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『浮雲』 著:二葉亭四迷

>かなり独特な文体

に最初驚きました。こういう口語そのままの語彙やリズムをそのまま残す表現方法は小説というより落語に近いと感じました。と思っていたら、本作執筆前に二葉亭四迷は先輩の坪内逍遥に落語みたいに書いてみたら、とアドバイスされていたというエピソードがウィキペディアに載ってました。

 

私は本を読んでいるときにわからない言葉が出てくるとネットで調べるのですが、本作に出てくる言葉をネットで調べると、解説についている例文がほとんど本作からの引用でビックリしました(笑)。そのくらい文体は独特です。

 

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>人間は社会に立つには卑賤でなければならないのか

あとがきに興味深いトピックがありました。

文三は他に能はないにしろとにかく高潔な青年である。この点で彼は卑賤な昇に数等優る人物であることは間違いない。だが実社会の生活ではなぜ文三は昇に敗れるのか。人間は社会に立つには卑賤でなければならぬのか。二葉亭が『浮雲』に提示した根本の疑問は以上のようなものであった。これは単純な疑問である。だがこれを幼稚と嗤い得るのはそれについて一度もまじめに考えたことのない人々だけであろう。なぜならこれは、単純であると同時に、僕らが人生にまたは社会全体に向かって発し得る、最も深い疑問の一つであるからだ。

浮雲』を読み終わった後、目をあげて周囲をながめてみたまえ。文三も昇もなお形を変えて、現代に生きる僕たちの身辺に、またさらに進んで言えば、僕らの心の内部に厳として実在するのである。

>>高潔さのキャラメイク

文三が、当時の一般的な高潔の趣旨に沿ったキャラとしてメイキングされたであろうことはよく分かります。

「ダガ思い切れない……どうあっても思い切れない……お勢さん、あなたは御自身が潔白だからこんなことを言ってもおわかりがないかもしれんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮れからまる半歳、その者のために感情を支配せられて、寝ても覚めても忘らればこそ、死ぬよりつらいおもいをしていても、先では少しもくんでくれない。むしろつれなくされたならば、また思い切りようもあろうけれども……」

トすこし声をかすませて

「なまじい力に思うの親友だのと言われて見れば私は……どうも……どうあっても思い……」

「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっとごらんなさいョ。」

庭の一隅に栽え込んだ十竿(ともと)ばかりの繊竹(なよたけ)の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳(かげ)だもない、蒼空一面にてりわたる清光素色(せいこうそしょく)、ただ亭々皎々(ていていこうこう)として雫もしたたるばかり。始めは隣家の隔ての竹垣にさえぎられて庭を半ばよりはい初め、中頃は縁側へ上って座敷にはい込み、稗蒔(ひえまき)の水に流れては金瀲灔(きんれんえん)、簷馬(ふうりん)の玻璃(はり)に透(とお)りては玉玲瓏(ぎょくれいろう)、座賞にの人に影を添えては孤燈一穂(ことういっすい)の光を奪い、ついに間(あわい)の壁へはい上がる。

友達以上、恋人未満の二人の時間を切り取る極上の情景描写が、読者の感情移入を一層劇的なものにしている箇所ですが、同時に二人の高潔さもよく表していると思います。

どうも気にかかる、お勢のことが気にかかる。こんな区々たることは苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気にかかってならぬ。

およそ相愛する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、またしようとてできるものでもないゆえに、一方(かたかた)の心が歓ぶ時には他方(かたかた)の心も共に歓び、一方の心が悲しむ時には他方の心も共に悲しみ、一方の心が楽しむ時には他方の心も共に楽しみ、一方の心が苦しむ時には他方の心も共に苦しみ、嬉笑(きしょう)にも相感じ怒罵にも相感じ、愉快適悦、不平煩悶にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚び起こして決して齟齬し扞格(かんかく)する者でないと今日が日まで文三は思っていたに、今文三の痛痒をお勢の感ぜぬのはどうしたものだろう。

こういう恋に奥手で、やや幼い観念も、高潔さ、無垢さを意味するキャラクターに相応しいと思います。独りよがりな理想に現実が付いて来ず、破れた恋を捨てきれないこういう経験は、誰しも若かりし日に心当たりがあるのではないでしょうか。

また、文三が免職の憂き目にあうのも、佞臣タイプの人間を好んで身辺に置く課長の定見のなさによるところが大きいと推測できる描かれ方をされています。この設定のなにが真相に迫っているかというと、自分の考える美しさと社会の考えるそれの不一致によって苦しめられるという経験が、読む人々にとって普遍を含むという点だと思います。結局みんなの悩みというのは、個人差こそあれ身贔屓で自分を文三の高潔さに一致させて他者と自分の間に対立構造を持ち込むことに尽きるのだと思います。

>>高潔さの今昔

そしてさらに面白いのが、高潔な人物としてメイキングされた文三の価値基準が、現在の読者のそれと乖離をきたしているという事実だと思います。例えば、文三は園田の家に居候していますが、今の時代だと一人暮らしをしている方が社会人の自立の像に近いのではないでしょうか。特に

「それは御親切……ありがたいが……」

ト言いかけて文三は黙してしまった。迷惑はかくしてもかくし切れない、自(おのず)から顔色(がんしょく)に現れている。モジつく文三の光景(ようす)を視て、昇ははやくもそれと悟ったか、

「いやかネ、ナニいやなものを無理に頼んで周旋しようというんじゃないから。そりゃどうも君のご随意サ、ダガシカシ……痩せ我慢なら大抵にして置く方がよかろうぜ」

文三は血相を変えた……

…(略)…

「モウそ…それっきりかネ」

ト覚えず取りはずしていって、われながらわが音声の変わっているのにびっくりした。

「何が。」

またやられた。蒼ざめた顔をサッとあからめて文三

「用事は……」

「ナニ用事……ウー用事か、用事というからわからない……さよう、これっきりだ」

モウ席にも堪えかねる。黙礼するやいなや文三が蹶然(けつぜん)起ち上がって坐敷を出て二、三歩すると、後ろのほうでドッと口をそろえて高笑いをする声がした。

園田の家で冷遇されている文三の居辛さは本作の読みどころの一つだと思いますが、こういう状況ではよりその感が強く、一人暮らしをしないというこだわりがピンと来ません。

また園田の家にはお鍋というお手伝いがいて、彼女が家事を担当しています。専属のメイドがいれば家事を任せるのは合理的ですが、自分の衣食住のことを自分でしていない人、というのが高潔さと結びつきにくいです。そういう自分の暮らしに関する基本的なことを自分でする、できるというのが私にとっては意外と価値基準の上位に座を占めていると言えます。こういうところも書かれた当時と現代の感覚のズレの所産だと思います。

つまり当時不特定多数に支持されていた美の基準が、時を経てズレてきて、高潔さの象徴だったキャラクターが家父長制を奉ずる頑迷な小暴君のような印象になっています。ここに自分の高潔さを堅持して社会と対立するということの矮小さの一端があると思います。我々が美と考える様々な観念はどれも今回の文三のような経年劣化を示す可能性を持っています。例えば先に述べたように、自分で料理ができる男性はカッコイイ、という現代では割と受け入れられている価値観も、数十年後には、ご飯ができるのを茶の間でどっしり待っているのが男性の強さの象徴である、という価値観に取って代わられるみたいなこともあり得るということです。

ここで逆に昇のような佞臣タイプのキャラクターの行動原理を考えてみますと、その基本方針は長いものには巻かれる、ということだと思います。彼は別に、長いものに巻かれることに至高の価値を置いている、というわけではなく、至高の価値を持たない人物なのだと思います。至高の価値を持たないから他人の考える至高の価値に簡単に同意できるのだと思います。先に見たとおり、社会の支持する至高の価値が時とともに移ろうということを踏まえると、こういう昇のようなキャラクターのリアリストな側面が見えてきます。文三が高潔で昇が卑賤であるように、とくに当事者にとって、見えるのは、人間が犯しがちな誤謬であって、本作のように遠い未来から、あるいは状況の外から、置かれている状況を眺めてみる、ということが身を焼かれながらもその場で我慢し続ける文三のような生き方を回避することに役立つかもしれないと思います。