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『幸福論』ヒルティ著、草間平作訳(2/3)

ストア派

 

続きです。

 

サラダはどれほどで売られるか。多分1グロッセンぐらいであろう。さて今、ある人が自分のもっている1グロッセンを支払って、その代わりにサラダを得たとする。君は金を手離さず、何物も得なかったとする。しかし、きみはその人よりも決して少なく持っているわけではない。彼は彼のサラダを持っているし、きみはきみの手離さなかった金を持っている。

…それが有利だと思われるなら、きみはその対価を支払うがよい。しかし与えずに受け取ろうとするなら、きみは貪欲な愚か者である。

 

 

きみはオリンピアの競技で賞を得たいと思う。…しかしそうした仕事には何が先立ち、何が続いて起こるのかをまず最初に熟考して、それから着手するがよい。君はきびしい訓練を続け、強制的な規則に従って食事をとり、一切の美味を遠ざけ、厳重な命令に従って一定の時間、寒暑をおかして練習しなければならない。…こういうことを十分よく考えてみたうえで、なお気が向くなら、その時初めて闘技者になるがよい。さもなければきみは、あるときは力士を、あるときは剣士を真似し、あるときはラッパ手を、あるときは俳優を演じてみる子供と同じようにふるまうことになるだろう。

 

次のような論理は間違っている、「私はお前より富んでいる、だから、私はお前よりまさっている。」「私はお前より能弁である。だから、私はお前よりすぐれている。」正しい論理はただ次のようなものだけである、「私はお前より富んでいる、それゆえ、わたしの経済状態はお前のよりよい。」「私はお前より能弁である。だから、私の話し方はお前のよりよい。」けれども、きみ自身は、財産でもなければ、言葉の使い方でもないのである。

 

自動で動いていく思考に歯止めをかけるという意味で、仏教の「観照」を彷彿とさせる方法論だと思います。瞑想の仕方をレクチャーした本に、「動き回る思考を観察する自己をイメージする」というようなことが描かれていましたが、ここで上げている例もまた、思考が自動で動き始めるその瞬間をとらえて、警告を加えるタイプのものだと思います。

 

■ドラマ論

 

絶えず成功するということは、ただ臆病者にとってのみ必要である。いな、われわれはさらに一歩進めて、こういうことができる。すなわち、事柄そのものが重大な意義あるものである場合、最大の成功の秘密は不成功である、と。最も大きな魅力を持ち、長く全国民の間に思い出を残すような人々は、決して成功によってこのような偉大な目標に到達したのではない。シーザアやナポレオンにしても、もしもブルータスがなく、ワルテルローの敗戦やセントヘレナ島がなかったら、単に一人の暴君として歴史に伝えられたであろう。

幸福を論じているうちにこのようなドラマ論になっていくことはしばしばあると思います。偉人の話だけではなく、自分個人の人生のことを考えてみても、最も輝いていたと記憶されている時代が、失敗の時代だった、ということはよくあって、かなり納得できる話だと思います。

 

■孤独

 

ある程度の孤独を愛することは、静かな精神の発展のためにも、また、およそ真実の幸福のためにも、絶対に必要である。人生のいかなる偶然性にも左右されることなく、そして実際に到達することのできる幸福は、ある大きな思想に生きて、それのためにたゆまず着実な仕事を続ける生活のうちに見出されるものだ。これは自然、全ての無益な「社交」を排斥することになる。「その他の一切は、要するに空虚な、そして無意味なものである。」こうした仕方によってのみ人は、次第に「気分」の支配から逃れて、もはや他人のことをあまり気にかけず、彼らの意見や好みの変化を平静な心で眺めることができるようになる。

この本ではここで言う仕事が信仰に関する仕事になっていく流れで、そこはちょっと考える余地があると思いますが、それ以外の部分は同意できます。

 

■二兎を追わないこと

 

相容れない二つのものを同時に求めないという習慣を養うべきである。いわゆる「失敗した人生」の欠点はすべて、この二兎を追う愚にあるのだ。…人生の財宝は、堅固な道徳的確信、精神の良い教養、愛、誠実、仕事の能力と仕事のたのしみ、精神および肉体の健康、そしてほどよい財産である。…これらと相容れないものは、富、大きな名誉と権力、そして不断の享楽である。

ちょっと説教臭いですが、これも直感的にそうなんじゃないかと思います。後半のギラギラ系の価値を本当に諦めるにはそれらが前半のホンワカ系の価値と両立しないという厳密な検証が必要だと思います。が、テレビに出てるお金持ち、セレブといわれる人たちを見てると両立しなさそうという帰納的な結論はうっすら見えていると思います。この文章の二兎は所与のものとして与えられた感が強いですが、もっと一般的で対立関係がわかりやすい二兎、およびその二兎を追って不幸になること、というのはよくあると思います。上のストア派のサラダと一グロッセンの話なんかはまさにそうだと思います。

 

■自由意思

 

あせって、落ち着きなく働いた結果は、概して大したものではない。人間と活動の多くの分野で、今日のあせりと過労なしに、今日よりもずっと多くの仕事を仕上げた時代と人々があった。…第一に必要なことは、自分の意思なしに一般の潮流に押し流されることなく、むしろこれに抵抗して、あくまで自由人として生活しようという決心であって、仕事にせよ、享楽にせよ、決してその奴隷となってはならないのである。

至言ですね。先輩方が働いているのを横目に定時で帰るときには本書のこの言葉を思い出して勇気を奮い起こしています。仕事だけでなく享楽についてもその奴隷となることを戒めているのも着眼点が素晴らしいと思います。漫然と残業している状態と、漫然とゲームをしている状態は実はよく似ているというわけです。確かにそういわれれば頷ける部分があって、どちらも「やめる」という判断の先送りの結果だと言えると思います。

 

■続・仕事論

 

規則正しい生活を著しく容易にするものは、もちろん一定の職業である。…自分で経験した人は誰でも知っていることだが、われわれは兵役に服しているときほど―――もっとも家老の場合は別だが―――体の具合のいいことはない。

 

最近休みの日よりも平日の方が元気だということに気付きました。

 

あまり自分自身を大事がらないことである。いいかえれば、時間、場所、位置、気乗りや気分などの準備に長い暇をかけないことだ。

 

…小さい時間の断片の利用である。多くの人は仕事にとりかかる前に、何物にも妨げられない無限の時間の大平原を目の前に持ちたいと思うからこそ、彼らは時間を持たないのだ。

 

この二つは何らかの仕組みとかルールとかで実践できそうだと思います。どんなに疲れていても机に座って教科書ノートひらいて鉛筆を持つ、みたいな

 

時間節約の主な方法の一つは、仕事の対象を変えることである。仕事の変化はほとんど完全な休息と同様の効果がある。

 

これ意識的にできたらすごいですねー。

 

もう一つの有効な時間節約方法は、すべてのことをただ「仮に」あるいは一時的にではなく、すぐにきちんとやることである。

 

シブいです。