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『異邦人』カミュ著、窪田啓作訳

主人公のムルソーが、ふとしたきっかけで人を殺し、死刑を宣告される話です。ムルソーは、普通の社会生活を営んでいるように見えます。経済的な事情から親を養老院に入れていること、職場で知り合った女性と恋に落ちたこと、少しアウトローな友人と近所づきあいしていること、といった個々の事情は、それ単体では何ら違法性がなく、取るに足らないことです。しかしムルソーが殺人を犯した途端、それらのことがまるで原因であるかのように司法から糾弾を受けます。つまり、親を施設に入れたことや、親の葬式のすぐ後に恋人と海に行ったことをもって彼の倫理観の欠如を、アウトローな友人の存在をもって彼の反社会性を、説明しようとします。それらに反駁して、自分が本当に罪を犯した理由は、

 

太陽のせいだ

 

というセリフは有名だと思います。私も読む前からここだけは知っていました。

 

裁判長は、…弁護人の陳述を聞く前に、あなたの行動を呼び起こした動機をはっきりしてもらえれば幸いだ、といった。私は、早口に少し言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。廷内に笑い声があがった。弁護人は肩をすくめた。

■行動の動機の説明不可能性

ムルソーは自分の罪の動機を法廷で説明できず、また私は読者として、ムルソーの罪の動機を理解できませんでした。合理的な一つの説明は、友人の敵であるアラビア人を排除することで、友人を守ろうとしたというものになると思いますが、理由として弱いと思います。殺害という最も過激な方法を選択したこと、何度も執拗に銃弾を撃ち込んでいることに説明がつかないように思われます。

 

しかし、何かまずい選択を理由もなく選んでしまう気持ちは、わかる気がします。例えば、何か重要な式典などで、突然笑い声をあげそうになった経験はないでしょうか。この種の想像は危険です。なぜならそのシチュエーションを想像することがより笑いを促し、しばしば実際に吹き出してしまう、という結果を生ずるからです。私は学生の頃卒業式でこれをやってしまったことがありましたし、その卒業式のリハーサルで同じ症状にあるであろう同級生を目撃したこともあります。本書の衝動もこの種のものではないかと思います。友人の安全という希薄な動機は、動機というよりただのきっかけにすぎず、何か大きなエネルギーが、ほんの小さなきっかけに背中を押されるのを待っていて、ひとたび転がり出したら有無を言わさず状況に巻き込まれていくような印象を受けました。

 

動機なく選択してしまう状況というのは存在する

 

■進んでいく状況

逮捕から裁判までの流れの描写で、友人の敵であるアラビア人の殺害と、法廷での受け答え以外では、ムルソーは普通の感覚であったことが垣間見られます。例えば、留置所で監禁されているシーン、

 

留置されて最初のうち、それでも、一番つらかったことは、私が自由人の考え方をしていたことだった。例えば、浜へ出て、海へと降りてゆきたいという欲望に捕らわれた。足元の草に寄せる磯波のひびき、からだを水にひたす感触、水の中での解放感―――こうしたものを思い浮かべると、急に、この監獄の壁がどれほどせせこましいかを、感じた。これが数か月続いた。それから後は、もう私には囚人の考え方しかできなかった。私は、中庭での毎日のおきまりの散歩や、弁護士の訪問を待っていた。残りの時間はうまく処理した。

人間の感じる快楽と苦痛というようなものが、外からの刺激に対する反応と慣れであって、このシーンから、ムルソーがいまある刺激の状況に適応していくタイプのごく普通の人間であることがわかります。

 

また、法廷に連行されて陪審員と会うシーン、

 

これが陪審人だということを、私は理解した。しかし、その一人を他から区別していた特徴を言うことができない。私にはただ一つの印象しかなかった。それは私が電車の座席の前に立っていて、その名も知れぬ乗客という乗客が、何かおかしなところを見つけ出そうとして、新しく乗ってきた客を、じろじろうかがっているようなものだった。

このシーンから、ムルソーが法廷に被告人として出廷して、当然感じるべき疎外感を感じていたこと、しかし陪審員の側にある正義のようなものは、電車の乗客が新しく入ってきた客に向ける根拠のない警戒や疑念に等しいと感じたということがわかります。

 

そして、

 

裁判所を出て、車に乗るとき、ほんの一瞬、私は夏の夕べのかおりと色とを感じた。護送車の薄闇の中で、私の愛する一つの街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとあらゆる親しい物音を、まるで自分の疲労の底から湧き出してくるように、一つ一つ味わった。すでにやわらいだ大気の中の、新聞売りの叫び。辻公園の中の最後の鳥たち。サンドイッチ売りの叫び声。街の高みの曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜がおりる前の、あの空のざわめき。―――こうしたすべてが、私のために、盲人の道案内のようなものを、つくりなしていた。―――それは刑務所に入る以前、私の良く知っていたものだった。そうだ、ずっと久しい以前、私が楽しく思ったのは、このひとときだった。そのとき私を待ち受けていたものは、相変わらず、夢も見ない、軽やかな眠りだった。けれどももう何かが変わっていたのだ。明日への期待とともに、私が再び見出したのは自分の独房だったから。あたかも、夏空の中に引かれた親しい道が、無垢のまどろみへも通じ、また獄舎へも通じうる、というように。

この護送のシーンでは、垣間見えた外の景色から喚起されるノスタルジーを感じながら、有無を言わせない状況の進行に静かに諦めていることがわかります。

 

ムルソーの人となり

基本的に受け身で、よく適応するムルソーですが、一つ際立った特徴があります。彼は

 

嘘をつけない人

 

なのです。そのことがよくわかる、マリイの求婚のシーン、

 

夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているのか、と聞いてきた。前に一ぺんいったとおり、それには何の意味もないが、おそらくは君を愛してはいないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜ私と結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むのなら、一緒になっても構わないのだ、と説明した。それに、結婚を要求してきたのは彼女の方で、私の方はそれを受けただけのことだ。すると、結婚というのは重大な問題だ、と彼女は詰め寄ってきたから、私は、違う、と答えた。

ここは普通なら「愛しているとか何とか」いうシーンだということは、普通の人間にならわかると思います。いわゆる「空気を読む」というやつです。この無意味な押し問答から、ムルソーは空気を読む能力、あるいはその意思が決定的に欠けた人物である、ということがわかります。

 

空気を読まない主人公

 

■本作の主題

空気を読んで本音と建て前を使い分けること、動機もなく(多くの場合まずい)選択をしてしまうこと、これらの性質は、人間が生まれながらに持つ反社会性の所産であると言えると思います。前者は利己的で動物的な側面を持つ人間が社会になじむべくふるまった結果ですし、後者はそんな社会性を志向する人間が時にミスを犯し、その結果として生まれた反社会的、他人に理解不能な行動です。これらを体現したムルソーというキャラクターが、反社会的な要素を自動で排除する機構を持つ社会に、有無を言わせず排除される様を描くことで、読者の中のそういった反社会性、反社会性を想像する心の動きが直接指弾されたかのような後味に仕上がっていると思います。

 

そういったわけで、本作の主題は、社会を構成する万人の反社会性であり、読む人の中の隠匿され飾り立てられた反社会性が読書という体験の中で暴露されていくことが狙いなのだと思います。

 

社会の構成員たる人間がもつ反社会性