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『アンキャニー 不気味の谷』に寄せて ~読書という体験について~

『アンキャニー 不気味の谷』というのは、AIとそれを作った科学者がAIのテストのために他人を利用する話です。話自体はどうということもなかったのですが、ちょっと考えさせられたので記事にします。

 

■本作はなぜ微妙なのか

 

というと、やはり主題がはっきりしていないからだと思います。博士と記者の実らない恋に焦点を当てるのなら、博士は実験をやめているはずで、さらに敢えて言うと、少なくとも文学の文脈では、実験をやめなければならない、とまで言うことができると思います。

 

 

■創作作品の中における登場人物の振る舞い

 

実際のこの世界では、何かに命を懸けた人がその事業を終えて生きていること、というのはありえますが、創作作品のなかではそういうことはありえない、と言えます。作品の登場人物というのは実際には存在していないので、したがってその気持ちも同様に存在していません。我々は作品に書かれて悦明されていることから登場人物に気持ちがあるとすればこういう風なのだろう、と想像しながら読んでいます。その前提の上で最初に提起しました「何かに命を懸けた人がその事業を終えて生きていること」という状態は、何を意味するかというと、これは明らかに

 

説明不足

 

そのものであり、全面的に作品側の過失であるといえると思います。恋が主題である、つまり本作の恋というのはこんなに素晴らしいものだったんだよ、ということを主張したいのなら、作品の中の他のすべての素晴らしいものを擲って恋を希求しなければならないと思います。それが創作作品の正しい態度だと思います。まあ、この作品の主題が恋でない、というのはおそらく製作者様も同意されるところだろうと思いますが、そのほかの点においても登場人物が全力で何かを求めるシーンというのがありません。そこのところがこの作品に対する私の当初の所感の原因なのだと思います。

 

登場人物が全力で何かを求めない作品もあります。不可解系とか、胸糞系とか、ホラーでもそういう作品はそれなりに存在意義を持つものもあると思いますが、やはり依然として弱いです。本作は確か、ホラーのジャンルとして紹介されていたと記憶していますが、ホラーにしてはおとなしすぎです。

 

■本作の謎

 

当初提起されている「博士と人間そっくりのAI」というモチーフは、少し勘がいい人ならすぐにピンとくる設定だと思います。つまり実は人間がAIで、AIが人間なのではないか、という予感です。そういう人にとっては本作のラストはまさに予想通りといっていいと思います。実は私は最後まで気付かなかったので、お恥ずかしい限りなのですが、一つ言いたいのはこの気付かなかったということに対する言い訳で、そもそも読書とは何かということを考えると、それは積極的に騙される活動である、と言えると思います。

 

読書とは積極的に騙される活動である

 

読書の帰結として多くの方が感じたことのあるハラハラドキドキ、感涙といった感情移入は、紛れもなく騙された結果にほかならないと思います。読書のそういう素晴らしい作用が騙されるという心的活動と不可分の位置にあるのです。しばらく前に「なぜ推理小説を読まないか」という話をこのブログでしました。

 

推理小説を読まない理由 - H * O * N

 

今回のことは、この推理小説を読まない理由の一端でもあると思うのですが、推理小説を読む読者のほとんどは、何か手掛かりがないかを探しながら、いかに作者に騙されないか、いかに謎を解くかに心を砕いていると思います。が、私にとって読書という営みは、それとは全く逆方向の活動であるということができます。いかに騙されるか、いかに騙され続けるか、それこそこの活動における私の懸案なわけです。ところでそう考えると、推理小説というのは非常に器用な分野で、大きな嘘の上に嘘のこんぐらがった迷宮を建てているようなものだということができます。つまり、推理小説の読者は、推理小説の中で語られるアリバイとか証言とかの整合性には常に目を光らせて、非常に気がつくのですが、推理小説の世界それ自体、誰それという刑事や探偵がいて、どこそこという古びた洋館があって、そういったものは全て嘘、フィクションなのですが、その嘘には全くの無頓着でいる、ということになります。

 

それはそうと本作の話に戻りますが、私が騙されたからと言ってそれは本作の謎の出来栄えが及第点であるということにはなりません。むしろ、本作の中で事実の記述に類することが、読者をだまそうとしている方向性、のようなものを感じるシーンが多々ありました。これが博士の壮大な実験なら、博士は女性記者が帰った後にも芝居を続ける必要はないはずです。博士が極端に不器用な人間で(それはそのような描写があったのでそうだと思いますが)、記者への横恋慕から一人のときの一連の不可解な行動をしているとすると、こんどは逆に実験終了後のダークな人間性と整合性が取れないと思います。こういう恣意的な演出は推理小説では御法度なんじゃないかと思うので、やはり難ありと言わざるを得ないと思います。