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『恐るべき子供たち』コクトー作、鈴木力衛訳

■無邪気さ

エリザベートは着物をぬいだ。姉と弟の間には、何の気兼ねもなかった。この部屋はひとつの甲羅みたいなもので、二人は同じからだの二つの手のように、そのなかで生活し、洗ったり、着物を着たりするのだった。

 

 

富は一つの才能であり、貧しさも同様に一つの才能である。金持ちになった貧乏人は、贅沢な貧しさをひけらかすであろう。エリザベートとポールは、いかなる富もその生活を変えることができないほど富んでいた。眠っている間に富が彼らを訪れたにしても、目が覚めると、彼らはそれに気がつかなかったに相違ない。

贅沢な犬が羊番をしようとしないのと同様に、彼らは未来の計画だの、勉強だの、地位だの、就職活動などは、気にもかけなかった。新聞を読むにしても、犯罪記事ばかりを読んだ。彼らはニューヨークの様な兵舎を追い出されて、パリで暮らすのを余儀なくされるあの型破りの種族だった。

「結婚するんだって?結婚するんだって、君と!気でも違ったのかい、鏡を見てみるがいいや!結婚できる顔じゃないよ。醜くて、おまけに間抜けときてらあ!姉さんは間抜けの女王様だよ!その男は君をからかっているのさ、なぶりものにしてるのさ!」

ポールはそう言って、引きつったように笑い出した。

ユダヤ人であろうがなかろうが、そんなことは、ポールにとっても、彼女にとっても、問題にならないことをエリザベートは知っていた。彼女は全身が温まるような、心地よさを感じた。彼女の心は、部屋の隅々までパッと明るくなった。あのポールの笑いかたがエリザベートは大好きだった!弟の顎の線はなんと残酷になることか!弟をこれほどからかうのは、ほんとに何と気持ちのいいことだろう!

「向こう見ずですって?」エリザベートはせせら笑った。「今にわかるわ!」彼女は新聞紙て球をつかむと、テーブルを廻って、弟を追いかけ始めた。彼女は叫んだ。

「お食べ。お食べ」

アガートは逃げ出した。ポールは躍り上がって、顔を隠した。

「ほら、ごらんなさい、これが向こう見ずだって言うの!とんだヒロイズムだわ!」エリザベートは息を切らせながら、あざ笑った。

ポールもやり返した。

「ばか。自分で食べるがいいや」

「ありがとう。でも、食べたらわたし、死んでしまう。それじゃ、あんたが、あんまり幸福になりすぎるわ。わたしたちの毒薬は、宝物のなかに入れときましょう」

 

引用したのは、本作の主人公の姉弟に関する記述ですが、彼らの無邪気さに関する記述が随所で真に迫っていて、そこが本作の見どころの一つだと思います。特に素晴らしいのは、3つ目の引用にあるような、「いじわる」の描写だと思います。子供が無邪気なものである、というのは一般的な見解だと思いますが、子供に邪気がないかというと、全くそんなことはないと思います。引用のような、相手の反応を見たいだけの意地悪というのは、子供の頃の思い出として非常によくあるもので、いわゆる「好きな女の子にいたずらしちゃう」というやつです。しかもそのいたずらで、相手が本気で嫌がることを、トラウマになるまでやってしまうのが子供というものなのです。この手加減のなさが子供の無邪気さの所産であって、そこにないのは邪気というより打算、という方が適切だと思います。本作が悲劇的な最期を迎えるのも、まさにこの手加減のなさの結果であって、やっていることは疑いなく悪でも、その悪へ向かう動機に敗北的なものは含まれていません。悪は悪でも、卑怯な悪ではなく、気高い悪であるということができます。

 

無邪気というより無打算

 

■宝物

それは宝物だった。描写するのは不可能な宝物だった。ひきだしの中の品物は、本来の用途からすっかり離れてしまい、象徴的な意味を帯びていた。だから、子供の気持ちを知らない人の眼には、ほんのがらくたーーーイギリス製の鍵とか、アスピリンの容器とか、アルミニュームの指環とか、クリップとかーーーそんなものくらいにしか映らないのであった。

エリザベートは球を包んで、ビスケットの古い空罐の中に押しこみ、部屋を出て行った。ピストルや、口髭を付けた彫像や本などが散らばっている宝物箪笥のところまで来ると、彼女はそれを空けて、空罐をダルジュロスの写真の上に乗せた。彼女はちょっぴり舌を出し、蝋人形に呪いをかけて針を打ち込む女のような姿勢で、注意深く、ゆっくり、その空罐を並べた。

 

こういう非論理的な所有欲、憧憬というのも子供時代の描写として非常によくわかります。この非論理性は、子供時代が輝いていることと無関係ではないと思います。論理的である、とはどういうことでしょうか。論理的な認識というのは、全てのものを特定の基準のもとに数値化するような認識のことだと思います。この認識は、事象を手段化します。モノに値段をつけるのは、それを売却して金に換えて、その時に必要なものを購入するための営みですし、人に値段(あるいは順位)をつけるのは、その人と付き合い続けることにどのくらいの損と得があるかをはっきりさせて、将来的に付き合いを続けるかどうかの判断材料にするための営みです。この営みも、その手段の最終的な目的となる場所がはっきりしている限りにおいては有益だと思います。何か特定の目的に対して、会社の利益とか、大学合格とか、のために、論理的に取捨選択をしていって前に進んでいくことには充足感があります。しかしこの論理的な思考が人生そのものを窮屈にさせる原因は、人生の目的というものが究極的にはないという事実だと思います。特定の目的というのも、人生の目的がはっきりしない以上、その存在意義の拠り所が極めて曖昧な状態です。我々論理的な大人は、自分の幸福につながっているかわからない、給料のアップとか、スキルの向上とか目先の目的に向かって進んでいる、というのが多くの大人の現状なのではないかと思います。

 

それに対して非論理的な世界観には目的があります。子供が宝物を集めるとき、宝物を何らかの手段として集めるのではなく、宝物自体が目的なのです。この目的は、より大きな目的のための小目的ではなく、純粋な意味での目的です。子供時代の思い出が美しいのは、今全くの霧の中で見えない行動の目的というものを、思い出の中の自分が見ていたらしいという感覚によるのだと思います。

 

倫理的思考は、事象の数値化、事象の手段化を招く

非論理的思考は、最終目的を見る

 

■訳者の解説

一歩一歩破滅へ導かれてゆく彼らの痛ましい運命の中に、残酷なポエジーの美しさを発見して、それを作品の基底においたのである。コクトーの鋭敏な感受性が戦後の混沌の中から感じ取った若々しい詩情が、心理小説の伝統の中で蒸留され、造型された作品、『恐るべき子供たち』とはそういう小説である。

恐るべき子供たち』は、新しい衣装としてまとった時代の雰囲気の背後に、少年期の夢想、憧憬、情熱という、いわば永遠の主題を捉えていたのである。この作品が約三十年を経た今でも、なおみずみずしい生命を保ち続けている秘密はそこにあるのではなかろうか。

 

その通りだと思います。最初に述べた子供の容赦のなさ、手加減のなさが、次に述べた非論理的で神秘的な目的に盲目的に向かう力になって、その帰結は悲劇的で悲惨な死であるというこの作品の構図それ自体が、我々の子供時代の原風景を克明に指し示しているといえます。私たちが大人になっていったその過程には、私たちの子供らしさの惨たらしい死がいつもあっただろうと思います。

 

子供と他者、社会の接触は、自分が信奉する論理では測れない、憧れても手の届かない存在との出会いと言えます。その意味で子供らしさとは、非論理的で説明不要な達成感や幸福感、陶酔感とともに、他者に憧れ、繋がりたく思う気持ちがあり、その両者は相反するもので、自己破壊的なありようをしているといえますし、この作品の帰結もまさに自己破壊そのものなのです。

 

本作の憧れ、その後の死の役割はダルジュロスというキャラクターが担っています。

 

ダルジュロスの魅力は趣を変えつつあった。その魅力は滅するどころか、この生徒はますます偉大になり、飛揚し、部屋から空へと上昇して行った。ぐったりした彼の眼ざし、その縮れた髪、厚ぼったい唇、大きな手、名誉にかがやくその膝は、次第に星座の様相を帯びてきた。それらのものは空間によって分離され、動き、旋回した。要するに、ダルジュロスは宝物の中の写真と合体してしまったのである。モデルと写真が一致し、モデルは不用になったのだ。

彼はジュラ―ルをホテルの部屋につれて行き、『雪の球』とつきあっているか、とたずねた。『雪の球』とは……つまり、雪の球をぶつけられた奴……ポールのことであった。

…ポールは学生時代のことを思い浮かべた。あの頃はダルジュロスの真似をして野蛮人や、毒矢のことばかりを話し、ダルジュロスに褒めてもらいたいばっかりに、郵便切手の糊に毒を塗って大量殺人をする計画を立て、悪党におべっかを使い、毒薬で人が殺せるという事ばかり思いつめていたものだった。

ダルジュロスは、何でも言うことをきくこの奴隷のことを忘れなかった。そしていま、いたずらのしめくくりをつけたのである。

 

ポールを嘲りを含んだあだ名で呼び、毒薬で遊ぶダルジュロスに憧れるポールですが、危険物の扱いをしくじって、毒薬で死ぬのはポールであるわけです。熱し方も冷め方も心得ている憧れの人を真似て、手酷く失敗するというのは、子供時代の失敗として非常に典型的で、子供らしさの惨たらしい顛末とはこれのことです。