join the にほんブログ村 小説ブログへ follow us in feedly

『魔女と呼ばれた少女』に寄せて ~感動の分類~

『魔女と呼ばれた少女』というのは、映画のタイトルで、簡単に言うと内戦が続くアフリカのどっかの国で、ひどい目に遭う少女の話です。某サイトの評価が非常に高かったので観たのですが、自分的には微妙でした。その所感に至った理由をあれこれ考えるうちに、思うところあり、筆を執った次第です。

 

 

■評価が高い

さっきも言ったように、本作に対する世間の評価は高いです。しかしその評価の根拠を見てみると、物語の設定に言及して高評価をつけているコメントが多くあるように感じました。「アフリカでこのような非人道的な行為が行われていると知り、衝撃を受けました、星5つ」という風にです。確かにこういった我々が知りえない世界のルポルタージュが我々の心を打つことがあるということは理解できますが、それはあくまでルポルタージュ的感動、ジャーナリズム的な感動で、シネマ的な感動ではないと思いました。

 

なんというか、映画を見に来たのに

公民のお勉強

をさせられている気分になるんですよ笑

 

■感動の分類

今回の現象を極論して、文学において、設定やエンド、結果といった事実に類する事柄が呼ぶ感動、という概念を想定したいと思います。

 

文学において、設定やエンド、結果といった事実に類する事柄が呼ぶ感動、という概念

 

例えば今作のように、悲惨なアフリカの現状を描いて、それが我々日本人の日常とあまりにかけ離れており、そのことが我々に大きな衝撃を与えたとして、それは、ノンフィクション風の本作のもっともらしい設定から得た大きな衝撃、感動なので先に述べた事実からくる感動、ということができます。

 

さらに、すごいヒーローが超美人のプリンセスをすごい嫌な悪者の手から救い出して、ついでにその悪者をぶちのめしたあとにどっか遠くに行って、いつまでも姫様と二人で幸せに暮らしたとして、その作品を読んだ時に我々読者が感じる安心感や幸福感というのは、ヒーローに感情移入して嫌な奴をぶちのめすことや、プリンセスと甘い生活を営むことを想像したことによる感動であって、これも物語のハッピーエンドという事実に立脚した感動である、ということができると思います。

 

逆に、物語の中の事実に立脚しない感動、というものを想定することもできます。設定は平凡で、エンドもバッドエンド、というような作品です。あるいは、設定が突飛でも、ハッピーエンドでも、それら作品の中の事実からくる感動に依存せず存在する作品ということもできます。これらの作品が持つ感動というのは、先に述べた、事実に立脚する感動とは一線を画するものであると思います。設定も普通、結果も普通なのに、なぜそこに感動が生まれるのでしょうか。それは、普通の設定から普通の結果を生み出す、過程の中に何か特別なものがあるからだと思います。

 

設定から結果に至る過程が呼ぶ感動

 

■人間は過程に生きる存在である

人類史に残るほどの偉業を達成する人間、というのはかなりまれだと思います。多くの人間は、どこにでもあるような出生、経歴を持って生まれ、勉学でも仕事でもどこにでもあるような結果を残して、どこにでもあるような家庭を築くものだと思います。社会の歯車とか、替えが効く存在とか、人間が社会を作って生まれた、一人ひとりの人間の個性が軽んじられる、いわゆる人間疎外の状況を指摘する言葉は、死語にならずに現在でもよく使われますが、そういうもっともな指摘を受けて、自身の没個性っぷりを悲観して自殺を図る人、というのは、その対象者に比して案外少ないと思います。そして、そのように自分の人生に何らの新奇性がなく、これからの発展性もないということを絶望的に理解しても、やはり人間がその普通の自分の人生に固執するのは、ひとえに過程のためである、ということができると思います。

 

自分が自分の人生で創造するすべてのものが、全体から見るとゼロに等しくとも、その過程で自分が感じたことというのは唯一のものです。そう考えると、先ほどの事実による感動というのは、人生の喜びからは遠いものである、と言えます。今作のように、ノンフィクション風の物語の激しい設定による感動というのは、学問で何か新しいことを学んだ時の感動と似ています。新しいことを知る知的好奇心の満足が感動を呼ぶ、という単純なものです。ハッピーエンドによる感動というのは、嘘の感動ということができます。物語の中で悪者をやっつけても、現実には越えられない壁があるものです。その壁は誰かほかの人かもしれませんし、技術的、自然法則的な制約かもしれません。いずれにせよ、物語の中で想定されている全く完全な成功、という状況は存在しないといえます。

 

一方で、過程による感動というのは、その物語の内容そのものが虚構でも、我々に真実を教えているといえると思います。我々が自分の人生を愛しく思うとき、我々は人生の結果を見ているのはなく、過程を見ているはずだということは、先に述べた通り明らかであって、過程にクローズアップした作品が示すのは、その自分の人生の愛し方であると思います。

 

結果による感動よりも、過程による感動の方が、人生の喜びに近い

 

  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

この作品に言及しました。

 

 

過程に注目した作品については、下記の作品を想定しながら書きました。