join the にほんブログ村 小説ブログへ follow us in feedly

『若き人々への言葉』ニーチェ著

■章立てがわかりやすい

ニーチェの生涯の思想を五つに分けて、それぞれに説明を付して時系列で配置していて、非常に直感的でわかりやすいです。説明だけを通しで読んだらわかった気になるし、中身を読む前に説明を読むことで準備ができていいと思います。基本的に古典の原典を読むことを至高の価値としているので、最初この本を編集したのが著者本人でないというところに抵抗がありましたが、いとうせいこう氏の解説でニーチェの原典がかなり難解そうだとわかり、これでよしとしました。

 

■1

全ては獣性の継続である。その有様は、あたかも、人間は故意に退化させられ、その形而上的意味を奪い取られねばならなかったものであるかのように見え、まことに自然は、そのように長い間自然に憧れ、やっと人間になりえた後で、今や人間に尻込みをし、むしろふたたび獣性の無意識に戻ろうとしているかのように見える。

君たちが前方を眺め、一つの大きな目標を掲げるならば、それによって同時に君たちは、かの盛んな分析の衝動を抑制するのである。

君たちの心のなかに未来にふさわしい像を描け。そして、自分は過去の末裔であるという迷信を、忘れ去れ。君たちがあの未来の生に想いめぐらす時に、君たちには、工夫し、発明すべきものが限りなくあるのである。

■2

人類は全体としては、いかなる目標も所有しておらず、そのため人間は、人類全体の流れを観察して、そのなかに彼の慰めや支えを見出すことはできぬものであって、絶望のみを見出すからである。

…一つの問いが、我々の舌に引っかかっていて、しかも声となって発しようとはしないように思われる。すなわち、人は意識的に非真実のうちにとどまりうるか、あるいは、もし人がこのようにせざるをえないならば、その時はむしろ死が選ばれるべきではないか、という疑問である。

…ただいよいよよく認識するためにのみ生き続けるというほどに、生において通常見られるような束縛から脱却した人間は、むしろ多くのものを、否、他の人間においては価値があるようなほとんどすべてのものを、羨望や不快感なしに断念することができなければならない。最も望ましい状態として、人間、道徳、法則、そして事物の因習的な尊重、を超越して、自由に、物怖じすることなく、悠々と逍遥するということをもって、満足せねばならぬのである。

私の言うのは、人の交わりにおける、親しい心持ちのあの表しかたであり、あの眼の微笑みであり、あの手の握り方であり、あの心地の良さであり、…生はただかの好意によってのみ、青々と繁り、花咲くのである。

…人は好意によって、陰鬱な眼をして見るよりもはるかに多くの幸福を見出すのである。

このあたりまではいわゆるフツーの哲学的な幸福の話だと思います。ニーチェは性の哲学者というだけあってやや熱血な感がありますが、礼儀正しい振る舞いが幸福を見出すという話や、一般的に価値のあるものを羨望なくあきらめるという話なんかは、他の哲学書でも出てきます。例えばアランの幸福論、ヒルティの幸福論でも似たような話が出てきます。人類は全体としては無目標であるというのは非常にストア派的な考え方で、哲学的な幸福論の世界ではストア派がスタンダードだと私は思っているのでそういう意味でも非常に定石通りの論の進め方だと思います。

 

『幸福論』ヒルティ著、草間平作訳(1/3) - H * O * N

 

■3

自分の治癒の手段を求めているのであって、彼らは真実を求めているのではないのである。それゆえに、これらの別な人々は、科学に対する純粋な喜びをほとんど持たないのであって、科学の冷たさ、乾燥ぶり、そして非人間さを非難すると言うことになるのである。それは健康者の戯れに対して下すところの、病者の判断である。

健康者が何の顧慮もなくさまよっている心地よい暖かな霧の世界のことを、病者は軽蔑の念をもって想う。彼が以前にはそのなかで戯れていた最も高貴な、もっとも好ましい幻想のことを、軽蔑の念をもって想うのである。彼はこの軽蔑を地獄の底から呪文で呼び出し、魂に対してかくのごとくもっとも厳しい苦痛を与えることに、快楽を覚える。この均衡によって、彼はまさに肉体的苦痛に抵抗をする。まさしくこの均衡が今や必要不可欠であることを、彼は感じるのである。

悲観的哲学が現れるのは、決して大きな生産的な困窮状態の兆候ではなくて、全ての生の価値についてのこの疑問符は、次のような時代においてつくられる。すなわち、現存在が繊細化され、容易にされた結果、心身にとってはどうしても避けられない蚊の刺傷ほどの掠り傷さえも、全く余りにも血なまぐさいものであり、悪性のものであると考え、現実の苦痛体験における貧しさの中で、人間を苦しめている一般的な諸観念を、それだけでもう最高の種類の苦痛と見させたいものだと、このうえなくねがっているような時代である。

「苦しみ」に対する処方はまた苦しみである。

ニーチェといえば、『善悪の彼岸』から、

 

深淵を覗くとき、深淵もまた

 

ナントカカントカというフレーズがよくバトル物の創作作品に引用されたりします(闇属性のキャラとかがよくいっています)。そのフレーズは本書には出てきませんでしたが、ここの

 

「苦しみ」に対する処方はまた苦しみである。

 

というフレーズもかなりバトル物につかいやすいのではないかと思いました(戦闘狂のキャラとかに似合うと思います)。ニーチェは全体的に表現が詩的なので、そういう意味でも本作は非常に楽しい作品なのですが、ところで、この「苦痛」に対する考え方がニーチェ独特だと思いました。後述します。

 

■4

値段を持っているものはことごとく、ほとんど価値がないのである。どこから君たちが来たかが、今後における君たちの名誉となるべきではなく、どこに君たちが行くかが、君たちの名誉とならねばならぬ。

Twitterで、「感謝の価値の源泉は、何物にも購えない点にある」ということを言いましたが、これはここで言っているのと同じことです。お金で買われたモノ、人、事象には意志がありません。お金をもらったから財やサービスを提供しているだけです。そして特に奢侈品においていえることですが、人の提供するサービスやモノが持てる価値には限界があると思います。例えばプレミアのついたスニーカーを買っても、それをスニーカーとして使えば他のスニーカーより素晴らしいかというとそういうわけではなく、ちょっといいスニーカーなわけです。これは、スニーカーに提供できる「唯一の」価値である、外を歩くとき足を保護する、という用途の価値が議論の余地なく決まっていることがその原因です。だから、ここの記述をより厳密にいうと、

 

極端に値が張るもので、値段通りの価値を持つものはほとんどない

 

ということができると思い思います。

 

生きている者にとって、生そのものよりも高く評価されるものは、少なくない。しかし、その評価することそれ自体のなかに、ものを言っているのだ、ーーー力への意志が!

■5

「人はなにものかであるためには、なにものかを持たねばならぬ」

…この言葉は、全ての本能のうちで、最も古く、かつ最も健康なものである。私はそれに一言付け加えたい。「人は、より以上になるために、持つところ以上のものを持とうと欲しないではいられない」と。生けとし生けるものに対し、生そのものによって説かれる教えは、すなわち発展のモラルは、それと同じような響きを持っている。持ち、かつより多く持とうとすること、一言でいえば成長ということは、生そのものである。

これはぱっと見ギラギラ系の価値観なのかなと思いますが、よく考えると一つ前の力への意志と同じ方向性の話だと思います。重要な点は、持つ、またより以上を持つことを「意志すること」を終始言っているのであって、持っているという状態、持っているモノ自体については一言も言及していないことだと思います。だから、あさましく貪欲により以上を持とうとすることが生そのものだけども、そうやって獲得されたモノ自体に関しては「値段を持っているものはことごとく、ほとんど価値がない」というわけです。

 

高貴な人間は何によって現れ、何によって認識されるか。ーーーそういう人間を示すものは行為ではない。ーーー行為は常に曖昧であり、測り知りがたいものである。それはまた「作品」でもない。芸術家や学者たちのあいだには、今日、自分たちの作品によって高貴への深い欲望が自分たちを駆り立てているということを現そうとする人々が、たくさんに見受けられる。しかし、高貴へのこの要求こそまさに、高貴な魂自体の要求とは根本から違うもので、まさしくこれこそ彼らの欠乏を物語る雄弁かつ危険な兆候である。ここにおいて決定するものは、そして古い宗教的公式を、新しい深い悟性に再び採用するために、ここにおいて階級秩序を確立するものは、作品ではなくて、信仰である。すなわち、高貴な魂が自己について抱いている根底からの確信であり、自己を求めたり、見出したり、おそらくはまた失われたりされないところの何物かである。ーーー高貴な魂は自己への畏敬というものを持っている。

支配者のモラルと奴隷のモラルである。

奴隷のモラルは始めから、「外部」に対し、「他者」に対し、「非我」に対して、否をいうのである。そしてこの否こそ、奴隷のモラルにとっては創造的な行為なのである。

高貴な価値付けの方法の場合は、それと反対である。それは自発的に活動し、成長する。それが対立者を求めるのはただ、自己自身に対してなおいっそう感謝し、なおいっそう歓喜して、然り(ヤア)を言うためにである。ーーーそれの消極的な概念「下賎な」「卑俗の」「悪しき」ということはただ、それの積極的な、徹底的に生と情熱とに浸みついた根本概念「われわれ高貴なもの、われわれ善きもの、われわれ美しきもの、われわれ幸福なもの!」という者に比較しての、後から生まれた、蒼ざめた対照像にすぎない。

ここで存在の高貴さという話が出てきますが、ニーチェの指摘する高貴さというのはかなりリア充っぽいと言えると思います。自分はこの高貴さの説明を読んだ時、友人のうちでよく飲み会や旅行を企画してくれる明るい彼のことを思い浮かべましたが、ここで指摘のあるとおり彼の中にあるのは基本的に自分への信仰なのだと思います。まずあまり人の話を聞かず、何か落ち込むことがあっても次に会うときには治っています。そういうところが根底からの自己への信頼であり、対立者の存在意義がなお一層自分自身に歓喜するためであるということなんだと思います。引用はしませんでしたが、奴隷のモラルが非我に対して否を言うこの方向性は、「怨恨(ルサンチマン)」と定義されています。ルサンチマンというと今ではちょっと一般に使われる言葉になっていますが、結構原義通りに使われていると思います。自分なんかは飲み会を企画するということになると、みんなメンドクサクないかな、楽しんでくれているかな、ということが気になりますが、これはまさにルサンチマン的であり、奴隷のモラルによる世界の認識そのものであり、行為主体は基本的に非我に対して否を言うものである、という発想が根底にあるんだと思います。

 

不快は、従って、彼の「力への意志」の妨害として、普通にある因子である。…人間はそれを回避すべきではない。人間はむしろ、絶えず不快を必要とする。あらゆる勝利、あらゆる欲求、あらゆる事件は、抵抗の克服というものを前提とするのである。

人は不快を、一種の不快と、すなわち疲労の不快と、混同している。

疲労の状態にあって、しかもなお感じられる快とは、眠ることである。もう一方の場合における快とは、勝利である。

とここでまた苦痛の話が出てきました。ニーチェ以前で苦痛について哲学した人たちですぐに思い浮かぶのがストア派の人たちです。そしてそのストア派の考え方は明らかに、生まれて来た苦痛をよくないものとしていかに処理するかという考え方です。しかしニーチェは逆に苦痛は必要なものであると考えます。ストア派の思想がほかの思想と違って素晴らしい所は、苦痛のもとになる刺激の存在を所与のものとしたことだと思います。その点に関しては間違いないと思いますし、苦痛のもとを取り去るのではなく、苦痛の感じ方を工夫して苦痛の量を減らすというアプローチも(苦痛を減らすという目的にとっては)正しいと思います。が、ニーチェはそれを一歩進めて、苦痛を感じることそれ自体を所与のものとしたわけです。ですので前半からここへ至る流れは、ストア派の思想の消化であると言えると思います。

 

ストア派は苦痛を減らしたい

ニーチェは苦痛を感じるのが正しい在り方だと言う

 

■結局

全体的にかくあるべしという理想像が非常に強い思想だと思います。苦痛を感じるのも正、より以上を所有しようとすることも正、そして最後には幸福になれないことも正、ということをいうわけで、幸福という大前提を無視し、自分の思う美ということ、高貴であるということを至高の価値としてしまうことでストア派の思想を一歩、極端な方向へ前へ進めたのがニーチェだと言えると思います。しかし幸福を目指すことをやめた思想になお共感する部分が多々あるということはおもしろいところで、ということは人間は一定の力で幸福を目指し続けているわけではない、ということが言え、そういう部分がニーチェの思想に共鳴するのだと思いました。