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夢のクレヨン王国

この作品は、1997年-1999年にかけて放映されたアニメです。

 

夢のクレヨン王国 - Wikipedia

 

オープニングとエンディングが印象的なので名前は憶えていなくても聞くと思いだす人もいるかと思います。

 

夢のクレヨン王国OP「ン・パカ マーチ」徳光由香・東京少年少女合唱隊 - Youtube

 

夢のクレヨン王国 エンディング ありのままに(杉山加奈・1997) - Youtube

 

■あらすじ・みどころ

1期は封印を解かれてクレヨン王国に災厄をもたらす死神を再び封印するため、クレヨン王国王女であるシルバーが王国内を旅する話で、2期はこちらも封印を解かれて魔法でいたずらする天使を何とかするため、クレヨン王国王女であるシルバーが王国内を旅する話です。この作品のみどころは、旅先で様々な経験をしながら成長していくシルバー王女の成長ぶりだと思います。

 

■成長とは

とくに感銘を受けたのは、この作品における「成長」のとらえ方です。シルバーが憧れの先代の女王「武烈」に会うシーンで、成長とはどういうことか直接言及されています。それによると、

悪い癖は、治すのではなく、肯定的にとらえ直すべきである

とされています。シルバー王女には12の悪い癖があり、側近や教育係からことあるごとに小言を言われているのですが、最終的に悪い癖を一つも改めない、というのが重要なポイントだと思います。旅先で失敗しても、まったく反省しない、懲りない回が少なくありません。作品のシナリオそのものを通して、悪い癖を改めるべきでない、ということを主張しているのだと思います。そしてその論拠となるのがこの作品による感動なのです。悪い癖を持ったままのシルバーがその癖のおかげで失敗しつつも、その癖の源泉である彼女の本性に従って、素晴らしい行動や振る舞いを見せるとき生まれる感動は、非常に心に効きます。これが作品のリアリティであり、説得力ということだと思います。

悪い癖と、慈悲深い素晴らしい振る舞いとが、共に源泉とする彼女の本性

 

■名作の条件

素晴らしい作品とはかくのごとく、人間の本性を礼賛しているものであると思います。素晴らしい振る舞い、美しい見識をほめただけでは、その作品が語るべき内容の半分にすぎず、それら素晴らしいものを生み出すそのキャラクターの本性が、醜悪で情けないものをも生み出しており、その事実が、素晴らしいものとその源泉たる人間の本性の美の表現になっていなくてはならないと思います。この作品で、悪い癖を改めるべきではないという主張がなされるのも、悪い癖を生み出しうるという事実は人間の本性にとって欠くことのできない要素であり、それを肯定したうえで素晴らしい振る舞いが生まれているという思想に基づいているのだと思います。

 

名作は、人間の本性を礼賛する

 

■最終話の解釈

この作品の最終話は意味深です。事実を整理すると、お父さんとお母さんが子供に読んで聞かせている物語が「夢のクレヨン王国」であるという描写が最初にあり、お話を読み終わったお父さんとお母さんが、「折れたり小さくなったりしたクレヨンがいつの間にかなくなっている」ことについて話をし、二人で不思議がっていると、物語を読み聞かせられた兄妹が、「折れたり小さくなったりしたクレヨンはクレヨン王国に行って幸せに暮らしているんだ」と逆に教える、という内容です。

 

これを最初に見た時、どう解釈したものかと悩みました。いろいろネットを調べているうちに、素晴らしい知見に出会い、解釈がまとまりました。

 

アニメ夢のクレヨン王国の最終回で、シルバー… - Yahoo!知恵袋

 

この回答者様の発言は至言だと思います。特に、

ファンタジーとは、現実に目をつぶって立て籠もるための逃避先ではありません。

真のファンタジーは、すぐれて現実の鏡です。

クレヨン王国とは、

そういった「現実にはどこにもないが、だれの心にも必ずある」という真のファンタジー

ありようの象徴なのだと思います。

先に述べた「名作の条件」でも言いたいのはこのことです。名作には必ずリアリティが必要なのであり、人間の素晴らしい行いをよりリアルに描くには人間の本性に迫る必要があり、その際に人間の本性が生み出す醜悪で情けない部分は避けて通れないということです。

 

さて、この記事を踏まえて最終話を考えると、「夢のクレヨン王国」読了後の描写は、

 

物語を読み聞かせられた兄妹が、物語を正しく受け取った

 

描写であると言えると思います。

 

「折れたり小さくなったりしたクレヨンはクレヨン王国に行って幸せに暮らしている」という描写は、物語の中には出てこないものと思われます。物語を読んで聞かせた両親が、その設定を知らないような振る舞いをしているからです。ですのでこの設定は、この兄妹の創作であり、この、設定を創作する、という行為がまさに、「クレヨン王国が心の中にある状態」であり、物語を正しく受け取るということだと思います。

 

また、「折れたり小さくなったりしたクレヨン」というのはいかにも物事の終わりを予感させる切なげな印象です。しかしまた、使うと小さくなり、時には折れてしまうのはクレヨンの宿命といえるでしょう。ですので「折れたり小さくなったりしたクレヨン」というのは、「生きていく中でどうにもならない悲しいこと」の暗喩であると言えると思います。そして「折れたり小さくなったりしたクレヨンはクレヨン王国に行って幸せに暮らしている」という設定は、どうにもならない悲しみに出会ったとき、心の中のファンタジーの王国が慰め、癒しになる、というこの作品の存在意義を示唆する描写なのだと思います。

 

■要するに

最終話のこの描写は、

物語を受け取った幼い兄妹(読者)が、それを現実で出会うどうしようもない悲しいことに立ち向かい克服する糧とする

描写だと思います。