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『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ著、村上春樹訳

カポーティの著作は、この前『冷血』を読みまして、それ自体は取り立ててすごいというわけではなかったのですが、その時にカポーティという作家が有名らしいということを知りまして、古本屋の棚にそのカポーティの作品があったことで手に取ったのが本書です。購入してから、あの村上春樹氏の訳だったことに気づき、同氏がご自身の個性を前面に押し出してしまっているとワケワカラン感じになってしまっているのでは、という危惧があったのですが、そんなこともなく、非常に素晴らしい作品でした。またこれも購入してから気づいたのですが、本書は表題作『ティファニーで朝食を』を含む短編集で、表題作以外の3本の短編も名作揃いでした。

 

 

■ヒロインの魅力の語り手問題

この作品は、持ち前の美貌で社交界を刹那的に生きるプレイガール「ホリー」の隆盛と凋落を、彼女のアパートの隣人「僕」の視点から描いた作品です。「僕」はというと、売れない小説家で、金も地位もない、冴えない青年です。ホリーの活躍する社交界に参戦すらしていません。ただ彼女とアパートが同じという縁で、彼女の栄枯盛衰を目撃し、ときに手助けし、その中で、恋愛関係でない友好や決裂を経験したというだけです。にもかかわらず、この「僕」という、ホリーの人生における「チョイ役」が彼女の魅力を語るという大役を担っているというのは興味深い所です。

 

この観察者と対象との絶妙に遠い距離が、彼女の魅力を語るときの武器になっていると思います。僕の目から見たホリーは、毎晩のようにパーティーを開いて煌びやかな衣装と光の中で幸福と成功を体現しているように見え、また刑務所で老いた囚人の話し相手になるという善意のアルバイトをやっていること、戦争に行った兄がいること、その他様々な彼女に関する事実の断片の集合として僕の目に映ります。それら虚実合わさった情報が結ぶ彼女の像も、その情報と同じく曖昧模糊として、非常にミステリアスなわけです。僕はこのつかみどころのない情報の海で、彼女の姿を求め続けたその他大勢だった、ということができると思います。彼女の実情を語るには、彼女に関する事実をよりよく知る人、女優としての彼女のマネージャーや、上京前に彼女と夫婦だった田舎の獣医が適していますし、実際に彼らはこの物語に登場しはしますが、彼女の魅力を語るには、彼女の本質をより強く、より長く求道した「僕」のようなキャラクターがふさわしいのだと思います。

 

彼女の魅力を語れるのは、彼女のことをよく知る人物ではなく、彼女のことをよく求めた人物である。

 

「僕」と同じ立ち位置の登場人物として、僕とホリーの行きつけのバーのマスター「ジョー・ベル」がいます。彼の求道者っぷりも僕に劣らないものがあります。

 

「…ここに散歩好きな男がいる。おれみたいな男だ。その男は十年かそこらずっと通りを歩き続けてきた。そのあいだ彼の目は一人の人間だけを求めてきた。しかしその姿はどこにも見当たらなかった。彼女がこの町に住んでいないということは、これで証明されるんじゃないかね?部分的にはしょっちゅう見かけているよ。ぺちゃんこの小さなお尻、せかせかとまっすぐ歩いていく痩せた娘たち―――。」

この登場人物も、圏外から彼女を求め続けたキャラクターです。先に引用したのは主人公の僕とベルが、後日談で消息を絶った彼女の行方を話し合うシーンの引用です。新海誠監督の「秒速五センチメートル」に通づる求道がそこに見出されると思います。主人公の僕と並んで、このベルもホリーの魅力を語ることのできるキャラクターだと思います。

 

秒速五センチメートル - H * O * N

 

ティファニーとは

最初にタイトルを読んだ時、まず最初に思ったのは、ティファニーって何?という疑問でした。そのあと朝食を、と続くので、まあオシャレなカフェ的な何かなのか?と思っていたんですが、調べてみると宝石店みたいです。しかも最近の2017年11月にティファニー本店がカフェをオープンし、実際にティファニーで朝食をとることができるようになったそうです。

 

「ティファニーで朝食を」がリアルに! - 繊研新聞電子版

 

朝食は29ドルだそうです。グレートですね(白目)

 

本書でティファニーに言及した箇所としては、

 

「…自分といろんなものごとがひとつになれる場所を見つけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところはまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」、彼女は微笑んで、猫を床に下ろした。「それはティファニーみたいなところなの」

というのがあります。これはホリーが僕に語り掛ける箇所で、この後、漠然とした不安を感じたときにティファニーに行くと、心が軽くなる、という述懐が続きます。ここの記述から、つまりティファニーは非日常の象徴であり、ホリーにとっての目標、憧れであって、読者や主人公のあこがれの的であるホリーもまた、自分の理想を求道しているのだということがわかると思います。

 

■ホリーを誰で想像するか問題

訳者あとがきで、村上春樹氏が、

 

「ホリー・ゴライドリーという女性はいったいどんな姿かたちをしているんだろう?」と一人ひとりの読者が、話を読み進めながら想像力をたくましくすることが、このようなタイプの小説を読むときの大きな楽しみになってくる。

ということを書いています。私もそう思います。先ほどから述べていることを踏まえて考えると、ホリーの姿かたちには、読者各人が体験した

 

片思いの恋の相手

 

が適切だと思います。街中でふと探してしまうような、あるいは何年もあとに夢の中に出てくるようなそんな女性です。そういう姿かたちのホリーと、いつも傍観者の自分という設定で、その人に対するあこがれを追体験して、自分の思い出の中の失恋と、本書のホリーの退場の余韻が混ざり合ったとき、この作品をよりよく理解できたと言えるのではないかと思います。