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『にんじん』ジュール・ルナール著、窪田般彌訳

三人兄弟の末っ子「にんじん」の上手くいかない日々を描いた作品です。

>ブラックユーモアの嵐

ニンジンの上手くいかなさが本作の見どころの一つであることは明らかだと思います。

また別の晩には、うまいぐあいに、街角の車よけの石から、ほどよくはなれたところにいる夢を見た。それで、かれはまったく無心のうちに、ぐっすり眠ったまま、シーツの中にしてしまったのである。かれは、はっと目を覚ます。

驚いたことには、自分のそばには、石などありはしない!

 

ところで、若き狩人が名声を確立するには、山しぎを一羽仕止めなければならない。だから、今夕こそは、にんじんの生涯にとって、特筆大書されるべき日とならなければならない。

夕ぐれは、周知の通り人をあざむく。事物はすべて、その輪郭を煙のように揺れ動かす。一ぴきの蚊の飛び立ちも、雷鳴の接近と同じように心を乱す。それゆえ、にんじんは胸をときめかして、早くその時がくればいいと待ちこがれる。

…略…

かれらは、ピイ、ピイ、ピイと鳴いている。しかし、その鳴き声は、あまりに微弱なので、にんじんは、かれらが自分の方にほんとに来てくれるのかと、不安になる。かれの目は激しく動き回る。と、かれの目に、頭上を通り過ぎていく二つの影が映る。かれは、銃尾を下腹に押しあて、空に向かって、当て推量で発砲する。

二羽の山しぎのうち一羽が、嘴を先頭にして、落下してくる。こだまが、森の四すみに、すさまじい爆音をまき散らす。

にんじんは、羽の折れた山しぎを拾い上げ、大威張りでそれを振り回し、火薬の臭いを大きく吸い込む。

ピラムが、ルピック氏に先んじて、駆け寄ってくる。ルピック氏は、ふだんより、もたもたしているのでもない。といって、急いでいるのでもない。

ーーーお父さんは来てくれないんだろう、と、賛辞を受けるばかりにしているにんじんは思う。しかし、ルピック氏は、木枝をかき分け、姿を見せる。そして、静かな声で、まだ興奮の湯気を立てている息子にむかっていう。

ーーーいったい、なぜ二匹とも仕止めてしまわなかったんだ?

 

シーンの配置とリズムの緩急による意味的、音韻的な落差が芸術的です。訳者の腕の問題も多分にあるとおもいます。しかし解説で指摘されている通り、それだけで終わらないのが興味深い所です。

 

>残酷行為

解説にて、本書は残酷物語である、との指摘がなされています。確かにその通りで、最も直感的にわかりやすいのが解説でも指摘されている小動物に対する虐待の描写です。またこちらも解説で指摘されていますが、寄宿学校の室監を解雇させるシーンは鬼気迫るいいシーンで、

 

みんなの眼差しが、監禁室の鉄格子のはまった小さな窓のほうに昇っていく。にんじんの、下劣で野蛮な顔があらわれる。かれは顰めっ面をする。檻に入れられた小さな獣といった感じだ。髪の毛が目を覆い、白い歯をすっかりむきだしにしている。右手を、噛みつきそうな窓ガラスの残骸のなかに、さっと突っ込み、血まみれな拳を振り上げて、ヴィオローヌを脅迫する。

ーーーばか小僧!と、室監は答える。これで満足か!

ーーーなんだって!と、にんじんは叫ぶ。そして同時に、元気いっぱいに、また別の窓ガラスをぶちこわす。

ーーーなぜあいつにキスするんだい。どうして、ぼくにはキスしないんだ。ぼくによ。

それから、かれは、切れた手から流れ落ちる血を顔に塗りたくりながら、さらに付け足してどなる。

ーーーぼくだって、その気になりゃ、頬っぺたぐらい赤くなるぞ。

 

にんじんは室監と生徒の一人が「怪しい関係」であると告げ口して解雇されるように仕向けるのですが、その生徒というのが紅顔の美少年である、という事情があります。

主人公のにんじんには全く美化された形跡がなく、下劣で野蛮なにんじんが、血を顔に塗りたくり、自分と紅顔の美少年を比較するわけですから、ビジュアル的にも構図的にも、汚くて悪いにんじんが状況を台無しにしたということがはっきりします。またこの狂騒が無意味なものだという感覚、読む者の虚無感が起こってくるというのが示唆的で、状況から離れてみるとこのようなアプローチで愛を得ようとするのがいかに無意味か、ということはすぐにわかるのですが、渦中のにんじんにはそのことはわからないわけです。にんじんのこの時の感情を示す表現は、これだけの激しい状況の中にいながら、意外に少ないことがわかります。この場にあるのは狂騒だけで、にんじん自身、自分の怒りを持て余し、迷っているのではないかと感じました。後から考えるとなぜあんなことをしたのだろう、と疑問に思うようなことも、狂騒と怒りの中でやってしまう、みたいなことはわれわれにとってもよくあることだと思います。そういう狂騒を上手く切り取ったシーンだと思います。

 

にんじん「おまえ、ほんとに誓うね、教えたら、ぼくの望みどおりのところをさわらせるね。」

マチルド「お母さんが、やたらに誓ったりしちゃいけないって。」

にんじん「そんなら教えてやらないさ。」

マチルド「そんなことば、どうだっていいわよ。もうわかったわ、わたし、もうちゃんとわかったのよ。」

にんじんは我慢ができなくなって、ことを急ぐ。

にんじん「おい、マチルド、おまえなんかに、なにもわかってるもんか。でも、おまえがぜったいに誓うっていうなら、ぼく、いってもいいよ。お父さんが金庫を開けるときにいう言葉はね、「アホッタレ」っていうんだ。さあ、もうどこにさわってもいいね。」

マチルド「アホッタレ!アホッタレ!」

と、マチルドは、ある秘密を知った喜びと、それがぜんぜんでたらめじゃないのかという危惧とを抱きながら、後すざりしていう。

マチルド「ほんと、あたしをだましてるんじゃないわね?」

すると、にんじんが、返事もしないで、決然として、手を差し出しながら進み出てくるので、彼女は逃げ出す。にんじんの耳には、彼女の乾いたような不快な笑い声がはいってくる。

彼女が見えなくなってしまうと、後から、誰かの冷やかす声が聞こえる。

かれはふりむく。馬小屋の天窓から、お屋敷の下男が顔をのぞかせ、歯をむきだしている。

みたぞ、にんじん、と、かれは叫ぶ。おふくろに、ぶちまけてやるぞ。

こういう早熟な性や性倒錯が、幼少期の愛情の不在によって引き起こされることがあるというのは、なんとなく理解できると思います。しかし、さきの怒りや衝動にしても、この性的欲求にしても、普通の人間の日常にあるものです。

これら普通の感情が本作においては異常な結果を生む理由は、にんじんのそれが不幸な生い立ちのせいで我々のそれに比べて十分強くなったからでしょうか。私はそうは思いません。

解説にもこうあります。

 

小説「にんじん」は、異常な性格の母子の憎みあわざるをえない悲劇では、断じてない。愛情を伝える舌と口の使い方を、つまり表現を、心得ない人間同士の悲劇だ。奥深い心の内側から出てくる愛の声と行動を、憎しみと取り違えてしまう人間同士の喜劇だ。閉ざされた農村の家庭という小さな共同体の中で、共同体の権力の象徴である父親と、愛の象徴である母親との、それぞれに分極した二つの巨大な力に脅かされ抑圧されたが故に、一層それを激しく求める子供の、恐ろしい心情の嵐のドラマだ。そして、大人とは、そういう子供がそのまま大きくなったものではなかろうか。それなら、これは何も「異常な」ことがらではない。

 

愛される経験の不在は、知識や気づきの欠如なんだと思います。自分の中の怒りや性欲のような御し難い感情をどうするか、親がどうしているか、まさに舌と口の使い方なわけですが、そういう方法論の一面を体験的に知ることが親から愛されるということなんだと思います。

ところで、そういう方法論の今一方の面は、自ら人を愛することだと思います。本書のにんじんのやや戯画化された失敗、愛されたくてサークルをクラッシュしたり、ことを急いで女の子に逃げられたり、というのは、まさに、この方法論の練習であり実践であるのだと思いますし、にんじんに限らず、我々はみんなそうやって前に進んでいるから、このコメディが心に効くんだと思います。

 

>自然への没入

解説を読むまで意味が分からなかったのですが、本作にはにんじんの心象風景を切り取っただけの章がいくつもあります。

 

今はからっぽだが、これまで、入れ替わり立ち替わり、鶏、うさぎ、豚が暮らしたこの小さな住居は、休暇中には、一切の所有権がにんじんにある。かれはそこに気楽に入っていく。小屋にはもう戸がないからである。ひょろ長いいらくさの茂みが入り口をかくしているので、にんじんが腹ばいになってこのいらくさを眺めてみると、それは森のように見える。細かな埃に地面は覆われている。壁の石はしっとりとして光っている。にんじんの髪は、天井に軽く触れる。そこは、まさしくかれの家だ。かさばった玩具なんかどうだっていい、そこにいて空想にふけってさえいれば楽しい。

…略…

突如、警報が発せられる。

呼ぶ声が次第に近づいてくる。足音が聞こえる。

ーーーにんじんはどこ?にんじん!

頭がかがむ。にんじんは、小さな球のように丸くちぢこまり、地面と壁の間に入りこむ。息を殺し、口を大きく開け、視線を動かしもしない。そして、誰かの目が闇を探っているのを感じる。

ーーーにんじん、おまえそこにいるのかい?

こめかみをびくびくさせ、じっと耐え忍ぶ。もう少しで、断末魔の叫びをあげそうだ。

ーーーいないんだね、あの畜生は。いったいどこに行っちまったんだろう?

足音が遠のく。すると、にんじんのからだは、少しばかりのびのびとし、再びくつろぎを取り戻す。

かれの思いは、また沈黙の長い路を走り回る。

 

にんじんは、もう久しく前から、夢見るように、大きなポプラの、一番てっぺんの葉を見つめている。かれは、とりとめのない夢想にふけっている。そして、木の葉が揺れ動くのを待っている。

…略…

それは、警報の伝達である。というのは、地平線のかなたには、褐色をした球帽の縁が見えているからだ。

…略…

一段と低いところでは、ずんぐりとしたリンゴの木が、リンゴの実を揺り動かし、鈍い音をさせて地面を叩いている。

さらに低いところでは、すぐりの木が、赤い血のしたたりを、黒すぐりが、インク色の黒い血のしたたりを流している。

そして、さらにさらに低いところでは、酔っ払ったキャベツが、ロバのような耳を振り立て、血の登った葱が互いにぶつかり合い、種で膨れ上がった丸い実を潰している。

なぜなのだ?いったいこれは何事なのだ?どういうことなのだ?雷は鳴っていない。雹も降っていない。稲光りもしなければ、一滴の雨も降っていない。だが、あの天上の嵐を呼ぶ暗さが、真昼に静かに訪れた闇が、彼らの気を狂わせ、にんじんを怯えさせているのだ。

今や、例の球帽は、隠れた太陽のもとに、完全に伸び拡がった。それは動いている。にんじんにはそれがわかる。滑るように流れていく。浮雲なのだ。やがてそれは、遠くに逃げ去ってしまうだろう。そして、また太陽が見られよう。だが、球帽は、空いっぱいに天井を張り巡らしてしまったが、にんじんの顔を、なお真正面から押しつけてくる。かれは目を閉じる。すると球帽は、いたましくも、かれの瞼に目隠ししてしまう。かれの方は、両耳に指を突っ込む。しかし嵐は、叫び声をあげ、旋風を巻き起こして、外から、かれの家の中に入ってくる。それは、街の紙切れを巻き上げるように、かれの心臓を捉える。

そして、それを揉み、皺だらけにし、丸め、こなごなにしてしまう。

やがて、にんじんは、自分の心臓が、もはや小さな球でしかないような気がしてくる。

 

こういうシーンについて、解説にはこうあります。

 

敏感な心を持った家族の一員であればあるほど、その圧迫感に息がつけなくなる。その苦しさから逃れる道は、閉ざされた社会である田舎の村の生活にあっては、弱い家族のものへの、あるいは、家族のものより弱い動物への、嗜虐的な残酷行為、もしくは、人間がいない自然世界への没入と放心、これ以外には、残されていないであろう。

疲労の極にあるときや、何か心の平穏が著しく乱されたときなどに、自分の考えがまとまらなくなったという経験があります。にんじんの放心にはそういう種類のとりとめのなさ、思考が崩壊しつつある様を見ることができると思います。同じ自然を見ても、見方によってはそこに偉大なものや美を見出すこともできるでしょうが、他者や客体は自分を映す鏡であって、いつも脅かされ飢えているにんじんにとっては、世界はまとまりや統合を欠く混沌としたものであることがわかります。

 

みみずは汚くないよ。みみずってやつは、この世でもっとも清潔なものだ。あいつは土しか食べないんだ。だから、押しつぶしてみるがいい、土しか吐き出さないから。わしなんか、食っちまうからな。

じゃ、ぼくの分もおじさんにゆずるよ。食べてごらん。

こいつは少し大きいな。まず火であぶらなきゃだめだ。それから、パンに塗りつけるんだ。だけど、小さいやつなら、たとえばだな、すももについているようなやつなら、生のまんま食べちまうよ。

うん、そのことは知ってるよ。だから、ぼくの家のひとにおじさんは嫌われるんだよ。お母さんには特に嫌がられているんだ。おじさんのことを思うと、とたんに胸が悪くなるんだってさ。

 

にんじんと仲良しのおじいさんとのシーンも、ただ心温まるだけのものではないのが興味深いです。おじいさんには変な癖があって、ミミズを食べる、というのはその最たるものです。仲良しがいるということは幸福なことですが、家族の愛を渇望するにんじんにとって、家族から嫌われているおじいさんと仲良しで、同族であるという事実は、ある種の諦念をもたらすのではないでしょうか。

どのシーンもにんじんの目を通した世界を描くことで、その雑多さの中ににんじん的なものの見方、考え方を表現することに成功している点が素晴らしいと思います。