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『午後の曳航』三島由紀夫著

■読み終わった最初の印象

は、

めちゃくちゃカッコイイレトリックで書かれた悪趣味な前衛芸術

でした。普段海外の文豪の著作の訳書をよく読むので、文豪が自国語で書いた文の威力というのが強烈で非常に印象的でした。

 

 

海をしじゅう見ている目はこうなのだろうか。思いがけない一点の船影の発見と、その不安と喜びと、警戒と期待と、…見られた船にとっても、海の距離だけが辛うじてその無礼を恕すに足る破壊的な眼差。

房子はこんな風に見られて、軽く身震いした。

ついに洛陽丸は、港全体を揺るがし、市内のどの窓辺にも届き、夕食の支度の厨(くりや)にも、小さなホテルのシーツを代えない寝台にも、留守の間の子供の机にも、学校にも、テニス・コートにも、墓地にも、いたるところへ押し寄せてそこをしばらく悲哀で充たし、何のかかわりもない人の心をも容赦なく引き裂く、あの巨大な出帆の汽笛を鳴りひびかせた。煙は白く、船はまっすぐに沖へ向かった。竜二の姿は見失われた。

汽笛の音が鳴りながら、舞台の市内の様々なシーンがつぎはぎで写される映像作品のような演出です。

海や船や航海の幻は、その青い輝やく一滴の中にしか存在しない。日ましに竜二には忌まわしい陸の日常の匂いがしみついた。家庭的な匂い、隣り近所の匂い、平和の匂い、魚を焼く匂い、挨拶の匂い、いつまでもそこに在って微動にしない家具たちの匂い、家計簿の匂い、週末旅行の匂い、……陸の人間が多かれ少なかれ身につけているこれらの死臭。

しかし逆にシナリオは背徳的でグロテスクで、目を背けたくなるシーンが何か所かありました。本書の登場人物が語る死への崇拝のような思想にも共感できませんでした。

■田中美代子氏の解説

を読んで初めて本書の意図がわかりました。この作品は、

理想と現実の妥協を拒否する作品

ということができると思います。本書のシナリオは、船乗りの「竜二」と、「房子」の出会いと結婚までを描いた部分と、その一連の話を監視している房子の息子「登」の心象と、彼と彼の仲間たちとの企てを描いた部分の二重構造をしています。前者のストーリーはよくあるメロドラマ風の筋書きで、逆に後者のストーリーは神秘主義的、悪魔崇拝的な筋書きです。そして航海の果てに自分の望んだ理想などどこにもなかったことを悟り、陸で暮らす父親という現実に妥協しつつある前者を、説明不可能な理想を持った可能性の体現者たる後者が、破壊し否定する、というわけです。

…第一のテーマである大衆小説のヴァリエーションは危機に瀕しているからだ。それは永遠の涙の別れで幕切れとならずに、その先がある。つまり、誠実な水夫は無事に帰還して女と結婚する運びとなる。それこそおなじみのメロドラマには決して付け加えられることのなかった幸福と、平和と日常生活の惰性である。悲劇は崩壊して、そのつづきに永い退屈なホームドラマの季節がやってくる、というわけだ。

夢想家は、ついに「理想の生活」とは、「夢想」するためにあって「生活」するためにはない、ということを悟る

登の背徳的な理想も、この設定のための必然であったとわかりました。理想というのは各個人間で完全には共有できないものであると思います。理想に忠実であればあるほど自分の理想と他者の理想の相違点が目について耐えがたくなってきます。自分と似ている近しい友人でも、深く付き合って行けばどこかで感じ方が違うと実感する瞬間が訪れます。登の理解しがたい神秘主義は、他者が抱く理想の不可解さを拡大した姿なのだと思います。

簡単な象徴と骨組みに分解されてしまう小説に、頭の良い読者は、不満を漏らすかもしれない。しかしそういう人は知らないのだ。有毒な現実を、清潔な記号と図式に解体させる視線以外に、この世界には語るべきものなどありはしないのだということを。

そしてまた、本作からは小説という表現形態への挑戦のようなものも感じました。現実を清潔な記号と図式に解体した創作作品の中で、リアリティを追求していくと、本作が指摘しているような英雄の堕落のようなテーマも書かざるを得ないと思います。悲劇の崩壊と、その続きの長い退屈なホームドラマということです。本作では死という形で強引に堕落を回避していますが、この方法は、創作作品の理想と現実の折り合いをつけるための実験の一つなのだと思います。

 

■解釈を踏まえて

そんな本作のコンセプトから、三島由紀夫という作家の、創作活動へのストイックさを感じました。と同時に、一読者としてはそこまで深刻にならなくても…と思います。というのも作者は小説「家」であって、小説は作者にとって仕事であり、人生の大部分ですが、読者は必ずしも読書「家」ではなく、小説は読者にとって人生の大部分であることは、そう多くないと思われ、また小説が人生の大部分を占める読者はいささか不健康ですらあると思われるからです。

作者は小説「家」だが、読者は必ずしも読書「家」ではない

ストーリーのリアリズムの問題にしたって、小説の世界が厳密にリアルではないことは、ほとんどの読者の認めるところだと思います。現実では人生のすべてをかけた一目惚れが実らないこともあるし、サイコーの仲間たちと甲子園に行けないこともあります。だからと言って小説で描かれる美しい主題が虚飾であり無価値かというとそうではないと思います。うまくいかない、理不尽にまみれた現実を生きながら、時々小説を読んでその中の英雄的行為にほろっとする、そういうことが明日からまた理不尽な世界でやっていく救いになることもあると思います。小説のような胸すく展開を夢見て、泥臭く曲がりくねって進んでいくなかで、失敗や成功が何度もあって、迷いや後悔と、感動や至福が同居していていいのだと思います。