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『かもめ・ワーニャ伯父さん』チェーホフ著、神西清訳

■ワーニャ伯父さん

本作の主人公、ワーニャ伯父さんの不平不満が読みどころだと思います。亡き妹の夫であり大学教授「セレブリャコーフ」に経済的援助をしながら、教授への尊敬はとうに失せてしまって、

 

まる二十五年の間、やれ芸術だの、やれ文学だのと、書いたり説教したりしてきた男が、そのじつ文学も芸術も、からっきしわかっちゃいないという事実だ。やっこさん二十五年のあいだ、やれリアリズムだ、やれナチュラリズムだ、やれくしゃくしゃイズムだと人様の考えを受け売りしてきただけの話さ。二十五年のあいだ、あいつが喋ったり書いたりしてきたことは、利口な人間にはとうの昔から分かりきったこと、ばかな人間にはクソ面白くもないことなんで、つまり二十五年という歳月は夢幻泡沫に等しかったわけなのさ。だのに、やつの自惚れようはどうだい。あの思い上がりようはどうだい。こんど停年でやめてみれば、あいつのことなんか、世間じゃ誰ひとり覚えちゃいない。名もなにもありゃしない。つまりさ、二十五年のあいだ、まんまと人さまの椅子に坐っていたわけだ。ところが見たまえ、あいつはまるで、生き神さまみたいに、そっくり返っていやがる。

 

 

また教授からも煙たがられて、

 

ワーニャ「いよいよ一荒れくるぞ。(稲妻)そうら来た。エレーナさんもソーニャも、向こうへ行っておやすみ。僕が代わるから。」

セレブリャコーフ「(おびえたように)いや、それは困る!この人のお相手だけは勘弁してくれ。喋り出したら最後、きりがないから。」

ワーニャ「しかし、この連中だって休ませてやらなきゃいけませんよ。これで二晩も寝ていないのですからね。」

セレブリャコーフ「ああ、勝手に行って寝るがいい。だが君も行ってくれたまえ。後生だ。お願いだ。昔のよしみに免じて、このまま引き取ってくれたまえ。後でまた話そう。」

 

しかも小技が効いているのが、同じく他人に人生を捧げた老地主のテレーギンというキャラクターで、

 

テレーギン「ワーニャ、それを言わないでおくれよ。頼むよ、ほんとに。……現在の妻なり夫なりに背くのは、つまり不実な人間で、やがては国に叛くことにも、なりかねないんだよ。 」

ワーニャ「(腹立たしげに)口をしめろ、ワッフル。 」

テレーギン「まあ、お聞きよ、ワーニャ。私の女房は、この私の男っぷりに愛想をつかして、婚礼のあくる日、好きな男と駆け落ちしてしまった。けれどわたしは、その後も自分の本分に、そむいたことはないよ。今になるまでわたしは、あれが好きだし、実をつくしてもいるし、できるだけは援助もしてやっている。あれと好きな男の間にできた娘の養育費に、わたしは財産を投げ出してしまったよ。そのため、わたしは不仕合せになったが、気位だけは、ちゃんとなくさずにいる。」

 

境遇からしてワーニャ伯父さんの近い将来を示唆すると読める存在ですが、このキャラクターが卑屈かつ滑稽に描かれており、ワーニャ伯父さんの怒りと閉塞感をより際立たせる名脇役だと思います。

 

ワーニャ伯父さんが人生を捧げた、土地の管理と教授への経済的援助が、成り行きと妥協の産物であって、しかしそのことが実相に迫る舞台設定だと思います。仕事に満足はなく、また報われることも少なく、それでもその場所に留まろうとする盲目的で消極的な意思決定があって、人間が不満を感じる時というのはそういう時だと思います。実際はどこかで折り合いをつけて結構満足してみんなやって行っていると思いますが、本作のキャラクター造形はその閉塞感の中にある瞬間を切り取って、そこに留まり続けるような描き方であると感じました。

 

ワーニャ伯父さんの不満が爆発するシーンは圧巻で、

 

ワーニャ「この二十五年のあいだ、僕はこの土地の差配をして、汗水たらして、せっせと君に金を送ってやった。こんな真正直な番頭が、どこの世界にあるものか。だのにあなたは、その間じゅう若い頃も年取った今も、僕はあんたから、年額五百ルーブリ也の乞食も同然の捨て扶持を、ありがたく頂戴しているにすぎないんだ。ーーーしかもあんたは、ただの一ルーブリだって、上げてやろうと言ったことがないんだ!」

セレブリャコーフ「ワーニャ君、それは無理難題というものだよ。わたしは実務にうとい人間だから、その辺のことは全然めくらなんだ。君は幾らでも好きなだけ、どしどしあげてくれたらよかったんだ。」

ワーニャ「ああいっそ、思う存分くすねてやるんだった。その、くすねることもできなかった意気地のない僕を、皆さん、どうぞ思いっきり笑ってください。そうするのが本当だったのだ。それをやれば、乞食の境涯にいまさら身を落とすこともなかったのだ。」

マリーナ「(きびしく)これ、ジャン!」

テレーギン「(はらはらして)ねえワーニャ、およしよ、いい子だから、およしよ……わたしゃ顫えがついてきたよ。……永年のいいつきあいを今さらぶちこわすこともないじゃないか。(ワーニャに接吻する)およしよ。」

ワーニャ「二十五年というもの僕は、この母親と顔突き合わせて、まるでモグラモチみたいに、ろくろく表へも出ずに暮らしてきたのだ。……われわれの考えることも、われわれの感じることもーーーみんな残らず、あんたという一人の人間に寄っかかっていたのだ。昼は昼で、君の噂をし、君の仕事のことを話題にし、君をわれわれの誇りとし、君の名を恐れ謹んで口にのぼせていたものだ。夜は夜で、君の雑誌だの本だのを読みふけって、大事な時間をつぶしたものだ。ーーー今じゃそんなもの、洟も引っかけやしないがね。」

テレーギン「およしよ、ワーニャ、およしよ……聞いちゃいられないから。」

セレブリャコーフ「(憤然として)わたしにはわからん、一体どうしろというのだか。」

 

ワーニャ伯父さんの捨て身の演説と、しかも周囲の無理解が生き生きとしたいい描写です。

 

ワーニャ「どうにかしてくれ!ああ、やりきれん。……僕はもう四十七だ。仮に、六十まで生きるとすると、まだあと十三年ある。長いなあ!その十三年を、僕はどういきていけばいいんだ。どんなことをして、その日その日をうずめていったらいいんだ。ねえ、君……(ぐいと相手の手を握って)わかるかい、せめてこの余生を、何か今までと違ったやり口で、送れたらなあ。きれいに晴れわたった、しんとした朝、目がさめて、さあこれから新規蒔き直しだ、過ぎたことは一切忘れた、煙みたいに消えてしまった、と思うことができたらなあ。(泣く)ねえ、君、教えてくれ、いったいどうしたら新規蒔き直しになるんだ……どうしたらいいんだ……」

アーストロフ「(腹だたしく)ちぇっ、しようのない男だなあ。今さら新規蒔き直しもあるものか。君にしたって僕にしたって、もうこれで、おしまいだよ。」

ワーニャ「やっぱりそうか。」

アーストロフ「ああ、断じてね。」

ワーニャ「そこを、なんとかしてくれ。……(胸をさして)ここが焼けつくようなんだ。」

アーストロフ「(癇癪まぎれにどなる)よせったら!」

 

この引用は、興奮が極まってピストルで殺人未遂をやってしまって、そのあとワーニャ伯父さんが自身の人生を嘆くシーンですが、このシーンに共感しない人などいるのでしょうか。

 

前作『かもめ』と違い、不幸が極致に達した結果の出来事、たとえば自殺や殺人、遁走といったこと、がなく、ワーニャ伯父さんと同じく不幸に見舞われたソーニャの語りで終わるという、意図された幕切れの悪さ、が非常なうまみがあると思います。

 

でも、仕方がないわ、生きていかなければ!(間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命が私たちにくだす試みを、辛抱強く、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに辛い一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにもわたしにも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振り返って、私たちーーーほっと一息がつけるんだわ。

 

というのも、真に絶望した人間の死や生活の破壊は、短絡的意味において、また利害関係者たちにとって、救いとなる場合があるので、安易なデッドエンドはバッドエンドとして一枚落ちる、ということがあるからです。本作における種類の不幸や閉塞感にとっての本当のバッドは、「何も起きないこと」であって、ソーニャの説教に近い長い語りがよりバッドを深くしていると思います。

 

訳者の解説ではこの語りは勇気に満ち溢れたものであると言われていますが、わたしの感覚では勇気というより頑迷といったほうがしっくりくる印象を感じました。

チェーホフは今後の作品展開で、この忍耐の考え方をより発展させ、この種類の忍耐が人類平和に寄与するという趣旨の哲学へ向かうとのことですが、全くピンときません。まずそういう忍耐や不幸せが人類平和に寄与する根拠が薄弱ですし、仮に寄与したとしてもその人類平和と個人の不幸せが釣り合う対価とは思われません。

しかし本作がそれほど宗旨を異にするわたしに対してもささるのは、不幸とそれにまつわるダイナミズムが、リアルに迫っているからだと思います。

 

リアルといえば、ワーニャが人生を台無しにしたと嘆く教授にしても、やはり現状の生活に不満がある、というところもまたリアルです。

 

セレブリャコーフ「なるほど、わたしは厭なやつで、がりがり亡者で、暴君かもしれない。ーーーだがそれにしたって、私はこの年になってまで、自分の意見を持ちだすいささかの権利もないと、いうのだろうか?わたしは、それだけの値打ちもない男なのだろうか?どうだね、わたしは気楽な老後を送る権利もなければ、人様にいたわってもらう資格もない人間なのかね。」

エレーナ「誰も、あなたの権利のことなんぞ、とやかく言ってやしないわ。(窓が風にあおられてバタンと閉まる)風が出てきた、窓を閉めましょう。(しめる)一雨来そうだわ。誰もあなたの権利のことなんぞ、とやかく言ってやしないわ。」

■かもめ

この作品の表題にもなっている、かもめ、というモチーフは、初舞台を台無しにされて表現に悩むトレープレフが難解な表現の一環で撃ち落とし、女優に憧れる彼の意中の人ニーナに贈り、それをニーナを奪う恋敵で、彼より一足先に成功して人気を博し、彼のコンプレックスの対象でもあるトリゴーリンが見出したというものです。

 

これはトレープレフやニーナのような夢を見る若者の情熱を示唆していると思います。というのも、トレープレフにとっては、このかもめの死骸が彼の悩みの末に生まれた表現であるということ、彼は「このかもめみたいに僕自身を殺す」という言葉通り二度にわたるピストル自殺をするということ、またニーナにとっては、トリゴーリンが短編の題材としてかもめと彼女を重ねたこと、一度はトリゴーリンに身を委ねたが捨てられた、という境遇が、彼がまたかもめというモチーフに一度は文学的意義を見出して、屋敷の使用人に剥製を作らせたものの、数年後には完全に忘れ去っていること、などからそのように推測できると思います。

 

シャムラーエフ「そうそう、トリゴーリンさん、あなたのものが残っていましたっけ。」

トリゴーリン「はてな?」

シャムラーエフ「いつぞやトレープレフさんが射落とした鷗ね。あれを剥製にしてくれって、ご注文でしたが。」

トリゴーリン「覚えがない。(しきりに考えながら)覚えがないなあ!」

シャムラーエフ「(トリゴーリンを戸棚のほうへひっぱって行く)そらこれが、さっきお話しした品ですよ……(戸棚から鷗の剥製を取り出す)あなたのご注文で。」

トリゴーリン「(鷗を眺めながら)覚えがない!(小首をかしげて)覚えがないなあ!」

 

特にニーナの素朴な疑問のシーン、

 

有名な女優さんが、それもあんなつまらないことで泣くなんて、どう見ても不思議だわねえ!もう一つ不思議といえば、名高い小説家で、世界の人気者で、わいわい新聞に書き立てられたり、写真が売りだされたり、外国で翻訳まで出ている人が、一日中釣りばかりして、ダボハゼが二匹釣れたってにこにこしてるなんて、これも変てこだわ。わたし、有名な人って、側へも寄れないほどえばりくさって、世間の人間を見下しているものと思っていた。家柄だの財産だのを、無常のものと崇め奉る世間に対して、自分の名誉やぱりぱりの名声でもって、仕返しをする気なのだろうと思っていた。ところがどうでしょう、泣いたり、釣りをしたり、カルタをやったり、笑ったり、一向みんなと違やしない。

 

何も知らずに撃ち落とされたかもめが用いられたのはこの種類の無知や無邪気さを示唆するためだと思います。

 

そして『ワーニャ伯父さん』と同じく、憧れと嫉妬の対象者であり、成功という客観的な事実を手に入れているはずのトリゴーリンもまた悩んでいます。

 

この水が好きだ。木立や空が好きだ。わたしは自然をしみじみ感じる。それはわたしの欲望を、書かずにいられない欲望を呼び起こす。ところがわたしは、単なる風景画家だけじゃなくて、その上に社会人でもあるわけだ。わたしは祖国を、民衆を愛する。わたしは、もし自分が作家であるならば、民衆や、その苦悩や、その将来について語り、科学や、人間の権利や、その他いろんなことについても語る義務がある、と感じるわけです。そこでわたしは、何もかも喋ろうとあせる。わたしは四方八方から駆り立てられ、叱りとばされ、まるで猟犬に追い詰められた狐さながら、あっちへすっ飛び、こっちへすっ飛びしているうちに、みるみる人生や科学は前へ前へと進んでいってしまい、わたしは汽車に乗りおくれた百姓みたいに、ずんずんあとにとり残される。で、とどのつまりは、自分にできるのは、自然描写だけだ、ほかのことにかけては一切自分はニセ物だ、骨の髄までニセ物だ、と思っちまうんですよ。

数年後、トレープレフは作家の道を進み、ついに若い頃の表現について誤りを自覚します。

 

俺は口癖みたいに新形式、新形式と言ってきたが、今じゃそろそろ自分が、古い型に落ち込んでいくような気がする。…俺はだんだんわかりかけてきたが、問題は形式が古いの新しいのということではなくて、形式なんか念頭に置かず人間が描く、それなんだ。魂の中から自由に流れ出すからこそ書く、ということなんだ。

一方ニーナも、女優の世界が子供の頃思っていたようなきらびやかで明るい世界ではなく、大切なのは忍耐だと気づいています。

 

あたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、実は忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心がいったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよーーーだわ。

わたしはこせついた、つまらない女になってしまって、でたらめな演技をしていたの。両手のもて扱い方も知らず、舞台で立っていることもできず、声も思うようにならなかった。ひどい演技をやってるなと自分でも感じる時の心持ち、とてもあなたにはわからないわ。わたしはーーーかもめ。いいえ、そうじゃない……おぼえてらして、あなたはかもめを射落としたわね?ふとやってきた男が、その娘を見て、退屈まぎれに、破滅させてしまった。……ちょっとした短編の題材……。これでもないわ。

 

二人が出会い、疲れ果てたニーナが自分に言い聞かせるように語るシーンは、何か仕事や創作の苦労に耐えていく苦しみがよく出ていると思います。こちらのニーナの決意の方がよっぽど勇気を感じさせるもので、苦労に耐えた後の人類平和という話には同意しかねますが、しかし忍耐が常にあり、それが大事だということは大いに同意できるところです。このあっさりとした忍耐の必要性への言及こそ至言で、そのあとの人類平和だの報いだのは虚飾であると感じます。そういう偽りのゴールを定めた忍耐よりも、ただ必要性があってする忍耐の方が気高いと思います。