウドマウズイカが長くきらびやかに並んでいた。ミソハギアカバナ属が、すらりとした強い茎の上でゆれながら、谷の斜面を一面に紫紅色におおうていた。モミの木の下には、高くそそり立つ赤いジギタリスが厳粛に美しく異様にはえていた。その根生葉には銀色の柔らかい毛があって幅が広く、茎が強く、萼上花は上のほうに並んでいて美しい紅色だった。そのそばにさまざまの種類のキノコがはえていた。つやのある赤いハエトリタケ、肉の厚い幅広いアワタケ、異様なバラモンジン、赤い枝の多いハハキタケ、など。それから一風かわって色のない、病的にふとっているシャクジョウソウ。森と草刈り場のあいだの雑草のはえた境のところには、強いエニシダが真っ黄色に輝いていた。それから細長い薄むらさきのミネズホウ。それからいよいよ草刈り場。そこはもう大部分二度めの草刈りを前にして、タネツケバナ、センノウ、サルビア松虫草などがはなやかにおいしげっていた。闊葉樹の林の中ではアトリがたえ間なく歌っており、モミの林ではキツネ色のリスがこずえのあいだを走っていた。道ばたや壁のそばや、かれた堀では、緑色のトカゲがあたたかさに気持ちよさそうに呼吸しながら、からだを光らしていた。草刈り場をこえてずっと向うまで、かん高い、うむことを知らぬセミの歌が響きわたった。

 

 

ハンスは糸を柳の枝ごしに水の中にたらしたまま、地面に腰をおろして、緑色の川を見た。徐々に魚が上に浮いて来た。黒い背中が順々に水面に現われた。あたたかさに誘い出され陶然として、ゆっくり泳ぐ静かな魚の群れ。水があたたかいので気持ちがいいに違いない。ハのンスは編み上げぐつをぬいで、足を水の中にたらした。水の表面はまったくなまぬるかった。彼は釣り上げた魚をながめた。魚は大きなジョウロの中にじっと浮んでいた。ときどき軽くはねるだけだった。なんと美しい魚だろう。動くごとに、白、褐色、緑、銀、つや消しの金、その他の色が、うろことひれのところに輝いた。

念願だった試験に通って、未来への希望に満ちたハンスの主観をよく表していると思います。小川のほとりの植物の描写における、「堂々とした」「厳粛に美しく異様に」、釣りのシーンにおける色とりどりの魚の描写から、いかにハンスの感覚が自然に向かって解放され、印象が鮮烈であるかがよくわかります。

 

>神学校でのロマン的経験と帰結

ふたりはたがいに顔を見あった。おそらくふたりがたがいの顔を真剣に見たのはこのときがはじめてだった。この少年らしいなめらかな表情の裏に、それぞれ特性をもった独特な人間生活と、それぞれ特徴のある独特な魂が住んでいるのを、たがいに心の中に描き出そうとした。

おもむろにヘルマン・ハイルナーは腕を伸ばして、ハンスの肩をつかまえ、たがいの顔がまぢかになるまで、ハンスを引きよせた。それからハンスは突然、相手のくちびるが自分の口に触れるのを感じて、なんともいえず驚いた。

彼の心臓は、ついぞ感じたことのない胸苦しさに鼓動した。こうして暗い寝室にいっしょにいることと、とつぜんキスされたことは、なにか冒険的な、新奇な、またおそらくは危険なことだった。この現場をつかまったら、どんなに恐ろしいことだろうと、彼は気づいた。というのは、さっきハイルナーが泣いたことより、このキスは、ほかのものたちにははるかにこっけいに恥ずべきことに思われるにちがいないということが、はっきり感ぜられたからである。なにもいえないで、ただ血が強く頭に上って来た。彼はできることなら逃げ出したかった。

友人同士のキスという、背徳的で、危険で、しかし神秘的でロマン的な経験が、ハンスにそれほど刺さっていない、というのがポイントだと思います。こんなにも「ヤバイ」体験をしながら、ハンスが考えていることは、みんなにばれて笑われたらどうしよう、というあまりに平凡な困惑であって、

 

重い監禁の罰に処せられたものは、修道院ではかなり長いあいだ、極印をおされたも同然である。ことわるまでもなく、罰せられたものはその後特別な監視を受ける。彼とつきあうことは危険であり、悪い評判を招く。国家が生徒たちに示す恩恵に対しては、当然厳格な規律をもって報いなければならない。それはすでに入学式の長い訓辞の中でいわれたことである。ハンスもそれは知っていた。彼は友情の義務と功名心との戦いに負けた。彼の理想はなんといっても、群を抜き、試験で名をあげ、一役演ずることであって、ロマン的な危険な役を演ずることではなかった。こうして彼はもだえながらすみっこにじっとしていた。まだ飛び出して勇気を示すことはできた。しかし刻一刻とそれは困難になった。そして、いつのまにか、彼の裏切りは行為になっていた。

ロマン的刹那的な英雄的行為と、社会制度に適合的な常識的な行為を天秤にかけたときに、彼は苦しみながらも後者を選択するわけです。

 

数週間にわたって、ハイルナーとその逃亡のことくらい話題にのぼったことはなかった。遠く離れ、時間がたつにつれ、みんなの判断は変ってきた。あのころは小心翼々と近よらないようにしたが、その脱走者をのちには、飛び去ったワシのように見送るものも少なくなかった。

ヘラス室には、あいた机が二つできた。あとからいなくなったほうは、先にいなくなったものほど早く忘れられはしなかった。校長だけは、二番めのほうもおとなしく身を固めてくれればいいと思っていた。しかしハイルナーは修道院の平和を乱すようなことはなにもしなかった。ハンスは待ちこがれていたが、なんのたよりもなかった。ハイルナーは立ち去ったきり、行くえ不明になった。彼の人物と逃亡とは次第に過去の語り草になり、ついに伝え話になった。

友人は超然と既存の価値観を飛び越えていき、

 

天才と教師連とのあいだには、昔から動かしがたい深いみぞがある。天才的な人間が学校で示すことは、教授たちにとっては由来禁物である。教授たちにとっては、天才というものは、教授を尊敬せず、十四の年にタバコをすいはじめ、十五で恋をし、十六で酒房に行き、禁制の本を読み、大胆な作文を書き、先生たちをときおり嘲笑的に見つめ、日誌の中で扇動者と監禁候補者をつとめる不逞の輩である。学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、十人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである。よく考えてみると、それももっともである。教師の役目は、常軌を逸した人間ではなくて、よきラテン語通、よき計算家、堅気な人間を作りあげる点にあるのだからである。しかし、だれがより多くのひどい苦しみを受けるか。先生が生徒から苦しめられるのか。あるいはその逆であるか。両者のいずれがより多く暴君であるか。両者のいずれがより多く苦しめ手であるか。他方の心と生活とをそこない汚すのは、両者のいずれであるか。それを検討すれば、だれしも苦い気持ちになり、怒りと恥じらいとをもって自分の若い時代を思い出すのである。しかし、それはわれわれの取り上ぐべきことではない。真に天才的な人間ならば、傷はたいていの場合よく癒着し、学校に屈せず、よき作品を創り、他日、死んでからは、時の隔たりの快い後光に包まれ、幾世代にかけて後世の学校の先生たちから傑作として高貴な範として引き合いに出されるような人物になる、ということをもってわれわれは慰めとするのである。こうして学校から学校へと、規則と精神とのあいだの戦いの場面は繰り返されている。そして国家と学校とが、毎日現われのて来る数人の一段と深くすぐれた精神を打ち殺し、根元から折り取ろうと、息もつかずに努めているのを、われわれはたえず見ている。しかもいつもながら、ほかならぬ学校の先生に憎まれたもの、たびたび罰せられたもの、脱走したもの、追い出されたものが、のちにわれわれの国民の宝を富ますものとなるのである。しかし、内心の反抗のうちにみずからをすりへらして、破滅するものも少なくない――その数がどのくらいあるか、だれが知ろう?

解説で、ハンスの友人になるハイルナーは、作者であるハイルナーの半身としてデザインされているという記述があります。自然と釣りを愛する主人公ハンスと、文学と詩を愛するハイルナーは、ともに作者のペルソナであるということだと思います。作者自身社会界からの拒絶と絶望を経験していて、才能によって救われた、という感覚があるのではないかと感じました。だからこそ自信を救った才能を表すキャラクターと、救われた側の感覚を表すキャラクターを創り、その別離とその後を描くことで、自身の才能の外にある感覚の意味を問おうとしたのではないでしょうか。

本作ではハンスは半身であるハイルナーと極めて不都合な関係性におちいります。すなわち、全く感化されて通じ合うわけではないが、いつまでもその影響下から抜け切れず、普通の社会生活にも戻っていけない状態になるわけです。ハイルナーについて行くか、あるいはリスペクトして社会制度からの逃亡という同じ道をたどるかすれば、この物語は救われなかった物語にはならなかったことでしょう。ハイルナーと分かちがたく結びついていながら、完全に反社会側に身を置くことに躊躇し、かといって無理にでも社会制度の方に戻っていくわけでもないというどっちつかずな態度が彼を徐々に追い込んでいくことになりました。

 

「それじゃ、よくわからないね、きみ。やはりどこかいけないところがあるはずだ。ちゃんと努力することを約束してくれるかい?」

ハンスは校長が差し出した右手に自分の手をのせた。先生は彼をよそ行きの優しさでじろじろ見ていた。

「それじゃ結構だ。疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと、車輪の下じきになるからね」

タイトルにもなっている「車輪の下」というフレーズは、文脈から現代社会のレールから落伍した人間のの末路を嘲笑的に表した言葉だと知れます。

 

>車輪の下の雑多な世界

この苦しみと孤独の中にあって、別な幽霊が偽りの慰め手として病める少年に近づき、しだいに彼と親しみ、彼にとって離れがたいものとなった。それは死の思いだった。銃器でも手に入れるか、どこか森の中に綱の環でもつるすかすることは容易だった。ほとんど毎日のようにそういう考えが、散歩する彼につきまとってきた。彼は、離れた静かな小さい場所をさがし、とうとう快く死ねそうな場所を見つけた。そこを彼はいよいよ死に場所ときめた。繰り返しその場所をおとずれ、腰をおろしては、近いうち、いつかここに死んでいるところを見つけられるだろうと空想することに、彼は不思議な喜びを感じた。なわをつるすための枝もきめたし、その強さもためした。じゃまになる障害はなにもなかった。ぽつりぽつり、父あての短い手紙と、ヘルマン・ハイルナーあての非常に長い手紙とを書いた。この二通の手紙は死体のそばに発見されることになるはずだった。

静かで深い絶望が読み取れます。本作の教師や親族の言葉から、車輪の下に落ち込んだ人間にとって慰めになるようなものはありません。救われなかった半身の物語であるという作品の性質上、また現代ほどダイバーシティに寛容でない当時の時代性からもそれはそうだと思います。

 

昔は彼女を見るたびに独特な甘いあたたかい言いようのない気持ちになったかを思い出すと、悲しく感じられた。総じて――そのころは万事が違っていた。ずっと美しく、ずっと愉快で、ずっと生き生きとしていた。久しいあいだ彼はラテン語や歴史やギリシャ語や試験や神学校や頭痛のことしか知らなかった。だが、あのころは、おとぎ話の本や盗賊の話を書いた本があった。あのころは、小さい庭で手製のきねつき水車がまわっていた。夕方はナショルトの家のかどぐちの道のところでリーゼの冒険的な話をいっしょに聞いたものだった。それからしばらくのあいだガリバルディーと呼ばれていた隣の老人のグロースヨハンを強盗殺人犯人と見なし、その夢を見たりした。それから一年じゅう毎月なにかしら楽しみがあった。刈り草ほしとか、ウマのゴヤシ刈りとか、最初の魚釣りや川エビ捕りとか、ホップ取り入れとか、スモモ落しとか、ジャガイモの茎や葉を焼く火とか、麦打ちの始まりとか、そしてそのあいだになお番外にうれしい日曜や祭日が楽しく待たれた。あのころはそのほかに、不思議な魅力で彼をひきつけるものがたくさんあった。家や小路や階段や穀倉の土間や井戸やかきねやさまざまの人間や動物を、彼は愛しなじんでいた。あるいはそれらのものはなんともいえない力で彼を誘った。ホップを摘むときは彼も手伝い、大きい娘たちが歌うのに耳を傾けた。そしてその歌の中の文句を覚えた。たいていのはふきだすほどおどけた文句だったが、中には、聞いていると、のどがつまるほど、きわだって悲しいのもいくつかあった。

ハンスは明るい広いゲルバー小路から暗いしめっぽい「タカ」小路にはいるごとに、愉快なような恐ろしいような胸苦しさ、好奇心と恐怖とやましさと冒険的なうれしい胸さわぎとのまじった気持ちに、異様なむっとする気配をもって襲われるのだった。「タカ」小路は、おとぎ話とか奇跡とか、未聞の恐ろしいものが現われうる唯一の場所だった。また魔法とか妖怪変化とかいうもののありえそうな信ぜられそうな唯一の場所だった。そこにいくと、伝説や人聞きの悪いロイトリング通俗本を読むときのような苦しくも甘い身ぶるいを感ずることができた。先生に没収されたロイトリングの通俗本には、ゾンネンヴィルトレとか、皮はぎハンネスとか、あいくちカトレとか、ポストミヒェルとか、同じようなやみの英雄や重罪人や命知らずたちの罪業や処罰のことが書いてあったのだが。

社会制度の側から見ればこれらのものは意味のないもの、秩序を乱す悪いものと評価されるものです。そういったものが「生き生きしている」というのは思い当たる節のある感覚です。物事の価値を決める基準はなにかということについては別の機会に書くとして、ここで言われていることは、そういう他人から見るととるに足らないものが、誰かの心を惹くことがあって、ハンスが「車輪の下」であるとして縁を切っていたものが、現在置かれている状況に伴って思い出されたということです。

 

下手の水車場ではくつ屋のフライクも小さい圧搾機を借りて、ハンスを果汁絞りに呼んだ。水車場の前庭には、大小の搾汁機、車、果実をいっぱいつめたかごや袋、手おけ、つるし綱付きのおけ、たらい、たる、山のような褐色の絞りかす、木のてこ、手押し車、からっぽな運搬具などがあった。搾汁機は動き、ぎしぎしきいきいと音をたて、うめいたり震え声を出したりした。たいていの搾汁機には緑色のワニスが塗ってあった。その緑色が、絞りかすの黄褐色や、リンゴかごの色や、淡緑の川や、はだしの子どもたちや、澄んだ秋の日とともに、喜びと生の快感と充満との誘惑的な印象を、見るものすべてに与えた。つぶされたリンゴのきしめきは、すっぱい、食欲を刺激するような響きを発した。近よってその音を聞くものは、さっそく一つのリンゴを手にとってかじりつかずにはいられなかった。管の中から太い帯状に、甘い若々しい果汁が赤黄色に日を浴びて笑いながら流れた。そこへやって来て、それを見たものは、一杯を所望して、さっそく味わってみずにはいられない。そして立ちどまって、目をうるませ、甘い快い流れがからだじゅうに流れるのを感じた。すると、この甘い果汁は楽しい強い甘美なかおりをもってそこらじゅう遠くまで空中にあふれるのだった。このかおりは成熟と収穫の精髄で、まったく一年じゅうの最も美しいものだった。近づく冬を前にして、そのかおりを吸いこむのは好ましいことだった。それを吸うと、人々は感謝の念をもって、たくさんのよいすばらしいもの、たとえば、穏やかな五月の雨、ざあっと降る夏の雨、冷たい秋の朝露、やさしい春の日ざし、輝く暑い夏の灼熱、白くまた真紅に輝く花、収穫前の果樹の熟した赤褐色の光沢、それからそのあいだに四季の移り変りに伴って来るさまざまの美しいもの、喜ばしいものを思い出すのである。

エンマの様子も変った。彼はもはや彼女の顔を見なかった。―――楽しげな黒い目と、赤い口と、その中の白いとがった歯とだけしか見えなかった。彼女の姿も溶けてしまった。見えるのは一つ一つの部分だけだった。――黒いくつしたと半ぐつ、首筋の縮れたおくれ毛、青い布の中に消えている日にやけた丸い首、引きしまった肩、その下に大きく波打っている呼吸、赤味をおびて透きとおっている耳などが、ばらばらに目に映った。

祝祭や恋や、

 

ハンスは自分の手がもうすっかり黒くなったのを見て愉快に感じた。ほかの人のつぎのあたった黒い仕事着に比べて、いまはまだおかしいほど新しく青く見える自分の服も、まもなく使い古されたようになってくれれば、いいと思った。午前の時間が進むにつれ、外部からも仕事に活気が加わってきた。近所の機械編み物工から、小さい機械の部分をみがいたり修繕したりしてもらいに労働者がやって来た。それから百姓が来て、直しにあずけてある洗濯用挾布機は、とたずねた。まだできていない、と聞くと、口ぎたなくののしった。つぎには上品な工場主が来た。親方は隣室で商談をした。

そのあいだも人間たちと車輪とベルトは同じ調子で働き続けた。こうしてハンスは生れてはじめて労働の賛歌を聞き、味わった。それは少なくとも新参者にとっても、心をとらえ快く酔わせるものを持っていた。彼は、自分というささやかな人間と、自分のささやかな生活とが、大きなリズムに接合されたのを感じた。

ハンスは美しい日ざしを受けて小路をぶらぶら歩いていると、数カ月ぶりではじめてまた日曜の喜びを味わった。仕事日に手を黒くし、五体を疲れさして働くと、日曜日には往来も改まった感じがし、太陽も一段とのどかで、すべてが晴れやかに美しかった。いま彼には、家の前の日なたのベンチに腰かけてさっそうと朗らかな顔をしている肉屋や、皮なめし民,パン屋や、鍛冶屋の気持ちがわかった。彼はもうけっして彼らをあわれむべき職人ふぜいなどという目では見なかった。彼は、労働者や職人や徒弟が帽子を少し斜めにかぶり、シャツのえりも白く、晴れ着にはよくブラッシをかけて、列を作って散歩したり、料理店にはいったりするのを見送った。必ずというわけではないが、たいてい、さしもの師はさしもの師同士、左官左官同士、というふうに、職人同士いっしょになって、めいめいの職業の名誉を守っていた。その中でも錠前屋はいちばん高尚な同業で、その第一位は機械工だった。そうしたことのいっさいが、あるなつかしいものを持っていた。その中には多少幼稚でこっけいな点も少なくはなかったが、職人仕事の美しさと誇りとがひそんでいた。それは今日なおある喜ばしいもの、たのもしいものを表わしており、微々たる仕立て屋の徒弟でさえ、工場の労働者や商人の持っていない美しさと誇りとの一片を持っている。

勤労と休息、団結、これら雑多で、生き生きしたものが車輪の下なのであって、「彼はもうけっして彼らをあわれむべき職人ふぜいなどという目では見なかった」わけです。この気づきは成長そのものだと思います。車輪の下の様々の事象にくらべて、神学校時代の競争のなかでの優位性がいかにわれわれの目に取るに足らないものとして映るか、ということでも両者の普遍性の違いが判ります。

 

>ハンスの死の意味

そのころ、そんなに脅かされていたハンスは、もう冷たく静かにゆっくりと暗い川の中を下手に流れていた。吐き気も恥も悩みも彼から取り去られた。暗やみを流れて行く彼の虚弱なからだを、冷たい青みがかった秋の夜が見おろしていた。彼の手や髪や青ざめたくちびるを黒い水がもてあそんだ。夜明け前に獲物をとりに出る臆病なカワウソが、ずるそうに横目を使って、音もなくすべり去って行くのでもなかったら、だれもハンスを見るものはなかった。どうして彼が水の中に落ちこんだか、だれも知らなかった。たぶん道をまちがえて、けわしい場所で足をすべらしたのだろう。あるいは、水を飲もうとして、平衡を失ったのかもしれない。あるいは、美しい水を見て引き寄せられ、その上にかがんだのかもしれない。そして、平和と深い休息とに満ちた夜と月の青白い光が彼のほうをじっと見たので、彼は疲労と不安のためずるずると死の影に引き込まれたのかもしれない。

先に述べたように、本作は救われなかった感覚の物語だと思います。現代社会に拒絶され絶望したのちに、創作によって救われた体験を持つ作者が、絶望を宿命づけられた主人公の物語を書いているのであり、その意味でハンスの死にはある種の必然性があると思います。ハンスが自ら死を選んだのか、事故で死んだのかは明らかにされていませんが、これは、どちらの未来もありえたという意味だと思いました。才能にすくわれなかった感覚のうち、あるものは絶望して死を選んだが、あるものは立ち直って生きていくわけですが、ハンスの死に両方の可能性を持たせることで、ハンスという人物が普遍性を帯びることになります。

この死を目の当たりにしたときに読者が受ける印象はどうでしょうか。私はハンスが垣間見た雑多で生命力にあふれた車輪の下の社会が懐かしさを伴うことで輝きを増したと思いました。それがこの死の意図なのではないでしょうか。新しい未知の世界は人の心を惹くものです。しかし、その世界に入ってしばらくすると、それが普通になって、次の新しい世界を夢見るようになります。新しい世界にすでに入った人にとっては、旧い世界もまた心を惹くものです。こういう感覚はそれぞれ、期待、憧憬、郷愁という美しい名前があります。

ところで古い世界を抜け出して新しい世界で一からやっていくことは非常にエネルギーのいることですので、普通の人はそう何度もチャレンジできません。いつまでも夢ばかり見て転職を繰り返してもどうにもならないわけです。多くの人は新しい世界を夢見ながら古い慣れ親しんだ世界にとどまっているというのが、本当のところだと思います。こういう人たちにとって死の瞬間というのは、必然的に訪れる旧世界との別離、新世界への旅であり、別離を目前にして改めて、いままで慣れ親しんだパッとしない日常が懐かしい世界として光を放つときなのです。

だからハンスの死は、ハンスが一瞬垣間見た「車輪の下」を彼の認識の中で新しくかつ古い世界にするための舞台装置だったということができると思います。