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推理小説を読まない理由

趣味は読書と称して憚らない私ですが、読まないジャンルがあります。

推理小説

です。特にミステリーが嫌いで読まないというわけではなく、何となく選ぶ本の中に推理小説が決まって入っていないということなのですが、この無意識の本のセレクトの中に、私の読書にかける思いが端的に表れているように感じました。

 

推理小説を読まない

 

推理小説、というジャンル

推理小説が、他の小説と明確に区別され、それ専用の推理小説というジャンルを獲得しているのは、推理小説の目的が、他の小説のそれとは明確に異なっているからだと思います。つまり他の小説と違って、推理小説は「謎を解くこと」を明確な目的として作られていると思います。もちろんほかの小説の中にも謎があってそれがシナリオに沿って明らかになっていく構造を持っているものはありますし、逆に推理小説の中にも、他の作品のように、単なる謎解きの楽しみで終わるのではなく、文学性の体現を達成している作品もあると思うので、その辺の境界ということになると曖昧になってくると思いますが…

 

ちなみに、推理小説の境界線上の作品としては、『氷菓米澤穂信著)』を推します。これは私が読んだ唯一といっていい推理小説で、推理小説ファンから見て謎解きの楽しみのクオリティがどうかは判りませんが、文学性の体現という意味では非常に高いレベルで達成している名作だと思います。

 

本ブログでも過去に感想を書いています。

『氷菓』米澤穂信著 感想 - H * O * N

『愚者のエンドロール』米澤穂信著 感想 - H * O * N

『クドリャフカの順番』米澤穂信著 感想(1/2) - H * O * N

『遠まわりする雛』米澤穂信著 感想 - H * O * N

 

推理小説を何となく読む気にならないのは、その目的が明確に「謎を解くこと」であると規定されてしまっているからです。推理小説に限らず他の作品の中でも、世界観だけの作品とか、キャラクターだけの作品とかは選びたくないし、誤って選んでしまったとしても(推理小説と違ってこういう作品は明確なジャンルを持たず、他の作品に紛れて世に出ることが多いので選んでしまうことは多いです)、途中で読むことをやめてしまうことが多いです。そういう作品がしばしば、世界観だけの作品、キャラクターの造形美だけの作品というように評されるように、一般に推理小説は謎解きだけの作品だということができるでしょうし、また推理小説という括り方がその状況を肯定していると思います。

 

推理小説に類するものなら、謎解きの楽しみを含んでいればよく、文学性の体現という部分については達成していなくてもOK、という状況になっていると思います。

 

推理小説というジャンルの存在は、そのジャンルに属する作品を文学性の追求を行う責任から解放している

 

■ほかの表現手段

世界観やキャラクターの造形、挙動、謎解きによるアートを達成する表現手段としては、小説の他にも映画や漫画、ゲームという手段があります。そしてその中でも小説は、最も製作者側の苦労が少ない方法だということができると思います。小説は言葉で書いてるだけですが、漫画や映画、ゲームはそういう書かれたシナリオは当然あるものとして、そこに音響とか映像とか操作とかのプラスアルファの要素を取り入れていて、その労力の差は歴然ですし、そういう作り手側の苦労が、受け手の感情移入やカタルシスにとって有効に作用していると思います。その結果として、本を一冊読むことより、漫画を一冊読むこと、映画を一本見ること、ゲームソフトを一本プレイすることの方がはるかに容易いという現状が生まれています。

 

小説という表現手段は、映画や漫画やゲームと比べて、まず製作者側の苦労が最小で、それによって最も受け手側にとってフレンドリーでない、という性質がある

 

■小説の存在意義

そのように読書は他の、シナリオを持った作品と比べて最も硬派で、参入障壁の高いものですが、しかしそれでも、私をはじめとする無知で愚かな一般大衆から高い支持を得ている理由は、小説の表現方法が最も適しているテーマが厳然と存在するからだと思います。このテーマというのが最初に述べた文学性だと思うのです。この文学性というのを具体的に言うことは難しいのですが、内容としては世界観やキャラクターの表現をしながらそれ以上のものを受け手に想起させる作用であって、またその想起させるものが普遍的で、抽象的なものなのだと思います。例えば想起させるものを「愛」として考えると、「愛」という概念を表現しようとすると、映像による表現の場合、それは世代間、あるいは文化圏間で非常に隔たりのあるものになるのではないでしょうか。異なった文化圏の作品、過去の作品を見るときにこういう差異が前面に出ているこれらの作品は、理解に非常に時間がかかると思います。その文化圏、その時代の人にとっては理解共感の一助となったはずの映像や音響といった特殊効果が、他の文化圏、他の時代の受け手にとっては障壁となっていると思います。

 

こうなると小説の方に有利で、言葉で表現しようとすると「愛」は愛であって、どの文化圏のものでも翻訳されればそれはその通りに受け取られます。実際愛をテーマにしている作品がどストレートに「愛」と記述することはあまりないと思いますが、例えば愛を感じたときの「喜び」であったとしても、喜びの表現方法として映像で伝えるよりもことばで「喜び」と書いた方が揺れが少ないと思います。

 

ここのところに小説の存在意義はあると思いますし、この文学性が見たくて私は読書を趣味としているのだと感じます。ほかの表現手段による作品ももちろん好んで鑑賞しますが、やはり趣味の第一位は「読書」であると思うのは、この文学性を目の当たりにした時の印象、感動が趣味から得る喜びの中で一番のものだからだと思います。

 

小説の得意な分野は「文学性の体現」

 

■まとめ

小説の意義をそのように感じている私にとって、推理小説や世界観小説、キャラクター小説が読むに値しないものであるというのは合理的な結果だと思います。それらの良さを味わうときに「小説」という表現手段を選ぶ必要性を感じないのです。そういうものは他の分野、映画や漫画やゲームの分野においても十分高いクオリティで表現されうるものであり、かつそれらの作品は小説のそれに比べてはるかに受け手にとってフレンドリーだからです。

 

文学性を意図しない小説は読むに値しないと感じる

 

読書が趣味である私にとって、読書とは「文学性の探求」でなければならない、ということです。

 

読書とは、「文学性の探求」である