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【意味】『道徳形而上学原論』カント著【不明】

深秋の候、皆様におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。年がら年中読書をしていますが、読書の秋、ということで、この時期、深まる秋の空気を感じながら喫茶店などに出向いてのんびり読書などするのもまた格別な趣がありますね。

 

こちらは、よくモーニングと読書で利用している喫茶店です。家からは少し遠いのですが、ここら辺ではコーヒー、料理共にダントツでおいしくて雰囲気も素敵なお気に入りの店です。

 

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読書は基本的に読みたい本を読みたいように、読みたいだけ読めばいいのですが、それでもやはり本を読んでいる自分を強く意識してしまうのは読書家の性というものです。そこそこ年齢を重ねてくるといつまでも剣と魔法のファンタジーや、恋と部活の青春モノを読んでいるのも正直どうかなあ、と思ったり…(笑)

 

 

 

そんな私が最近読了したのはコレ↓

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道徳形而上学原論(カント)です。

いやー自慢みたいになってたらホントすいません(笑)やっぱり長年読書やってるとやっぱ行くところまで行きついちゃいますよね、みたいな?

 

前置きが長くなってしまいました。以降、僕なりの感想を書いていきます。

 

■要するに

なんだろう…。すごい率直なことを言うと…

 

分かりません。

 

全く分かりません。難しいとか簡単とかいう話じゃなくて何の話をしてるのかがわからないですこの本。もういきなり序文から

 

いっさいの理性認識は―――実質的であって、何らかの対象を考察するものであるか、それとも形式的であって、対象の差別にかかわりなく、悟性や理性そのものの形式と、思惟一般の普遍的規則とを攻究するものであるか、二つのうちいずれかである。

ところで論理学は、経験的部分を含むことができない、それは―――思惟の普遍的、必然的法則の根拠は、経験から得られたものであってはならないということである。もしそうだとしたら、そのような学は論理学ではないだろう、およそ論理学は、悟性あるいは理性にとって、いっさいの思惟に例外なく通用し、またこれらの思惟において直接に証示されなければならないような基準でなければならない。

 

ですからね。思惟一般の普遍的規則を攻究する理性認識ってどういうこと?そんな認識普通します?

 

道徳性の純正な最高原則―――すなわち一切の経験にかかわりなく、まったく純粋理性のみにもとづかねばならないような原則があるとすれば、道徳性に関する諸概念はこれらの概念に属する諸原則とともに、ア・プリオリに確立されているわけだから、これを普遍的な形で示すのがよいかどうかなどということは、いまさら問題にならないと思うのである、ましてこの認識は、普通の認識から区別されて、哲学的と称せられてしかるべき認識なのである。しかし現代では、やはりこういう事もおそらく必要なのであろう。じっさい、いっさいの経験的なものを排除した純粋な理性認識としての道徳形而上学と、通俗的な実践哲学とのいずれを選ぶかという問題に関して賛否の投票を集めるとしたら、どちらの側が優勢であるかは、容易に推測できるくらいである。

 

全然容易に推測できません!

 

この構文は、いわゆる「極端な例を示すことで読者の理解を助ける系」の構文なのですが、極端な例ですらすでに分かりません。

 

■先人の足跡

この本は古本で買ったのですが、例の如く前の持ち主が頑張って読もうとした形跡が「1章の前半だけに」認められました。

 

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普通の簡単な自己啓発本とかでこういうことになってるとただの笑い話で済みますが、カントに関しては非常に切実で明日は我が身という感じです。

 

■そのほか

本書の理解を助けるために、カントの他の著書から語句の意味や背景の説明文が引用されているのですが、

 

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まず多い。しかもその解説すらも難解でだいぶ早い段階で読むのを諦めて本文のみを読み進めました。

 

というかそもそも…

 

道徳形而上学って何?

 

なぜタイトルの意味が分からないのに買おうと思ったのでしょうか…。

 

■結局

読書はほんとに読みたいものを読むのが一番ですね!

 

ちなみに喫茶店でこの本を実際に読んでみると、周りの席の人が様々な反応を示してくれるのでそれは面白いです。

 

具体例を含む記載に関しては、

 

…客は、商人から正直な扱いを受けるわけであるが、しかしそれだからといって商人が義務や正直の原則にもとづいてこのような行動をするとはとうてい考えられない、つまりは彼が自分の利益をおもんぱかってのことにすぎないのである。まして彼が客に対して直接に心を傾けていて、いわば愛情から或る客をほかの客から区別し、特にその人だけに値引きをするなどという扱いは、この場合に考えられ得ることではない。それだからこのような行為は、義務にもとづくものでもなければ、またその客に直接に心を傾けているために生じたものでもなくて、まったく私利をはかろうとする意図からなされたものにすぎないのである。

私が意図する行為の結果であるところの対象には、なるほど傾向は持つことができるが、しかし到底これに尊敬を致すことはできない、かかる対象は意思から生じた結果にすぎないのであって、意志そのものの働きではないからである。同様に私は、傾向性一般を―――それが私の傾向であると、他人の傾向であるとを問わず、―――尊敬することはできない、もしそれが私の傾向であれば、ただこれを傾向と認めるのが精々だし、また他人の傾向であれば、それが私自身の利益に役立つ限り、これを喜ぶことさえあるだろう。それだから結果としてでなく、あくまで根拠として私の意思と固く連結しているところのもの、私の傾向性に奉仕するのではなくてこれに打ち克つところのもの、少なくとも対象を選択する際の目算から傾向性を完全に排除するところのもの、すなわち―――まったく他をまつところのない法則自体だけが尊敬の対象でありうるし、また命令となりうるのである。

こんな感じで多少読める部分もあるので特殊な読書体験という意味では一読の価値ありだと思います。

 

これです↓