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『雁』森鴎外著

■不健康な人たち

 

登場人物の心象風景が、普通の人たちの病的な心の側面を拡大したかのようなものが多く、作品全体に非常に危うい印象を与えていると思います。

 

とうとう一週間立っても、まだ娘は来なかった。恋しい、恋しいという念が、内攻するように奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になって、親のことを忘れたのではあるまいかと云う疑(うたがい)が頭を擡げて来る。この疑は仮に故意に起してみて、それを弄んでいるとでも云うべき、極めて淡いもので、疑いは疑いながら、どうも娘を憎く思われない。ちょうど人に物を言う時に用いる反語のように、いっそ娘が憎くなったら好かろうと、心の上辺で思って見るに過ぎない。

それでも爺さんはこの頃になって、こんなことを思うことがある。内にばかりいると、いろんなことを思ってならないから、己はこれから外へ出るが、跡へ娘が来て、己に逢われないのを残念がるだろう。残念がらないにしたところが、折角来たのが無駄になったとだけは思うに違いない。その位なことは思わせて遣っても好い。こんなことを思って出ていくようになったのである。

 

 

まず本作のヒロイン「お玉」と父子家庭で暮らしていた爺さんの描写です。爺さんとお玉は長い間二人暮らしで、結婚の話も断り続けてきたところが、年齢の問題もあって、高利貸しの「未造」のところに妾として出すことにした、という背景があり、その経緯自体もかなり閉鎖的、病的なのですが、ここの記述もまた爺さんのお玉に対する異常な執着ぶりがよくわかります。

 

一体お玉の持っている悔しいという概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強いて何かを怨む意味があるとするなら、それは我が身の運命を怨むのだとでも云おうか。自分が何も悪いことをしていぬのに、余所から迫害を受けなくてはならぬようになる。それを苦痛として感ずる。悔しいとはこの苦痛を斥すのである。

きのうきょう「時間」の歯で咬まれて角が刓(つぶ)れ、「あきらめ」の水で洗われて色の褪めた「悔しさ」が、再びはっきりした輪郭、強い色彩をして、お玉の心の目に現れた。

 

先述のお玉もまた、すっきりした性格でなく、かなり内にこもるタイプだとわかります。後述しますが、意志の不在、とそれに伴う責任の不在を有するキャラクターで、このキャラクターの準備がその後のお玉の恋をより劇的に演出する効果をもたらしていると思います。

 

女房は己の内にいる方が機嫌が悪い。そこで内にいまいとすれば、強いて内にいさせようとする。そうして見れば、求めて己を内にいさせて、求めて自分の機嫌を悪くしているのである。それに就いて思い出した事がある。…「…あなたきつそうな風をしていても、まるでいく地のない方ね。あなたに言って聞かせておくのですが、女というものは時々ぶんなぐってくれる男にでなくっては惚れません。好く覚えていらっしゃい。」

 

お玉を妾にもらった未造は妻と子供があり、お玉の存在は隠しているのですが、近所の噂で妻は真相を知るようになります。口の上手い未造に丸め込まれても、心の奥底の疑念は消えず、その疑心が二人の関係に対する自傷行為のような反応となって表れているのが引用の個所です。後半の未造の回想の部分は現代だと問題になるであろう発想で、結局のところ身体的、精神的暴力による思考の萎縮であるというのが厳然たる事実だと思いますが、暴力男がモテる、というのは不思議とよく聞く話です。

 

■神話的シーン

 

お玉と本作のヒーロー「岡田」の恋が本作のテーマなのですが、その二人の出会いは本作のなかでも指摘されているように神話的です。

 

それはそこの家の格子窓の上に吊るしてある鳥籠である。女共の騒ぐのも無理は無い。岡田もその籠の中の様子を見て驚いた。鳥がばたばた羽ばたきをして、啼きながら狭い籠の中を飛び廻っている。何物が鳥に不安を与えているかと思って好く見れば、大きい青大将が首を籠の中に入れているのである。…岡田はこの時又新しい事実を発見した。それは鳥が一羽ではないと云う事である。羽ばたきをして逃げ回っている鳥の外に、同じ羽色の鳥が今一羽もう蛇に銜えられている。片方の羽の全部を口に含まれているにすぎないのに、恐怖のためかもう死んだようになって、一方の羽をぐたりと垂れて、体が綿のようになっている。

 

お玉の家にあった鳥籠を襲う蛇を岡田が退治してあげるというのが二人の決定的な出会いになります。この鳥籠は、主人の未造がお玉に買い与えたもので、捕らわれた美しい小鳥というモチーフは明らかにお玉を指し示すと思います。解説では、この蛇退治のくだりを、岡田による自身の欲望の自己処罰であると解釈していますが、その後の展開に照らして私もそう思います。

 

しかし「蛇退治」の「話」は、実はお玉がどんなに焦慮して希求しても、岡田じしんは、無縁の人であったことを予兆的にさし示すものではなかったか。彼の蛇殺害の図は、惨たらしく執拗かつ念入りに描き出されている。わたくしはこのくだりを読むと、岡田みずからの欲望の自己処罰、切断が暗示されているように感じられてならない。

 

また、その後解説者は、お玉の希望が届かない理由として、近代日本のエリート層である岡田と、庶民層であるお玉の間にある越えがたい溝を指摘しています。この作品の総評としてこの越えがたい溝というのは非常にしっくりきました。

 

岡田の追う「夢」は、救抜を祈るお玉の願いにけっして重なることはなく、大きく隔たっていた。つまりそこには、岡田の属している近代日本の学術・知識の世界のエリートの論理と、お玉の生きている庶民の論理との間に、越えがたい溝が横たわっていたからだ。

■核心

 

本作の核心は、以下に引用するお玉の決心~岡田とのすれ違いのシーンだと思います。

 

いったい女は何事によらず決心するまでには気の毒なほど迷って、とつおいつする癖に、すでに決心したとなると、男のように左顧右眄しないで、オヨイエエルを装われた馬のように、向こうばかり見て突進するものである。思慮のある男には疑懼を抱かしむるほどの障害物が前途に横たわっていても、女がそれを屑(もののくず)ともしない。それでどうかすると男が敢えてせぬことを敢えてして、思いのほかに成功することもある。

 

このお玉の決心に関する解説と前後して、お玉が能動的に岡田と会うために行動する様が詳細に語られます。先に引用しましたが、お玉は最初、意志と責任を持たないキャラクターとして描かれています。自分の身に起こる様々な不幸や変化にも黙って耐えています。しかし岡田が登場したあたりからその姿勢に変化が見られ、自分の頭で考えるようになっていくのがわかります。ここで主人の未造が、遠出をするためにしばらく不在になるという状況が生まれたときにその行動力はピークに達するというわけです。

 

家の前にはお玉が立っていた。お玉は窶れても美しい女であった。しかし若い健康な美人の常として、粧映(つくりばえ)もした。僕の目には、いつも見た時と、どこがどう変わっているか、わからなかったが、とにかくいつもとまるで違った美しさであった。女の顔が照り輝いているようなので、僕は一種の羞眩(まぶ)しさを感じた。

お玉の目はうっとりしたように、岡田の顔に注がれていた。岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足の運びを速めた。僕は第三者に有勝な無遠慮を以て、度々背後を振り向いてみたが、お玉の注視は頗る長く継続せられていた。

それと同時に僕の目は坂の中程に立って、こっちを見ている女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。僕は池の北の端から引き返す途すがら、交番の巡査のことを思うよりは、この女のことを思っていた。なぜだか知らぬが、僕にはこの女が岡田を待ち受けていそうに思われたのである。果して僕の想像は僕を欺かなかった。女は自分の家よりは二三軒先へ出迎えていた。

僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅に匂っている岡田の顔は、確に一入(ひとしお)赤く染まった。そして彼は偶然帽子を動かすらしく粧(よそお)って、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しく睜(みは)った眼の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。

 

そしてその行動の結果が上記のすれ違いというわけです。お玉の激しい意志に対するこの回答は圧倒的な残酷さで読者の胸に迫ってきます。決死の覚悟の結果が「なにもかわらない」というのは、「最悪の事態」以上の最悪の結末といえると思います。つまり告白の最凶のバットエンドは、「玉砕」ではなく「スルー」だということです。

 

告白の最凶のバットエンドは、「玉砕」ではなく「スルー」

 

お玉の決心まではお玉目線で進んでいたストーリーが突然「僕」目線になり、お玉側の心情が読者に一切隠されている表現方法も非常に的確で、読者が見ることのできるのは、岡田をうっとりと、あるいは名残惜しそうに見つめるお玉の姿のみで、その胸中は描写されません。筆舌に尽くしがたいお玉の期待と哀惜を読者は想像することになります。

 

岡田には行きも帰りも友人の取り巻きがついていて、引用はしていませんが帰りの取り巻きには「僕」の外に武闘オタクの「石原」という野暮天極まりないキャラクターもついています。邪魔なこいつらが全員大学の下宿生仲間で、先述の近代日本の学術、知識のエリート層に属する人たちであるという事実も、本作のテーマが知識人階級と庶民との越えがたい溝であることの一つの根拠といえると思います。まとめると本作は、

 

立場に引き裂かれた悲恋の物語

 

だと思います。そしてまた、本作のほとんどの人間描写が庶民の側の描写に終始していて、危うさ、二律背反を含んだ多面的、重層的な庶民たちが非常に印象に残る作品です。恋愛の本質とか、よろこびとか、人間の命の輝きというような原初的人間的な価値は、近代化した先にはなく、むしろ無教養、野蛮で玉石混交のカオスの様相を呈する庶民階級の泥の中にあるという方向性を感じます。

 

過去に読んだ作品だとモーパッサンが近いと思います。

 

『モーパッサン短編集Ⅰ』(著:モーパッサン、訳:青柳瑞穂) - H * O * N

 

『モーパッサン短編集Ⅱ』(著:モーパッサン、訳:青柳瑞穂) - H * O * N

 

モーパッサンの短編にみられる逆説的表現について - H * O * N